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2013/12/25 キリスト教の「神話」のベールを取り去り、「史的イエス」の実像に迫る――岩上安身による上村静氏インタビュー
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/117865
子供の頃から、宗教というものが理解できない。奇蹟という超常現象がまず理解出来ないし、哲学的な生死感はまだしも、各論は日常生活的な社会規範や道徳であったりする。それを乗り越えて大太の幹は、歴史認識であったりするようだ。八百万の神がいてあらゆるものに精霊が宿っているという方が感覚に合致する。何故宗教など面倒くさいものに関わる必要があるのか今でも疑問に思う。今日では、唯単に金儲けや犯罪、不当行為を隠す「特定秘密保護法や天皇制、民主的、公共、平和」など謳い文句の類で、それさえ言えば、他者からの反論を簡便に受け流せる免罪システムなのかも知れない。宗教は信じる人以外にも社会的な道徳や思考の一歩を踏み出す方向に、無意識に影響を与えていると思う。悪い意味でも「天網恢々疎にして漏らさず」という処か。
西欧人が植民地主義、帝国主義、挙げ句の果てに奴隷制度に走り、最近では新自由主義グローバリズム(TPPなど民主主義よりコポラティズム主権主義の世界支配)の思考の背景には上村静氏が説明するにはキリスト教は『黙示思想の二元論』『上から目線』があってそれは『宣教にはキリスト教のエゴイズムの問題があります。エゴイズムとは自我への執着。キリスト教はエゴイズムに肯定的です。救済とは『永遠の命』を得ることですから、キリスト教とは自我の究極の願いを成就させてくれる宗教だということになります。』、この『黙示思想の二元論』を否定したのがコヘレト、『コヘレトは『人生には益がない』と言います。『益』とは、儲け、利潤のこと。現代で言うと、お金や権力、夢、生きる意味、そういったものをコヘレトは否定したということです。食事をして妻と生活をともに生きる、そのことだけを肯定するのです。自分の命が与えられたものとしてあるということに気づかず、お金や権力、名誉にばかり拘泥することは虚しいのだと。これがコヘレトの教えなんですね。キリスト教は慈善として分け与えるということをしますが、それは上から目線で提供する、という姿勢なんですね。自らが与えられる、という発想は希薄です。』
閑話休題、こんな本もある。知的空想は果てが無い。コヘレトも仏教を知っていればなんと言ったか想像するのは興味深い。
『仏教とキリスト教 イエスは釈迦である』堀堅士
http://d.hatena.ne.jp/sessendo/20090224/p1
ここまでいくと、世界は統一されている。
以下、岩上安身氏のツイートのコピーです。
岩上「岩上安身による上村静氏(ユダヤ学・聖書学専攻)インタビューの模様を実況します。『宗教の倒錯』『キリスト教の自己批判』などの著書がある上村氏に、ユダヤ教とキリスト教についてお話をうかがいます。キリスト教とユダヤ教は対立している、ということがよく言われます。しかし、例えば橋爪大三郎氏と大澤真幸氏の『ふしぎなキリスト教』などを読んでいると、ユダヤ教とキリスト教は一緒、というふうに書いてあります」。
キリスト教というのはユダヤ教の一部です。であるからこそ、本体が憎くてしかたがない、と。ユダヤ教徒キリスト教とで本家争いをしている、ということです。キリスト教はユダヤ教に対しアンビバレントな感情を抱えています。
岩上「イエス・キリストという人は、そもそもどういう人だったのでしょうか。キリスト教がイエスの人物像をどのようなものとして教えているか、ということは私たちは少なからず知っています。十字架に磔になったエピソードなど。今日、超大国である米国の一国支配という現状があります。その米国には、進化論以前の聖書の内容を真面目に信じている、原理主義の人々が多くいます。また、米国のクリスチャン・シオニストたちが、イスラエルに莫大な支援をしている、という現実もあります」。
まず、12月25日のクリスマスというのは、ユリウス暦によれば太陽の誕生日です。起源はミトラ教で、4世紀にキリスト教がローマ帝国の国教となることで、クリスチャンのお祭りになりました。キリスト教では馬鹿騒ぎは好まれません。非常に倫理的な宗教なので。しかし、12月25日にミサをやっても、みんな太陽のお祭りに行ってしまって人が集まらなかったのです。そこでクリスマス(キリストのミサ)を考案した。
岩上「イエスはそもそも実在したのでしょうか。あるいは、モデルになった人がいるのでしょうか。聖書考古学によれば『史的イエス』についてかなり分かってきたと言われているようですが」。
