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日の丸を掲げて戰う鬼達。 何が何でも開くんだとさ。トキが來たつて事だな。
http://www.asyura2.com/12/bd61/msg/426.html
投稿者 不動明 日時 2014 年 6 月 09 日 23:39:38: yX4.ILg8Nhnko
 

(回答先: わりごはいねが〜 み〜つけた〜  弘前の卍は何かい? 裏・闇が掲げる左卍に對する表・光つて意味かい? 投稿者 不動明 日時 2014 年 6 月 08 日 01:51:47)

 
 




 
 
(15)日の丸を掲げた蝦夷 : 「日の丸」の万華鏡
http://hangeshow.exblog.jp/9621631


ニライカナイへ 日の丸
http://ka567.blog25.fc2.com/blog-entry-405.html


日の丸の話 | あるがままに - 楽天ブログ
http://plaza.rakuten.co.jp/ramana/diary/201201010000/


122:『続々日本絵巻大成5 清水寺縁起 真如堂縁起 』影印「清水寺縁起」上・中・下巻「解説」(7枚) - 乱鳥の書きなぐり
http://blog.goo.ne.jp/usuaomidori/e/11784c99ef5cb7e4798e2fdf4b4eb8a3


何有荘のblog: ★いすみ市の清水寺と坂上田村麻呂
http://pub.ne.jp/kayusou/?entry_id=4413012


清水寺縁起絵巻
http://www.yamada-kj2.com/renaissance/japan_beau/yamato/emaki_soushi/kiyomizu/kiyomizu.html


C0061804 清水寺縁起絵巻 - 東京国立博物館 画像検索 
http://image.tnm.jp/image/1024/C0061804.jpg
 
 
 
 
自然界で誕生のトキ 本州に初飛来か NHKニュース
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140228/k10015599301000.html


自然界で誕生のトキ 本州に初飛来か
2月28日 8時32分


新潟県佐渡市で放鳥や繁殖が進められている国の特別天然記念物のトキが、本州の、新潟県内で飛来しているのが確認され、環境省では、個体を識別するための足環が付いていないことから、おととし自然界で36年ぶりに誕生したトキが初めて本州に飛来したとみて、観察を続けることにしています。


環境省によりますと、26日、新潟県聖籠町で「田んぼにトキのような鳥がいる」という連絡が入りました。
そして、27日午前、聖籠町の田んぼで、餌を探して歩いているトキをNHKが撮影しました。
このトキは、その後、隣接する新発田市の林に移動し、木の上で羽を休めているのを環境省が確認しました。
トキには、個体を識別するための足環が付いていないことから、環境省では、佐渡市でおととし、自然界で36年ぶりに誕生した8羽のうちの1羽とみて、注意深く観察を続けることにしています。
トキの観察を続けているボランティアの鷲澤悟さんは、「また、本州に、トキが来てくれてうれしい。温かく見守っていきたい」と話していました。
おととし自然界で誕生したトキの本州への飛来が確認されたのは今回が初めてです。
 
 
 
 
秋田名物「なまはげ」…ではなく「大魔神」です 角川大映映画展にあわせてお目見え - MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/140418/ent14041818410017-n1.htm


秋田名物「なまはげ」…ではなく「大魔神」です 角川大映映画展にあわせてお目見え
2014.4.18 18:41


秋田市のメーンストリート広小路沿いにお目見えした大魔神像=18日(渡辺浩撮影)


 往年の大映映画「大魔神」の像が18日、秋田市のメーンストリート広小路沿いにお目見えした。19日から6月15日まで秋田県立美術館で開かれる「角川大映映画展」の期間中、設置される。


 大魔神は、巨大な魔神像が民衆の祈りに応えて動きだし、悪を懲らしめる時代劇。昭和41年にシリーズ3作品が公開された。像は高さ約5メートル、重さ約300キロで、普段は京都・太秦(うずまさ)の大映通り商店街に建っているものをトラックで運んできた。


 秋田県とKADOKAWA(旧角川グループホールディングス)は先月、連携協定を締結。角川大映映画展はその事業の一環で、「羅生門」など大映映画や「セーラー服と機関銃」など角川映画の歴史が展示される。
 
 
 
 
開祖「蜂子皇子」木像を公開 鶴岡・出羽三山神社 | 河北新報オンラインニュース
http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201403/20140306_55005.html


