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徒然なるままに思うことから
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謎の神武東征A 「神武東征」と三国志「孔明南征」の共通点
神武天皇は「乙卯年3月に吉備国に入り、高島宮の行宮(あんぐう=仮御所)をつくって3年又は8年滞在して船と兵糧を蓄えた」とある。
しかしこの前年の12月の時点で、神武天皇はまだ薩摩半島の開聞岳付近の「埃宮」にいた訳で、この間に3か月はあったのだが、戦いらしい戦いもなく、「吉備国」すなわち今の岡山県を中心とする「備前・備中・備後」地域に兵を進められたとは考えにくい。
事実、その後天皇は、「高島宮の行宮をつくって3年又は8年滞在して船と兵糧を蓄えた」とあるので、兵も食料もそれらを輸送する軍船も、全く十分ではなく、再び進軍を開始するまで「3年から8年もかかった」と言っているのだ。
この様に準備が不十分な状態で「日向(宮崎)→筑紫(福岡)→安芸(広島)→吉備(岡山)」へと兵を進められる訳がない。
途中には当然、土着の政権や豪族があり、少ない兵力では彼らに進軍を妨害される事は必至である。
また「腹が減っては戦はできない」の例え通り、食料が乏しくては遠征軍は自滅してしまう。
そのため、東征前には十分な軍備を本国で整えておく必要があり、@で見たとおり、「東征前の南征」もその一環だったのだ。
とすれば、「吉備国に入り、高島宮の行宮をつくって3年又は8年滞在して船と兵糧を蓄えた」との記事も「南征の延長」であり、当然本国かその付近での出来事と考えるべきである。
この事を踏まえて薩摩半島の地図を見てみると、「埃宮」の置かれた開聞地区の北に、吉見山を中心とする「吉見地区」が存在する。
「吉備=キビ」は「吉見=キミ」だったと考えるのが妥当だろう。
その吉見地区の西側には、広大な平野部が広がっている。
つまり神武天皇は、吉見地区から西の平野部を占領し、ここを食料生産の一大拠点としたのだ。
残る「高島宮の行宮」だが、鹿児島語では「タケ」を「タカ」と発音するので、これは先に見た「筑紫国=竹島」が「タケシマ=タカシマ」と訛ったものだろう。
となるとこれは、「神武天皇が竹島に軍港を作った」と見るべきだ。
これは何故かというと、宇佐津彦などの竹島の人々は、当然海運などによって生計を立てていたと思われる。
彼らを用いて海軍を作らせるには、竹島はもってこいの場所だったのだ。
さらに竹島の南には「屋久杉」など、良質の木材を産出する「屋久島」がある。
この屋久杉などを薩摩半島に運んで軍船を作るより、竹島の方が時間が短縮できるし、何より海運が盛んな竹島には、優れた船大工たちが居たのだろう。
つまり今様に言えば、「開聞の埃宮」とは「陸軍参謀本部」であり、「高島の行宮」は「海軍軍令部」に相当する機能を持っていたと思われる。
こうして3年から8年をかけて十分に兵を訓練して兵糧を蓄え、軍船を用意した神武天皇は、ようやく本格的な「東征」に打って出るのである。
これを書いていてふと思ったことがある。
中国の三国志の時代、この神武天皇と全く同じやり方で戦を準備した人物が居たことを思い出したのだ。
それは蜀漢の丞相・諸葛孔明その人である。
蜀漢の丞相となり、全権を握った諸葛孔明は、益州南部(雲南)で雍闓・高定らが南蛮族の王・孟獲と組んで反乱を起こすと、自ら軍を率いて225年に益州南部四郡を平定した。
これが「孔明の南征」であるが、孔明はこの時、神武天皇が東征を始めた時と同じ45歳であった。
南征の後、孔明はこの地方の財物を軍事に充て、さらに蛮族の若者を選りすぐって1万人からなる新兵である「飛軍」を創設している。
またこの南征は、孔明自身が行った「大規模軍事演習」的な意味を持っていたと言われる。
