http://www.asyura2.com/12/bd61/msg/205.html
Tweet |
「私は、これらすべてのものが、南北韓の二つの国家が自己の歴史的正統性を作り出すために白頭山を活用した結果だと思います。それは極めて政治的な操作です・・・」(イ・ヨンフン教授特別講義)
18世紀の賢人ソ・ミョンウンは、白頭山を民族の発祥地とは知らなかった。
三国遺事には、檀君の聖地は「太伯山頂 即太伯今妙香山」とあり、別の山だ。
北朝鮮も白頭山を神聖視し、金日成将軍が活躍し、金正日の誕生の地とされている。
今では、中共によると高句麗は中国の一王朝らしいが、白頭山は中韓の係争地となった。
歴史は、都合よく作られる見本です。
日韓近代史資料集から
http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/15868064.html
http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/16063056.html
今日の韓国人たちは、白頭山に登ってその清明な天地を見下ろしながら、この場所こそが私たち韓民族の聖地だという感情の高揚を抑えることができないのが普通です。私もかなり早く、1990年に初めて白頭山に登ったんですが、その時にそういう感じを受けました。一緒に行った同僚教授たちの中には、そういう感動を漢詩に歌った人もいました。檀君がここに天降ったから、ここに我が民族の基礎が用意された。この志を受け継いで、満洲の古地を回復しよう。だいたいこのような内容だったと記憶しています。
しかし、歴史の記録を探せば全然そうではありません。1778年、ソ・ミョンウンと言う当代最高の知識人であり高級官僚でもある人が白頭山に登りました。彼は、ここは中国の地でもなく朝鮮の地でもない遥かな辺境の地であり、千年に一人か二人が来るか来ないかという場所だが、ちょうど私が登って来たら、この山の上にある大きい池に名前が付いていない、だから私が名付けようと言って、太一澤と呼びました。太極が発源して森羅万象になるが、森羅万象は元々一つだという意味です。そのようにソ・ミョンウンと言う当代最高の性理学者は、白頭山の頂上に天池が清明に横たわっている姿を見て、太極を連想したのです。そこからは、今日、白頭山天池に上ってここが檀君が天降った所だと感動の涙を流す韓国人の姿の原型は、ちょっと捜せそうにありません。
18世紀の別のある人物は、白頭山に登って「白頭山こそ天下最高である中国コンリュン山の嫡長子だ」と言いました。山がそうであるように、私たちの朝鮮は、中国から渡って来た箕子大人が立てた国だというのです。これら朝鮮の官僚と士たちは、韓国史が箕子から始まるという箕子正統説を信奉しました。檀君が国祖という意識は非常に微弱でした。檀君を知らなかったわけではないですが、脇に置かれており、代わりに箕子が全面に出ていたのです。
檀君が韓国人の国祖だという意識は、19世紀末〜20世紀初めから現れ始めました。そうするうちに、解放後、大韓民国の成立とともに大韓民国政府が民族主義教育を強化し、またタンギという年号を使って開天節と言う祝日を制定するなどの過程で、本格的に成り立ったと言えます。檀君が国祖として登場する過程で、民族と言う言葉もできました。より正確に言えば、民族と言う言葉は、1904年の露日戦争以後に日本から輸入されたものと知られています。
朝鮮時代に民族と言うものはなかったのです。民族と言う言葉は、崔南善先生が1919年3.1独立宣言書に書いたことで広く大衆化し始めたようです。ところが植民地期には、知識人階層にその普及の範囲が限定されていました。私は、植民地期に伝統儒者たちが書いた生活日記を何冊か読んで見たことがありますが、そこには、結局、民族と言う言葉が現われないのです。私たち朝鮮人(我朝鮮人)、これぐらいの表現が精一杯でした。
朝鮮王朝の時代に「同胞」という言葉がありました。その言葉の使い道も、詳しく調べて見れば、民族と同じではありません。それは血を分けた兄弟という意味から、皆が同じ人の臣下だという政治道徳的な意味に至るまで、ひいては、我々東洋人は皆、孔子の教えを受けた一つの同胞だという言葉のように、一種の広い文化圏を象徴する多様な用途で使われました。「キョレ」という言葉もありましたが、それは血が通じる一家親族を現わす言葉でした。
要するに、民族という政治的共同体意識は、20世紀に入って日帝下の植民地期に本格的にできたのです。日帝の抑圧を受けながら、消滅の危機に頻した朝鮮人たちが、自分たちを一つの政治的運命共同体だと確認し改めて意識する中で、この言葉と意識が急速に普及して行ったのです。