開祖「蜂子皇子」木像を公開 鶴岡・出羽三山神社



出羽三山神社開祖「蜂子皇子」の木像が安置されている内拝殿


 修験道で知られる山形県鶴岡市の出羽三山神社は、三山開祖である「蜂子皇子(はちこのおうじ)」の木像を、開山以来初めて一般公開する。期間は4月29日から9月30日まで。公開は東日本大震災被災者への願いが目的といい、神社は「三山の秘中の秘である御尊像を通して、復興への祈りを伝えたい」と話している。



開祖「蜂子皇子」の絵図(出羽三山神社提供)


 伝承によると、蜂子皇子は飛鳥時代に出羽三山を開いたとされる皇族の一人。木像は江戸時代初期まで羽黒山五重塔(国宝)に安置されていたが、1619年に現在地の羽黒山山頂の御堂に移された。かつては身分の高い人物に限り拝観できたが、明治以降は完全に一般非公開となった。
 公開については、神社内をはじめ一般信者の間でも賛否が分かれたという。「秘中の像を公開して何か起こらないか、大丈夫なのか」といった声も上がった。公開を後押ししたのは、震災復興への思いだった。東北、北関東の被災県に信者が多く、三山は震災発生直後から慰霊行事を繰り返し催してきた。
 今年は開山された年と同じ午(うま)年で、12年に1度の羽黒山ご縁年にも当たる。同神社企画広報室長の吉住登志喜禰宜(ねぎ)は「震災から3年目の節目を迎え、ご縁年に合わせて、あらためて復興への思いと祈りを全国に広めたいとの考えで、神社内が一致した」と話す。
 木像は羽黒山山頂の蜂子神社内に安置してある。過去に目にしたことがある神社職員によると、驚くほどに美しい状態で保存されていたという。
 拝観受け付けは午前8時半〜午後5時。おはらい料500円が必要で、お守りなど記念品が付く。連絡先は出羽三山神社0235(62)2355。


2014年03月06日木曜日
 
 
 
 
全身真っ黒…コクチョウ2羽が青森・深浦に飛来 (Web東奥) - Yahoo!ニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140514-14104110-webtoo-l02


全身真っ黒…コクチョウ2羽が青森・深浦に飛来
Web東奥 5月14日(水)10時41分配信



小童子川の河口付近で羽を休める2羽のコクチョウ
=12日午後6時40分ごろ、深浦町関栃沢(田中奈奈子さん提供)


 深浦町北部を流れる小童子川の河口に12日夕、付近ではほとんど確認されたことのないコクチョウ(黒鳥)が2羽飛来し、住民の話題を呼んだ。
 地元住民によると、コクチョウが確認されたのは12日午後6時前。羽が真っ黒の2羽はくちばしが全体に赤く先端が黄色っぽく見え、羽の先は白色。つがいのような雰囲気で仲良く寄り添い、優雅に泳いでいたという。
 2羽は住民が数十センチ近くまで近づいても警戒するそぶりをあまり見せず、与えたパンくずを食べていた。
 この日、うわさを聞きつけた住民が次々と集まり、カメラに収めた。近くに住む看護師田中奈奈子さんは「冬になるとオオハクチョウはよく見掛けるが、コクチョウは初めて。艶のある黒い羽と、赤いくちばしが印象的だった」と話した。
 コクチョウはオーストラリアなどが原産。県内湖沼での確認例はまれ。日本野鳥の会弘前支部の小山信行支部長は「野生のコクチョウが飛来することはめったにない。どこかで飼育されていたのが逃げたのではないか」と話した。


東奥日報社
 
 
 
 
深夜、無人の別荘から119番通報 誤報?それとも… 青森・八甲田 (Web東奥) - Yahoo!ニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140518-18104206-webtoo-l02


深夜、無人の別荘から119番通報 誤報?それとも… 青森・八甲田
Web東奥 5月18日(日)10時42分配信


 無人の別荘から深夜に119番? 17日午前0時すぎ、青森市駒込深沢にある別荘の固定電話から消防へ通報があった。しかし、通信状態が悪く、電話の向こう側から声は聞こえなかった。
 一刻一秒を争う事態かもしれない―。青森消防本部は発信場所を特定し、消防署員ら10人が、40分ほどかけて現場に到着。しかし、辺りは真っ暗で、家の中に人影はなく、傷病者も見当たらなかった。
 現場は八甲田雪中行軍遭難事件があった地区で、木々がうっそうと生い茂る。同本部通信司令課の担当者は「何らかの原因で通報されたと思われるが、よく分からない」と困惑。やむを得ず、誤報として処理することになるとしている。