南方を平定し、兵を訓練して兵糧を十分に備蓄した孔明は、2年後の227年、皇帝・劉禅に奉った有名な「出師の表」の中で、「今南方已に定まり、兵力已に足る。将に三軍を将卒して北の方・中原を定むべし」と述べ、魏討伐の兵を挙げる。
これが「孔明の北伐」であるが、この蜀漢は漢王朝の正当たる後継王朝を称していたものの、実際には当時の中国の14州のうち、西南部に当たる益州(現在の四川省と雲南省)ただ1州を治める地方政権に過ぎなかった。
神武天皇の言う、「我が領土は未だに西辺にあり、全土を王化していない」と同じ状況であったのだ。
そして孔明の言う「中原」とは「国の中心」の意味で、一方の神武天皇の言う「六合の中」も「国の中心」の事である。
さらに比較すると、「神武天皇は息子の手研耳(タシギミミ)命とともに熊野の荒坂津に進み丹敷戸畔女賊を誅したが、土地の神の毒気を受け天皇の軍は倒れた」との記述があるが、孔明の南征でも、蜀漢軍は毒の泉の水を飲んでしまい、将兵は倒れ、一時進軍が不可能になっている。
これを救ったのが神武東征では天照大御で、「霊剣(布都御魂)を熊野の住民の高倉下に授け、高倉下はこの剣を天皇に献上した。天皇が剣を手にすると軍衆は起き上がり、進軍を再開した」とある。
これに対して「孔明南征」では、以下の記述がある。
『孔明はなす術もなく、近くの廟に詣でて祈りを捧げたところ、老人の姿をした神が現れ、「万安渓に住む万安隠者を訪ねてそこにある安楽泉の水を飲めば毒は消える」と教えられる。孔明はさっそく万安隠者を訪ねて将兵らを救った』
双方とも「神が毒気に苦しむ将兵を救う方法・手段を与えている」事が一致している。
また『先代旧事本紀』巻5天孫本紀では、物部氏の祖神である饒速日(ニギハヤミ)命の子で尾張連らの祖・天香語山命(彌彦神社の御祭神)の割註に、天降の名・手栗彦命のまたの名が高倉下命であるとしている。
「神武東征」では、神武天皇側は、「聞けば東に美しい土地があるという。青い山が四周にあり、その地には天から饒速日(ニギハヤミ)命が下っているという。そこは六合の中なれば、大業を広げて、天下を治めるにふさわしい土地であろう。よって、この地を都とすべきだ」と言っているので、神武天皇は、饒速日の治める東方を征服する事が目的なのであり、そうなると「饒速日=神武天皇の敵方」となる。
その饒速日の子が高倉下(タカクラジ)なのだから、神武天皇を迎え撃つ饒速日の側には「身内に裏切り者が居た」事になる。
そして「孔明南征」に於いて蜀漢軍を救った万安隠者とは、実は弟たちのやり方に反発して隠遁していた、孟獲の兄・孟節だったのだ。
つまり双方とも、「敵の身内の裏切りに助けられた」事になるのだ。
これほどまでの証拠が揃っていれば、「神武天皇は諸葛孔明だったのだ!」と思われる方もいるかも知れないが、そうではない。
日本神話の「神武東征」は成功しているが、「孔明の北伐」は得るところ少なく、成功しなかった点で大きく食い違う。
そしておいおい明らかにしていくが、私の調べた限りに於いてこの「神武東征」は、「邪馬臺国と同じ、3世紀前半の記録」であるからだ。
一方の諸葛孔明が活躍した時代もやはり3世紀の前半(208年〜234年)であるが、お互いの場所があまりにかけ離れている。
なので神武天皇と諸葛孔明は同一人物とは言い難い。
では何故「神武東征」には「孔明南征」とよく似た記述が見られるのか。
そもそも『古事記』『日本書紀』が作られたのは8世紀の事で、その大目的は、「我が国の王朝の歴史と正当性を、唐(中国)に訴えるためのもの」である。
その証拠として、中国人に読ませるために『古事記』『日本書紀』は全文が漢文で書かれている。
当然作成に当たっては、中国の文献を研究したはずであるし、その中には陳寿の『三国志』も含まれていたのだろう。
『古事記』『日本書紀』を作った人々は、「神武東征」の記事を作るに当たって、「孔明南征」の記述を随分参考にした事実がこれによって伺い知れる。
続く
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