http://www.asyura2.com/12/bd61/msg/319.html
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百済王の名前は日本語で墓も日本式なんですね。
済州島の古い名前は「田村島」
倭王の祖先は甲冑を身につけて、九州から海を渡って95国を平定した。
朝鮮半島には倭人も雑居していた。
「正しい歴史」を認識することが重要だ。
国立公州博物館『百済斯麻王 武寧王陵発掘後30年の足跡』2001年から
http://hb3.seikyou.ne.jp/home/Hideo.Yoshii/gyouseki/kongju01.html
1971年に発見された武寧王陵からは、2人の被葬者を納めた木棺が、その構造を復元できる状態で発見された。こうした木棺発見の意義について、1)木棺構造の特徴と系譜、2)木棺の装飾性の意味、3)コウヤマキが用いられた歴史的背景、という3つの面から検討をおこなった。
武寧王陵の木棺は、釘で棺材を緊結し、棺を持ち運ぶための鐶座金具がつく。こうした構造的特徴は、武寧王陵以後の百済古墳に用いられた木棺と共通する。百済においては、横穴式石室出現以前の墓制では、木棺が使用されなかったか、据え付ける棺を用いたと思われる。最近、漢城百済期までさかのぼりうる横穴式石室の発見が続いているが、これらからは釘と鎹がセットで発見されることが多い。武寧王陵出現以前の宋山里古墳群でも同じ様相がみられ、釘と鐶座金具をもつ木棺の初現が、武寧王陵に求められる可能性がでてきた。一方、釘や鐶座金具を用いる木棺は、楽浪・高句麗や北燕などの墳墓に類例があり、今後、それらとの系譜関係の解明が必要である。
武寧王陵の木棺は、頭部に金や銀で装飾された釘が用いられると共に、棺材自体も漆や布などで装飾されていた。このように多様な方法で装飾された木棺は、百済の王陵級の古墳に限られ、その他の木棺も、装飾度により階層差が存在した可能性が指摘できる。そして、横穴式石室を埋葬施設とする当時の百済の葬送儀礼において、木棺が、殯所から石室まで被葬者を保護し持ち運ぶ機能をもったことが、木棺に装飾がなされたことと関係する可能性を指摘した。
武寧王陵の木棺材は、日本特産のコウヤマキであることが判明している。日本では弥生時代から古墳時代にかけて、コウヤマキが木棺材として用いられた。しかし、それらの木棺は、武寧王陵の木棺の構造とは異なり、コウヤマキの原材か板材が、日本から百済にもたらされたと考えられる。戦前の鑑定によれば、陵山里古墳群や益山大王墓で用いられた木棺材もコウヤマキとされている。また、武寧王の死後から埋葬までの時間を考えると、コウヤマキは生前にすでに百済にもたらされていた可能性が高い。こうしたことからみて、当時の百済が、王族の木棺をつくるために、常時コウヤマキ材を入手・管理していた可能性が考えられる。
<参考リンク>
■韓国で発掘された古墳が日本様式と判明…韓国学界が大パニックに
http://www.kimasoku.com/archives/6769861.html
■日本書紀に採用されなかった「倭王武の上表文」
http://1st.geocities.jp/rekisironnsyuu/waoubunojouhyoubunn.html
■日韓がタブーにする半島の歴史
http://www.hi-net.zaq.ne.jp/bupef907/books287.htm
■北方にあった倭
http://www.geocities.jp/jiangnankejp03/book/jnihonzo/nihonzo_1-1.htm
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