東奥日報社
 

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コメント
 
01. 不動明 2014年6月10日 00:02:20 : yX4.ILg8Nhnko : QYM2syNKik

トート - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/トート

トート(ギリシャ語:Θωθ;トト[2]とも)は古代エジプトの知恵を司る神。古代エジプトでの発音は完全には解明されていないがジェフティ(エジプト語:ḏḥwty)と呼ばれる。聖獣はトキとヒヒ。数学や計量をつかさどる女神であるセシャト(英語版)を妻(または妹)としている。

信仰
おもにヘルモポリスで信仰されたが、ほかの地域でも多くの信仰を集めた神である。長い間広い地域で信仰されたため、知恵の神、書記の守護者、時の管理人、楽器の開発者、創造神などとされ、王族、民間人問わず信仰された。そのためある程度の規模を持つ神殿のわきにはトートのための神殿が作られている。

神話
多くの信仰を集めた神のため、その神話も多岐に渡る。さらに長い期間信仰されたため、多くの役割を持っている。 創世神の一人であり、言葉によって世界を形作るとされる。

誕生
誕生については諸説あり、世界ができたとき、自らの力で石から生まれたとされる説がいちばん有名である(この場合、早く生まれた為に足が悪くなったとされる)。そのほかにもセト神の頭を割って誕生したという神話もある。

ヘルモポリス神話において
ヘルモポリス神話において世界はオグドアドと呼ばれる8柱の神々によって作り出されたとされている。その後この神々は眠りにつくが、世界が終焉を迎えたとき、また新しい世界を生み出すために目覚めさせなければならない。この役目を請け負ったのがトートだとされる。

書記の守護者として
神々の書記であり、ヒエログリフを開発したことから書記の守護者とされた。また死者の審判においては、死者の名前を記録する作業を行う。王が即位したときには、その王の名前をイシェドと呼ばれる永遠に朽ちない葉に書き記す。

時の管理者として
天空の神ヌトがオシリスたちを生む際に、太陽神であるラーが「その子供たちは災いを生む」と言って子供を産むことを禁じた。困ったヌトはトートに相談した。そこでトートは月と賭けをして勝ち、時の支配権を手に入れた。そして太陽神の管理できない5日間を作りだす(太陰暦と太陽暦の差)。そしてヌトはこの5日にオシリス、セト、大ホルス、イシス、ネフティスの5柱を生んだ。そして月としての属性を得たため太陽の沈んだあとの夜の時間は、トート神が太陽にかわって地上を守護するとされる。

魔法使いとして
トートは魔法に通じており、イシスに数多くの呪文を伝えた。病を治す呪文も熟知していることから医療の神の面もある。さらに彼は魔法の書物を書き、この世のあらゆる知識を収録する42冊の本も書いたと考えられている[3](「トートの書」を参照)。

その他
楽器の開発者とされるなど、他にも神話上に多くの役割を持っている。ピラミッドの建設方法を人間に伝えたのもトトであるとされる。シナイ半島ではトルコ石や銅鉱石を採掘に行ったエジプト人の守護者として、「遊牧者の主」、「アジア人を征服するもの」と呼ばれている。このシナイでの信仰はハトホルよりも古い。古くはスネフェル王の時代から、シナイ半島の碑文に名前が登場している。

「大いなる導きヒヒ」と呼ばれると共に、ヒヒの姿で描かれる事もあるが、これはヒヒを聖獣とする知恵の神ヘジュウルとの習合による物である。ちなみにヒヒは魔術の象徴でもある。また、ラーを補佐する事から「ラーの心臓」とも呼ばれる。

古代エジプト以外でのトート
ギリシア神話のヘルメス神と同一視された。これが後に発展してヘルメス・トリスメギストスを生んだ。また、ヘルメス思想では、エジプトの知恵はタロットに残されたと考えられたため、タロットはしばしば「トートの書」とも呼ばれた。

近・現代においてもトート(=ヘルメス)はオカルトで重要な存在であり、アレイスター・クロウリーは「トートのタロット」を制作した。また、タロットに関する論文である『トートの書(英語版)』を執筆している。ただし、この本自体はトート神とは余り関係がない。