実はあまり分かってないんです(笑)。イエスという人物がいたということは否定できません。4つの福音書があるのですが、その細部は異なっています。完全に空想の人物であれば、このような相違は生じないはずです。実在のイエスがいて、伝承の過程で異動が生じていったと考えられます。
岩上「死海文書が発見されましたね。聖書の原典ではないか、などとも言われます」。上村氏「死海文書とは1947年に死海北西の遺跡で見つかった写本です。現在までに11の洞窟から800の巻物が見つかっています。最も古いものは紀元前3世紀から紀元1世紀」。
紀元1世紀にユダヤ人はローマ帝国に滅ぼされています。死海文書とは、その際にユダヤ人が隠したものなのだろうと言われています。羊皮紙、パピルスで出来ています。死海沿岸は乾燥しているので、2000年近くも保管されていました。死海文書とは、旧約聖書の写本です。他にも、旧約聖書続編(外典)の写本も出てきています。キリスト教が聖典を定めた時期は分かっていますが、ユダヤ教が聖典を定めた時期は分かっていません。死海写本の半分は、これまでまったく知られていないものも含んでいました。光の子と闇の子が戦って世界の終末を迎えるという、黙示録の原型となったような内容のものもありました。
岩上「死海文書によって何が分かったのでしょうか」上村氏「謎が増えた、ということです。聖書は一系統で伝えられてきたと考えられてきたのが、そうではないだろう、と。はたして聖書のオリジナルはあるのか、複数のうちの1つが残ったのか、という議論。聖書考古学により、一つの事実に接近できたというよりも、より分からないことが増えた、混沌としてきた、ということなのでしょうか」。
ユダヤ教は、パリサイ派に代表させておけばよかったのが、それが崩れてきました。パリサイ派とイエスが喧嘩していて、だからクリスチャンはパリサイ派、ひいてはユダヤ教を批判するんだ、というふうに理解されてきました。そういうこともあって、キリスト教とユダヤ教は仲が悪かったんです。
岩上「『史的イエス』について、現段階で分かっていることを教えていただけますか」。
『史的イエス』と『信仰のキリスト』という対比で考えます。後者は、クリスチャンの信仰の光において理想化された姿です。キリスト教徒は、イエスのことを『キリスト』だと信じます。『キリスト』というのは、アラム語の『メシア』をギリシャ語に翻訳したもの。『油(オリーブオイル)を注がれた者』という意味です。イスラエルの王様のことを指します。他方、ユダヤ教では、自民族を『神の子ら』と認識します。ユダヤの王様は、神の"養子"として任命される。『神の子』とは『神の養子』という意味です。王権の根拠を合理化するために、神を利用したと言えます。キリスト教での『神の子』というのは、まさに生物学的に血がつながっている、という意味になります。ギリシャ神話では、神々と人間が交接をする場面も出てきますね。なので、『神の子』という概念が、まさにそのまま理解されました。この生物学的な『神の子』という概念を説明するために考えだされたのが、『処女懐胎』という物語です。まず『イエス=メシア』という考えが起点にあって、それを説明するために聖書のエピソードは作られていったわけです。史的イエス』は、もちろん処女懐胎で生まれた訳ではなく、普通にナザレで生まれました。兄弟姉妹もいたと言われています。『処女懐胎』という物語が生まれたのは、イエスが神から生まれたことの説明をしなければいけなかったからです。イエスの父ヨセフは、比較的早く亡くなったと考えられます。イエスは父の跡をついで大工として家族を養っていたようですが、ある日突然、ヨルダン河沿岸にいた洗礼師ヨハネの所に行ってしまったんですね。理由はよくわかっていません。イエスはどうやら、非常に強い罪意識を持っていたようです。ヨハネの洗礼とは、罪を悔い改めさせるというものです。まさに『悩める若者』だったということですね。
岩上「『タルムードの中のイエス』という本があります。タルムードというのは何でしょうか」上村氏「ユダヤ教の聖典は聖書ですが、準聖典であるミシュナーの解説書がタルムードです」。
ユダヤ教は、イエスを預言者とは認めていません。イスラム教は認めていますが。なのでタルムードの中では、イエスは単に『なんか困ったやつ』という描かれ方をするわけです。タルムードの中では、イエスは家族問題で悩んでいた、という風に描かれているようですね」上村氏「新約聖書では、処女懐胎したマリアを、ヨセフが『不貞を働いたのでは』と考える場面があります。タルムードはその『不貞』の解釈を取るわけです。タルムードでは、イエスはマリアとローマ兵の間の私生児として描かれています。史的事実として根拠はありませんが、ケルソスというギリシャ人に教えられてユダヤ人がそう主張するようになった、と言われています。2世紀から3世紀、キリスト教は新興宗教として迫害の対象になります。ケルソスも、そういう文脈の中で言ったのかもしれません。タルムードというのは、基本的に法解釈の書物です。イエスやキリスト教について言及している部分はほんの一部。そのほんの一部を丁寧に解説したのが『タルムードの中のイエス』です。タルムードはキリスト教との論争のために書かれたものではありません。
