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徒然なるままに思うことから
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さて、3年から5年の長きに渡って軍備を十分に整えた神武天皇は、ようやく大船団を率いて東征を開始する。
そして「船団を出して速吸之門に来た時、国津神の珍彦(ウヅヒコ)(宇豆毘古命)後の椎根津彦(シイネツヒコ)を水先案内とした」とある。
これを詳しく見てみると『古事記』には、「天皇たちが速吸門(ソキウのト)に差し掛かった時、亀の甲羅に乗って釣りをしながらやってくる人に出会った。そこで槁機(サオ)を差し出してその人物をつかまらせ、船に引き上げて水先案内人とした。この人を槁根津日子(サホネツヒコ)と言う」とある。
また『日本書紀』にも同様に、「椎槁(シイサオ)の端を持たせて船に引き上げたので、以後、椎根津彦(シイネツヒコ)と呼んだ」とある。
しかしこの「槁根津日子=椎根津彦」は「国津神の珍彦(ウヅヒコ)」であり、後に神武天皇の軍師となる人物だ。
それがまるで遭難して助けられた漁師のような登場の仕方をしているのは変である。
おそらくこの「槁根津日子=椎根津彦」は、神武天皇の援軍要請に応えて水軍を率いてきた、南方諸島の王の一人であったのだろう。
それは彼が「国津神」であることからも分かる。
「国津神」とは、「その国土着の神」と言う意味であるが、これを今風に解釈すると、「その土地の土着政権の王」となる。
「神武東征」は建国神話の物語なので、登場人物は皆、「神」や「神の子孫」となっているが、これを「建国神話」ではなく「歴史」ととらえて「神=王」「神の子孫=王の子孫」と置き換えると、非常に分かりやすくなってくる。
こうして「槁根津日子=椎根津彦」率いる水軍と合流した神武天皇は、戊午年の2月に浪速(ナミハヤ)国に至る。
この「浪速国」だが、古来より現在の「大阪」を指すとされてきた。
しかし南九州で南方諸島の水軍と合流した神武天皇軍が、一足飛びに大阪に向かったと言うのは、話が飛躍しすぎる感がある。
実はこの「浪速・難波」に関しては、歴史言語学者の加治木 義博氏が、以下の通り興味深い考察を述べている。
「沖縄の首都・那覇は、これまでまるで外国の地名のように見られ思われてきたが、那覇は間に助詞を挟むと那ヌ覇=ナヌハ=難波・浪速になり、この助詞をガにすると那ガ覇=ナガハ+国(マ)=長浜である」
この「那覇=浪速・難波=長浜」をもとに鹿児島の地図を調べていくと、鹿児島県薩摩川内市の離島である下甑(しもこしき)島に、「長浜」と言う地名が残っている。
そして天皇は「3月、河内国に入る」との記事があるから、これも「河内=大阪」ではなく、「河内=川内」だとすれば、下甑島の東の対岸・薩摩川内市の事だ。
つまりここまでの検証では、神武天皇は鹿児島県内を移動している事になり、逆に言えば、鹿児島県内から出ていないと言える。
しかも現在の鹿児島市・姶良市・霧島市などの鹿児島湾沿岸を、わざと避けているように転々としているのだ。
神武東征関連地図3
http://blog-imgs-56.fc2.com/y/o/s/yoshi8410/20120517225347c88.png
これから言えることは一つ。
鹿児島湾沿岸に一大勢力があり、その勢力こそが神武天皇の敵だったからではないだろうか。
続く
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