02. 不動明 2014年6月10日 08:45:29 : yX4.ILg8Nhnko : KeQ15r4K7M

アテルイ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/アテルイ

アテルイ(? - 延暦21年8月13日(802年9月17日))は、平安時代初期の蝦夷の軍事指導者。789年(延暦8年)に日高見国胆沢(現在の岩手県奥州市)に侵攻した朝廷軍を撃退したが、坂上田村麻呂に敗れて降伏し、処刑された。

史料には「阿弖流爲」「阿弖利爲」とあり、それぞれ「あてるい」「あてりい」と読まれる。いずれが正しいか不明だが、現代には通常アテルイと呼ばれる。坂上田村麻呂伝説に現れる悪路王をアテルイだとする説もある。フルネームは大墓公阿弖利爲(たものきみあてりい)[1][2]。

本項ではアテルイと共に処刑された母礼(モレ)についても記載する。

史料にみるアテルイ
アテルイは、史料で2回現れる。一つは、巣伏の戦いについての紀古佐美の詳細な報告で『続日本紀』にある。もう1つはアテルイの降伏に関する記述で、『日本紀略』にある。

史書は蝦夷の動向をごく簡略にしか記さないので、アテルイがいかなる人物か詳らかではない。802年(延暦21年)の降伏時の記事で、『日本紀略』はアテルイを「大墓公」と呼ぶ。「大墓」は地名である可能性が高いが、場所がどこなのかは不明で、読みも定まらない。「公」は尊称であり、朝廷が過去にアテルイに与えた地位だと解する人もいるが、推測の域を出ない。確かなのは、彼が蝦夷の軍事指導者であったという事だけである。

征東大使の藤原小黒麻呂は、781年(天応元年)5月24日の奏状で、一をもって千にあたる賊中の首として「伊佐西古」「諸絞」「八十島」「乙代」を挙げている。しかしここにアテルイの名はない。

巣伏の戦い
この頃、朝廷軍は幾度も蝦夷と交戦し、侵攻を試みては撃退されていた。アテルイについては、789年(延暦8年)、征東将軍紀古佐美遠征の際に初めて言及される。この時、胆沢に進軍した朝廷軍が通過した地が「賊帥夷、阿弖流爲居」であった。紀古佐美はこの進軍まで、胆沢の入り口にあたる衣川に軍を駐屯させて日を重ねていたが、5月末に桓武天皇の叱責を受けて行動を起こした。北上川の西に3箇所に分かれて駐屯していた朝廷軍のうち、中軍と後軍の4000が川を渡って東岸を進んだ。この主力軍は、アテルイの居のあたりで前方に蝦夷軍約300を見て交戦した。初めは朝廷軍が優勢で、蝦夷軍を追って巣伏村(現在の奥州市水沢区)に至った。そこで前軍と合流しようと考えたが、前軍は蝦夷軍に阻まれて渡河できなかった。その時、蝦夷側に約800が加わって反撃に転じ、更に東山から蝦夷軍約400が現れて後方を塞いだ。朝廷軍は壊走し、別将の丈部善理ら戦死者25人、矢にあたる者245人、川で溺死する者1036人、裸身で泳ぎ来る者1257人の損害を出した。この敗戦で、紀古佐美の遠征は失敗に終わった。

朝廷軍の侵攻とアテルイの降伏
その後に編成された大伴弟麻呂と坂上田村麻呂の遠征軍との交戦については詳細が伝わらないが、結果として蝦夷勢力は敗れ、胆沢と志波(後の胆沢郡、紫波郡の周辺)の地から一掃されたとされる。田村麻呂は802年(延暦21年)、胆沢城を築いた。

『日本紀略』には、同年の4月15日の報告として、大墓公阿弖利爲(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)が500余人を率いて降伏したことが記されている。2人は田村麻呂に従い7月10日に平安京に入った。田村麻呂は2人の命を救うよう提言したものの、平安京の貴族たちは「野性獣心、反復して定まりなし」と反対したため、8月13日に河内国にてアテルイとモレは処刑された。処刑された地は、この記述のある日本紀略の写本によって「植山」「椙山」「杜山」の3通りの記述があるが、どの地名も旧河内国内には存在しない[3]。「植山」について、枚方市宇山が江戸時代初期に「上山」から改称したため、比定地とみなす説があった[4]が、発掘調査の結果、宇山の丘は古墳だったことが判明し、枚方市宇山を植山とする説は消えた。