岩上「イエスが行ったとされる様々な奇蹟とは何だったのでしょうか」。
自然科学の原理は今も昔も変わりません。イエスの偉大さを説くために事後的に作られた物語です。ただ、イエスの活動の中心に病人と接することがあったことは間違いないでしょう。イエスの活動というのは、自ら『義人』と言っている人たちの偽善を暴いていくことでした。罪人とレッテルを貼られている人の所へ行き、一緒に食事をする。『人間は罪なしでは生きられないが同時に赦されている』。こういう人間観がイエスにあったのでは。
.岩上「仏教の考え方に近いように思えます」。
人間とは何者かということを突き詰めていくと、同じ地点にたどり着くのでしょう。人間は一人では生きられない。『生かされてある』ということが先にあります。その後で『どう生きるか』という問が出てくる。『生かされてある』という前提を抜きにして、目に見える能力や身分に拘泥するようになると、それをもとにして人を馬鹿にしたり差別したりするのではないでしょうか。いま『能力と身分』ということをおっしゃいました。現代の自由競争の社会では、能力差による報酬の差、社会的地位の差というものは基本的に肯定されています。史的イエスはこれを否定していたということでしょうか。人間存在は、生きていればひとりひとり違う。しかし『生きているということ』そのものは変わりません。そして人間には死を迎えるまで生き続けるという当たり前の権利があります。その権利は能力とは全く無関係に認められるべきでしょう。『勝ち組』といわれる人の根底にあるのは、相対的な比較にもとづく自己肯定感なのだろうと思います。しかしそれは相対的なものなので、常に上にいないと不安なのでしょう。この考えから抜けるには、人間の存在は元々肯定されていることに気付くこと。私の言葉で言うと『人間存在は関係の中で生かされている命なのだ』ということになります。これがキリスト教やユダヤ教では『神によって生かされている』ということになります。与えられる、ということは、人間存在は受動態でしか存在できない、ということです。そこに神を立てても立てなくてもいい。人間は、自分の意思や責任で生まれた訳ではないのですから。
岩上「ただ、どうしても自己肯定感が持てない、みじめだ、という方もいらっしゃると思いますが」。
あなたが生きているのは、生かされているから生きているのだ、ということに気づくべきだと思います。存在の前提には、あらゆる他者との関係があるのです。関係性というのは社会性ということですよね。若い人の中には、自分の実存がツラいという方も多いようです」。上村氏「近代国民国家では、関係性も個人で構築するよう迫られます。そこで、横のつながりを作れない人がナショナリズムに吸引されたりする。
岩上「上村先生は牧師さんの息子さんだそうですが。反発などはありましたか」。
10歳で洗礼を受けてクリスチャンになりました。大学で聖書学に関する本を読んで、親の言っていたことは嘘八百だったんだなと気づきました(笑)。聖書学というのは、『聖書からイエスへ帰れ』というのがスローガンです。聖書原理主義から離れて、テキストを批判的に検討し、史的イエスの探求を目指す、というものです。ただし、『史実=真実』という、科学主義的・啓蒙主義的な態度とは距離があります。なぜなら、そのような科学主義的な態度こそが、原理主義を生んだからです。原理主義の人達は、聖書は真実であり、したがって科学的に正しいのだ、と考えます。アメリカで中世的な信仰と最先端の科学が同居できる理由がここにあります。アメリカというのは科学信仰から生まれた国だからなんですね。
岩上「米国のキリスト教はピューリタニズムだと一般には言われていますね。そのピューリタニズムがそのまま現在のファンダメンタリスト(原理主義者)につながったのでしょうか。そのあたりの関係を教えていただけますでしょうか」。ピューリタンというのは『清教徒』と書きますが、純粋主義・純血主義を取ります。『新大陸で純粋な神の国を作るんだ』ということで、ピューリタンはアメリカ大陸に渡っていきました。ヨーロッパが啓蒙主義の時代に入ると、聖書の内容が科学的に批判・検討されるようになります。そのことへの抵抗として、純粋主義のピューリタン達がファンダメンタリズム(原理主義)を作り出していきます。
岩上「冷戦が終わって以降、米国の一極集中という状況が続いています。そのことを考えるための手がかりが聖書の中にあるそうですね」。
