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徒然なるままに思うことから
謎の神武東征@ 神武天皇は最初は南征した?
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『古事記』『日本書紀』などの神話によると、「神武東征」とは以下のような物語である。
甲寅の歳、神武天皇45歳のとき、日向国の地・高千穂宮にあった天皇は兄弟や皇子を集めてこう言った。
「我が領土は未だに西辺にあり、全土を王化していない。聞けば東に美しい土地があるという。青い山が四周にあり、その地には天から饒速日(ニギハヤミ)命が下っているという。そこは六合の中なれば、大業を広げて、天下を治めるにふさわしい土地であろう。よって、この地を都とすべきだ」
諸皇子はみなこれに賛成し、東征が始まる。
太歳甲寅年の10月5日、天皇は兄の五瀬(イツセ)命らと船で東征に出て筑紫国宇佐に至り、宇佐津彦、宇佐津姫の宮に招かれて、姫を侍臣の天種子(アメノタネシ)命と娶せた。
筑紫国崗之水門を経て、12月に安芸国埃宮に居る。
乙卯年3月に吉備国に入り、高島宮の行宮をつくって3年又は8年滞在して船と兵糧を蓄えた。
船団を出して速吸之門に来た時、国津神の珍彦(ウヅヒコ)(宇豆毘古命)後の椎根津彦(シイネツヒコ)を水先案内とした。
戊午年の2月、神武天皇は浪速国に至る。3月、河内国に入って、4月に龍田へ進軍するが道が険阻で先へ進めず、東に軍を向けて生駒山を経て中州へ入ろうとした。
しかしこの地を支配する長髄彦(ナガズネヒコ)が軍衆を集めて孔舎衛坂(くさえざか)で戦いになったが、戦いに利なく、五瀬(イツセ)命が流れ矢を受けて負傷、後に五瀬命は矢傷が重くなり、紀伊国竃山で死去する。
神武天皇は、「日の神(天照大神)の子孫の自分が日に向かって(東へ)戦うことは天の意思に逆らうことだ」と悟り、兵を返して草香津まで退き、盾を並べて雄叫びをあげて士気を鼓舞した。この地を盾津と名付けた。
5月、磐余彦は船を出し、名草戸畔という女賊を誅して熊野に入り(熊野迂回)、再び船を出すが暴風雨に遭い、陸でも海でも進軍が阻まれることを憤慨した兄の稲飯(イナイイ)命と三毛入野(ミケイリノ)命が入水した。
神武天皇は息子の手研耳(タシギミミ)命とともに熊野の荒坂津に進み丹敷戸畔女賊を誅したが、土地の神の毒気を受け天皇の軍は倒れた。
東征がはかばかしくないことを憂えた天照大御神は、武甕槌(タケミカヅチ)神と相談して、霊剣(布都御魂)を熊野の住民の高倉下に授け、高倉下はこの剣を天皇に献上した。
剣を手にすると軍衆は起き上がり、進軍を再開したが、山路険絶にして苦難を極めた。
そこで、天照大御神は「八咫烏」を送り教導となし、天皇は八咫烏に案内されて、莵田の地に入った。
これを「神話」と見る分には何の疑問も持たれない事だろうが、「歴史」として見たならばどうだろう。
古来この記事は、「神武天皇が日向(宮崎県)から大和(奈良県)へ攻め入り、大和朝廷を建てたもの」とされてきた。
しかし現在でも分かるように、九州は温暖な気候で知られ、『魏志倭人伝』によると卑弥呼の時代には、「冬でも野菜が収穫できた」との記述があるし、海に面しているため魚介類も豊富に取れる。
一方の大和(奈良)は現在でも冬はマイナスまで気温が下がることがあり、当然冬に野菜は収穫できず、また、四方を山に囲まれているため、魚介類も手に入れづらい。
これで見る限り、現在のように食糧事情が良くなかった古代に於いては、大和は「不毛の地」であり、九州の方が「はるかに豊かな国だった」ことは明白だ。
こんな不毛の地を、わざわざ九州から大軍を引き連れ、3人の兄を失ってまで数年をかけて占領したところで、算盤勘定が合うはずがない。
となると神武天皇は「騙されて」東征を始めたのだろうか?
ここで私が注目したのは、『太歳甲寅年の10月5日』の、「天皇は兄の五瀬(イツセ)命らと船で東征に出て筑紫国宇佐に至り、宇佐津彦、宇佐津姫の宮に招かれて、姫を侍臣の天種子(アメノタネシ)命と娶せた」との記事だ。
「天種子命」と同じ名前を持つ、「種子島(たねがしま)」が大隅半島の南にある。
これは天皇が日向から筑紫(福岡)に向かったのではなく、船で一旦種子島に向かい、種子島王である天種子命以下の軍と合流した記録ではないのだろうか?
そして「12月に安芸国埃宮に居る」の「安芸」は、現在の広島県ではなく、「安芸=アキ=開き」だとすれば、鹿児島県の薩摩半島南端には「開聞岳(カイモンダケ)」がある。
神武天皇はこの開聞地域に宮を造って居住したのだ。
となると途中立ち寄った「筑紫国」も福岡の事ではなく、種子島と薩摩半島の中間に位置する「竹島」だった事が分かる。
古代日本では「国」の事を「ラ」「マ」「ヤ」「ナ」と発音した人々がいた。
これで比較すると、「筑紫・国=チクシ・マ=竹之・国=タケシ・マ=竹島」となり、神武天皇が「日向→種子島→竹島→開聞」と移動した事実がより鮮明になる。
ここで疑問が残るのが「筑紫国の宇佐」との地名であるが、大分県の北部、国東半島の付け根に位置する宇佐市には、全国八幡宮の総本宮・宇佐神宮があり、ここのことだとされてきた。
しかし大分県は厳密に言えば古代「豊の国」であり、後の「豊後国」であって、古代の「筑紫国」、後の「筑前国」「筑後国」とは別の国であるから、この場合「筑紫の宇佐=大分県宇佐市」とするのはおかしい。
だがここで、この「宇佐」を琉球などで「王」を意味する「御主(ウシュ・ウス)」の訛ったものだとすると、「筑紫国の宇佐」は「竹島の御主(王)」の意味となる。
事実この地を治めていたのは「宇佐津彦」で、これは「御主の彦」との名乗りである。
そして神武天皇は、「天種子命(種子島王)」と「宇佐津彦」の一族である「宇佐津姫(=御主の姫=竹島の王女)」を結婚させているのだから、これは宇佐津彦の協力を取り付けるための政略結婚であった事が分かる。
ここまで見てみると、神武天皇は東征の前の準備として初めは南征し、南方諸島の王の協力を取り付けていた事実が浮かび上がった。
では実際に、神武天皇が東征して攻め滅ぼした「長髄彦(ナガズネヒコ)」政権との戦いはどうであったのか、また、それは本当に大和にあった政権なのか、次回以降で検証してみたいと思う。
続く
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