現代のアテルイ像

評価
坂上田村麻呂が偉大な将軍として古代から中世にかけて様々な伝説を残したのに対し、アテルイはその後の文献に名を残さない。 これに伴って、アテルイ伝説を探索あるいは創出する試みも出てきた。田村麻呂伝説に現れる悪路王をアテルイと目する説があり、賛否両論がある。

石碑、顕彰碑
上述の枚方市宇山にかつて存在した塚と、その近くの片埜神社の旧社地(現在は牧野公園内)に存在する塚を、それぞれアテルイとモレの胴塚・首塚とする説があり、1995年(平成7年)頃から毎年、岩手県県人会などの主催でアテルイの慰霊祭が行われ、片埜神社がその祭祀をしている。但しこのうち「胴塚」については発掘の結果、アテルイの時代よりも200年近く古いものであることが判明している。また枚方市藤阪にある王仁博士のものとされている墓は、元は「オニ墓」と呼ばれていたものであり、実はアテルイの墓であるとする説もある。

田村麻呂が創建したと伝えられる京都の清水寺境内には、平安遷都1200年を記念して、1994年(平成6年)11月に「アテルイ・モレ顕彰碑」が建立されている。牧野公園内の首塚にも、2007年(平成19年)3月に「伝 阿弖流為・母禮之塚」の石碑が建立された。

2005年(平成17年)には、アテルイの忌日に当たる9月17日に合わせ、岩手県奥州市水沢区羽田町の羽黒山に阿弖流爲・母礼慰霊碑が建立された。同慰霊碑は、アテルイやモレの魂を分霊の形で移し、故郷の土の中で安らかに眠ってもらうことを願い、地元での慰霊、顕彰の場として建立実行委員会によって、一般からの寄付により作られた。尚、慰霊碑には、浄財寄付者の名簿などと共に、2004年(平成16年)秋に枚方の牧野公園内首塚での慰霊祭の際に、奥州市水沢区の「アテルイを顕彰する会」によって採取された首塚の土が埋葬されている。

又、JR東日本は、東北本線の水沢駅 - 盛岡駅間で運行している朝間の快速列車1本に、彼の名前を与えている。

創作
1982年に第3回吉川英治文学新人賞を受賞した澤田ふじ子著『陸奥甲冑記』がアテルイを題材としている。1990年代からは、アテルイを題材とした様々な創作活動が起こった。1992年(平成4年)当時、岩手県の小学校教師だったジョヴァンニ安東が創作人間影絵劇『アテルイの涙』を児童と共に制作・発表し、地元岩手で大きな反響を呼ぶ。その後、2000年(平成12年)吉川英治文学賞を受賞した高橋克彦著『火怨』や、これを原作としたミュージカル『アテルイ』(わらび座)などが続く。後者は2004年(平成16年)『月刊ミュージカル』誌の作品部門で10位にランクイン。タキナ役の丸山有子は小田島雄志賞を受賞している。他に高橋克彦原作による漫画『阿弖流為II世』(『火怨』とは無関係)や2002年(平成14年)新橋演舞場で公演された市川染五郎主演『アテルイ』(松竹株式会社)が有名である。2002年(平成14年)には没後1200年を機に、長編アニメーション『アテルイ』が制作された。2013年(平成25年)1月、『火怨』を原作としたテレビドラマ『火怨・北の英雄 アテルイ伝』(主演:大沢たかお)がNHK BSプレミアムで放送された(NHK総合では2013年3月放送)。

「伝 阿弖流為・母禮之塚」碑(枚方市)
阿弖流爲・母礼の顕彰碑(京都清水寺)
阿弖流爲・母礼の顕彰碑(裏側)

モレ
モレ(母礼)(生年不詳 - 延暦21年旧8月13日(802年9月17日))とは、上記のアテルイと同時期、同地方に伝えられている蝦夷の指導者の一人と見られている(『日本後紀』、『日本紀略』では磐具公母礼)。アテルイと共に、河内国で処刑されたことが記されている。磐具公母礼(いわぐのきみもれ)。


03. 仮面ライダー] 2014年6月13日 01:43:04 : lmNiVZoiBWj6s : DTOXMogWes
はじめまして。
日の丸のグルグルは、クルル曹長か、
若しくは、あの、秘伝封印術専門の渦巻き一族ではないでしょうか?
あの術で九尾を代々人中力に封印していました。
その祖となる人物が、伝説の六道仙人ではないでしょうか?

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