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「徒然なるままに思うこと」から
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謎の神武東征E 「ソナカシチ」と「ツヌガアラシト」
「任那」から最初の朝貢のために蘇那曷叱知(ソナカシチ)は、崇神65年に来日し、垂仁2年に帰国したが、帰国の際に賜った品物を途中で新羅が奪ったので両国の怨が始まったと伝えられている。
彼は意富加羅国、つまり任那加羅(金官:韓国金海市)から渡来した王子・都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)と同一人とみる見解があり、「蘇那(ソナ)」は金の国、「曷(カ)」は大または加羅、「叱知(シチ)」は首長の意なので、「鉄(金属)の国を意味する素奈羅(ソナカ)」の中国風の表記と見られているのが一般的である。
そして「金官国(任那加羅)」の「王または王子」という点で「ソナカシチ」と「ツヌガアラシト」の両者は一致するのだと言う。
ではその、「ツヌガアラシト」についても見てみよう。
『日本書紀』には、別名・于斯岐阿利叱智干岐(ウシキアリシチカンキ)とあり、崇神天皇のとき、天皇に会おうと出雲を経て笥飯浦(敦賀市)へきたが、崇神天皇が亡くなったのでそのまま留まり、次の垂仁天皇に3年仕えた。
垂仁天皇は、「御間城(崇神)天皇の名をお前の国の名にせよ」と命じ、赤絹を与えて彼を本国へ帰し、これが弥摩那(御間国=任那=ミマナ)という国名の起源となった。
その後、新羅国の兵が赤絹を奪ったので、以来この両国は恨み合っているのだと言う。
都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)と 于斯岐阿利叱智(ウシキアリシチ)を比べてみると、「アラシト」と「アリシチ」は本来同じものだったことは一見してわかる。
残る「ツヌガ」と「ウシキ」はすでに「角(ツノ)が」と「牛岐」であるという定説があるので、これだけでも「角がある人」と「牛である人」という風にとれ、「その外観を形容したもの」と見ることができる。
では蘇那曷叱知(ソナカシチ)はどうなるか。
これを日本周辺にある語にあてはめてみると、朝鮮語では「牛」を「ソ」と言うので、「蘇」が「牛」であったとすることができる。
これをさらに精密に検討してみよう。
「都怒=ツヌ」は上代文献で間違いなく「角」の意味に使われている。
「アラ」が「有る人」であるかどうかは後にして、「人(ひと)」を「シト」と発音するのは、沖縄語で「ヒ」を「シ」と発音したものと同じだし、現在も江戸弁などに見られる特徴だ。
これは上代古語人語の特徴に両方ともピッタリ合う。
「牛岐」がこの「角が」に当るとすれば、この「岐=キ」の字は沖縄弁の助詞「チ=津」、すなわち本土語の「が」「ケ」であるとすることができる。
また「荒(あら)」を沖縄弁では「荒(アリ)地」という風にも発音し、「シチ」沖縄弁の「人」を表す「チュ」であると考えると、「之人(シチユ)」に一番近い。
つまり整理すると、この3つの名乗りは、
「ツヌガアラシト=角が荒之人(ツノガアリシチュ)=(牛の様な)角が有る人」
「ウシキアリシチ=牛津荒之人(ウシツアリシチュ)=牛(の様な角)が有る人」
「ソナカシチ=牛ノガ之人(ソノガシチュ)=牛の(様な角)が(有る)人」
となり、ところどころ虫食いの様に抜けている部分を補完すれば、どれも「牛の様な角がある人」となるのだ。
さらに「ソナカシチ」と「ツヌガアラシト(ウシキアリシチ)」の類似点を比較すると、
@どちらも任那の王族である。
Aどちらも崇神天皇の治世に来訪している。
B崇神天皇の死後も数年留まって次の垂仁天皇に仕え、後に帰国している。
C帰国の際に賜った品を新羅に奪われ、以来任那と新羅は対立している。
となるから、やはり二人は同一人物であると断定できる。
続く
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