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「徒然なるままに思うこ」から
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神武東征の謎C 神武東征の 「ヤマト」は鹿児島?
神武天皇が鹿児島湾沿岸を避けて転々と移動を繰り返したのはなぜか?
思うに、敵があまりにも強大な勢力であったため、背後に回り込んで不意を突く、「奇襲戦法」を取ろうとしたのではないだろうか。
そしてこの敵地こそが、神武天皇が「美味し国」と呼んだ「ヤマト」であった可能性が高い。
しかし古来神武天皇が攻略したのは「ヤマト」は「大和=奈良県」というのが通説である。
果たして鹿児島に「ヤマト」は存在したのであろうか?
これを解くカギは「琉球語」にあった。
琉球の人々は自分たちの事を、「ウチナ(沖縄)の人」という意味で、「ウチナンチュウ」と呼ぶ。
そして特に鹿児島県の人を指して、「ヤマトンチュウ(ヤマトの人)」と呼び、それとは区別して鹿児島県以外の内地の人を「ウフヤマトンチュウ」と呼ぶのだ。
この「ウフヤマト」とは「大大和(オオヤマト)」の事で、「遠天皇(トオスメロギ)の畏くも、肇め給いし大大和」との言葉に見られるように我が国の古い呼称の一つであるが、では何故鹿児島人だけを「ヤマトンチュウ」と呼ぶのか。
これは鹿児島がかつて「ヤマト」と呼ばれた名残なのではないだろうか。
そして「九州にあったヤマト」と言われると、我々の中では1つの政権を思い浮かべる人も多いかと思う。
そう、あの女王・卑弥呼が君臨したと言われている「邪馬台国」だ。
確かに「邪馬台」も「ヤマト」と読むことができるし、何より神武天皇の言う「美味し国=ウマシクニ」の「ウマ」は邪馬台の「馬=ウマ」に符合する。
しかし『日本書紀』や『古事記』によれば、神武天皇の即位は紀元前660年とされ、『魏志倭人伝』などに記録のある「邪馬台国」は西暦(紀元後)240年頃の政権なのだから、時代が違うと思われる方もいるだろう。
ただ『日本書紀』『古事記』には、100歳以上も生きたと言われている天皇やその家臣が何人も登場しており、中には「130歳の超高齢天皇」など、普通に考えればとても有り得ない話が平気で記載されている。
これは回を重ねる中でおいおい書こうと思うが、少なくとも『日本書紀』『古事記』には鵜呑みにできない記述が多く見られるという事だけを覚えておいていただきたい。
そして「邪馬台国だってどこにあったのか、今だに解明されていないではないか」とおっしゃる方も多いだろう。
では次回以降は邪馬台国について検証してみたい。
続く
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