イザヤ書の2章2節・4節・5節ですね。イザヤ書2章4節は国連の建物に彫ってあります。"主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。 彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。 国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない"。他方、2節と3節にはこうあります。"終わりの日に 主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい。多くの民が来て言う。主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もうと。主の教えはシオンから御言葉はエルサレムから出る。"。戦争が終わることを宣言しているわけですが、それはエルサレムが世界の中心になり、ユダヤ教の神様を仰ぎ見るようになる時だ、と説いています。ヘブライ語聖書の歴史観では、失楽園のエピソードからも分かるように、人間は原罪を抱えた存在として描かれているわけです。だから、ノアの大洪水など、神は人間の世界に対して介入します。バベルの塔のエピソードで、それまで一つの言語を喋っていた人間が、様々な言語を話す複数の民族に分割されます。その中から、イスラエル民族の祖先であるアブラハムが神により選ばれます。そして、イスラエル民族のもとで他民族の再統合が期待されます。ノアの大洪水の物語も、メソポタミアのギルガメッシュ叙事詩から来ているとも言われていますが」。上村氏「そうです。ユダヤの律法も、ハンムラビ法典に非常に似通っているものがあります。中東一帯の様々な伝承や記録を、聖書において再編集しているのです。聖書の歴史観が固まるのが、バビロン捕囚の時です。バビロンに連れて行かれた人達が、『なんでこんなことになったのか』と過去を振り返ったんですね。自分たちは神に背いてきたのではないか、と。聖書の内容は、ユダヤ民族のアイデンティティを確立するための物語です。モーセだって実在したわけではないし、何十万人も連れてエジプトから連れて行った、ということは歴史的事実としてはありません。日本で言う古事記の世界です。聖書の内容は、ユダヤ民族のアイデンティティを確立するための物語です。モーセだって実在したわけではないし、何十万人も連れてエジプトから連れて行った、ということは歴史的事実としてはありません。日本で言う古事記の世界です。
岩上「イザヤ書にある人類の統合、これはイスラエル帝国主義の宣言ということなのでしょうか」。
簡単に言うとそういうことです。戦前日本の『八紘一宇』と同じですね。むしろ日本の側が、米国経由でイザヤ書の思想を学んだのでしょうキリスト教はイエスによって作られた、と考えている方は多いですよね。
イエスは宗教を作るつもりはなかったし、分派を作るつもりもありませんでした。イエスもその弟子も当然ユダヤ教徒(ナザレ派)です。キリスト教というのは、イエスが死んだ後にイエスの復活を見て、イエスこそがキリスト(メシア)だ、と信じた人達の宗教です。パウロは、ユダヤ教からキリスト教に改宗したと思われていますが、ユダヤ教のパリサイ派からキリスト派に変わっただけ。
岩上「クリスチャンが新約聖書から旧約聖書を切り離さなかったのはなぜでしょう」。
ユダヤ教から切り離されているということになると、新しい邪教ということになってしまいます。旧約が描く古い物語を自らの正統化に利用した、ということです。2世紀にはキリスト教にも異端が登場します。マルキオンという人が、キリスト教は旧約聖書とユダヤ教から手を切るべきだと主張しました。マルキオンは破門され、旧約聖書は聖典とされました。ユダヤ教というのは、常に自虐史観的な視点を持っています。自らが不遇な状況に置かれた場合、その原因を過去に遡及して物語を紡いでいく。それが旧約聖書ですね。しかしキリスト教は、旧約の内容を救済に向けたストレートなものとして理解します。アレクサンダー大王というのが出てきますね。ヨーロッパ人としてはじめてペルシャを倒し、アジアを支配した人物です。ヨーロッパ帝国主義にとって、アレクサンダーは常にヒーローでした。アレクサンダーが死んだ後のディアドコイの争いの中で、エジプトとシリアの間で、地政学的に要衝の地だったエルサレムの争奪戦が始まります。その中で、『この世は終わってほしい』という終末論が出てきます。そこで、終末論と個人の運命とを重ねあわせる考えが出てきます。『義人』だけが救済され、罪人は滅ぼされる、という二元論です。黙示というのはこのような明確な二元論なのです。旧約聖書の思想というのは、ばらばらになっている人類が再統合される、というものです。他方、黙示思想というのは、抑圧されている自分たちだけが救済される、というものです。黙示思想のほうが独善的だと言えます。イエスの弟子たちは、イエスが処刑された時に逃げたので、罪悪感を感じていました。イエスが復活したという幻を見たことで、イエスにより赦された、と考えたのでしょう。イエスが私たちの身代わりとなって死んだのだ、と考えました。大航海時代、ヨーロッパが新大陸に出て行ったのは宣教のためです。宣教としての西欧の植民地主義は、先ほどのイザヤ書とアレクサンダーの姿とが一緒になって形づくられていきました。宣教にはキリスト教のエゴイズムの問題があります。エゴイズムとは自我への執着。キリスト教はエゴイズムに肯定的です。救済とは『永遠の命』を得ることですから、キリスト教とは自我の究極の願いを成就させてくれる宗教だということになります。
岩上「『キリスト教の自己批判』の中でコヘレトの書を紹介されていますね。これはどういった内容のものなのでしょうか」。上村氏「一言で言えば、明石家さんまの『生きてるだけで丸もうけ』ということです」。
コヘレトという人が出てきたのは紀元前3世紀頃、先ほど説明した黙示思想の二元論が出てきた時代です。コヘレトはこの二元論を全否定し、死後の世界への期待を切り捨てたのです。ユダヤ教の根本を全否定した人です。歴史は反復するのであり、終末というのも存在しないのだと。コヘレトの有名な言葉に『空の空』というものがあります」。岩上「ほぼ仏教ですね」。上村氏「ヘブライ語には『無』という単語がなかったので『空の空』という表現しかできなかった。コヘレトは『人生には益がない』と言います。『益』とは、儲け、利潤のこと。現代で言うと、お金や権力、夢、生きる意味、そういったものをコヘレトは否定したということです。食事をして妻と生活をともに生きる、そのことだけを肯定するのです。自分の命が与えられたものとしてあるということに気づかず、お金や権力、名誉にばかり拘泥することは虚しいのだと。これがコヘレトの教えなんですね。キリスト教は慈善として分け与えるということをしますが、それは上から目線で提供する、という姿勢なんですね。自らが与えられる、という発想は希薄です。イスラエルに住んでいるユダヤ人のうち、ユダヤ教を厳格に守っているのは2割くらいです」。岩上「先日、モントリオール大学のヤコブ・ラブキン教授にインタビューしました。彼によれば、厳格なユダヤ教徒が最も苛烈なイスラエル国家の批判者であると。ユダヤ教徒はローマ帝国に負けて流浪の民になった後、『神の罰としてディアスポラの民として生きていくことを定められている』と認識します。イスラエルが再興されるとすれば、それは人間ではなく神の意志によるものだ、と考えます。現在のイスラエルを作ったのは、ユダヤ教をやめたユダヤ人です。フランス革命後、『同化ユダヤ人』が出てきます。にも関わらず、ポグロムなどユダヤ人への迫害はなくなりませんでした。そのなかでシオニズム運動が起こります。イスラエル建国の時、シオニストたちは当初、『ホロコーストにあったユダヤ人は弱いユダヤ人だから放っておけ』という立場でした。もう少し後になってから建国の理由としてホロコーストを持ち出すようになりますが。ユダヤ教徒は独立した主権国家を作ることを放棄した民族でした。それは罪に対する罰という認識を持ち続けてきたからです。しかし、むしろそのことによって、民族として永らえることができたと言えます。日本は戦後、憲法9条で武力を放棄しました。これは主権を放棄したことであるとも言えます。マッチョなあり方をやめ、女性的な国になったとも言えます。これは、自己批判的・自己反省的な視点を持って国家を放棄したユダヤ教徒とよく似ています。
岩上「イスラエルと米国の関係について。日本と米国のように主従関係ではありませんね。むしろイスラエルが米国を振り回しています」上村氏「イスラエルというが中東にユダヤ人国家として圧倒的な力を持って存在することが、米国の戦略に有利に働くからでしょう。ユダヤ教における民族の再統合、というお話がありました。現在の世界の流れというのは、国家の解体と戦争、その先に世界政府への統合、という流れがあるのでしょうか」。
それは実際にあると思います。神がもたらす終末は近くありませんが、人間がもたらす終末は近いかもしれません。神は自然に宿るので、介入はしてくれません。今の愚かな人類は滅ぶかもしれませんが、宇宙のどこか別の場所で別の生命として生まれ変わるかもしれません(笑)。ユダヤ人は、絶滅するわけにはいかない。なんとしても生き延びる。その際、武力でやり返すというマッチョな方法ではなく、知恵を使ってなんとかしようとします。事実、武力を使わないことによって生き延びてきたのです。
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