白頭山を民族の発祥地として神聖視するのは、私が知る範囲で言えば、1927年、崔南善先生が書いた『白頭山勤参記』が初めてです。そうするうちに、解放以後、南北韓の二つの国家が、民族の象徴として白頭山を共通に強調するようになります。特に北朝鮮でそうでした。白頭山密林の野営地でパルチザンたちの英雄的な独立闘争が起った、そこで金正日同志が生まれた、その晩白頭山天池に光明星の光が輝いた、 等々の童話のような神話が作られて、北朝鮮の子供たちに注入されています。
南韓ではそれほど露骨にではないですが、白頭山を神話化する傾向がずっとあったと言えます。私が小学生の時は、教科書の裏表紙に、太極旗とともに「白頭山の霊峰に太極旗を翻そう」という掛け声が書かれていました。そのように、白頭山は幼い私にとって霊峰でした。今日の国史教科でも、白頭山を我が民族の霊山だと教えています。
私は、これらすべてのものが、南北韓の二つの国家が自己の歴史的正統性を作り出すために白頭山を活用した結果だと思います。それは極めて政治的な操作です。それは、結局、20世紀に入って韓半島の住民集団が、帝国主義の抑圧下で自分たちを一つの政治的運命共同体と意識するようになった結果です。だから、それは、徹底的に歴史的な現象です。19世紀まで、朝鮮の人たちにはそういう政治的共同体意識がなかったのです。何かあるにはあったと言えますが、それは今日と違う形態と違う内容でした。箕子正統説がその良い例になります。
そして民族と言う意識は、これから21世紀半ばくらいまでの韓国人たちには、今よりずっとぎこちない存在になるかも知れません。ますます国際化、世界化していく時代に生きていますのでね。最近の報道によれば、韓国の人口増加率は世界で一番低い水準だと言います。一定規模の国民経済を維持するためには、外国人労働者の流入が不可避な状況です。今や、農村へ行けば新生児の3割は混血だと言います。これから韓国人たちは、ますます皮膚の色が多様になる多人種社会を生きることになるでしょう。そんな社会を一つの政治的共同体として統合するためには、同じ先祖の子孫だ、血が同じだ、などの人種的観念に基づく民族主義ではなく、もっと別の普遍的文明価値に基づく理念が必要です。
今後、民族主義は、段々とその力を失って行くでしょう。代わって、自由と人権と協働と思いやりの美徳によく訓練された先進的文明人たちが建設する市民社会のイデオロギーが、その役目の代わりをするでしょう。このように民族と言うものは、歴史を超える実体ではないのです。それは徹底的に歴史的な現象であり、流動的で経過的なのです。民族は国家より上位のものにはなれません。それに対して、国家は、ある住民集団を一つの文明的秩序に統合させるに欠く事のできない、それを欠くときは野蛮の状態をもたらすという、文明の最高水準であり、また保障なのです。
民族が分断されたからと言って、成立した国家を過ちによってできた国家だと呪うことは、論理的に妥当ではないです。実証的に、分断の過程がどうであったのかは、別の問題として重要な問題ではありますが、一つの民族に二つの国家が生じたと言っても、それが間違いだと言う論理は始めから成り立たないのです。少々過激に聞こえるかも知れませんが、私は、民族と国家と統一に関する私の考えを論理的な基礎から明確にするために、この点を強調せざるを得ません。
要するに、21世紀の韓国人たちが大韓民国を先進文明社会として建設して行くためには、狭くて暗い民族主義という集団感情の落とし穴から脱出して、自由と人権と協働と思いやりといった人類普遍の文明要素に即して私たちの辿った歴史を再解釈する必要があります。
そのような文明要素を精神の本質とする個々の人間を歴史の単位主体に置いて、彼ら文明的人間が相互協働して配慮しながら建設して行く家族、団体、社会そして国家、そういうものの歴史として韓国の解放前後史を再解釈する必要があります。ひいては、これから私たちが成さなければならない民族統一と言う歴史的大課題も、このような人類普遍の文明要素に則って行われなければなりません。
これからこのような視点で20世紀の韓国の歴史を、特に1930〜1950年代の解放前後史を、全面的に見直して行こうと思います。
<参考リンク>
・朝鮮民族の長白山
http://www.searchnavi.com/~hp/cbshan/chosenzoku5.htm
・朝鮮中級学校歴史教科書発行「金正日は白頭山で誕生」「朝鮮を解放したのは金日成の軍隊」
http://hrnk.trycomp.net/book.php?eid=00015
・白頭山
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%A0%AD%E5%B1%B1
白頭山は周囲に住む民族から崇拝を受けてきた。文化・信仰としてはまず、韓国でも北朝鮮でも、『三国遺事』が引用する「朝鮮古記」による「檀君神話」が国定教科書で教えられていて、最初期の朝鮮国が白頭山で起こり、その後、平壌に遷都したので、白頭山は朝鮮民族の揺り籠であると多くの人が信じている。しかしその根拠になっている『三国遺事』に登場する山の名前は太伯山で、今(『三国遺事』が書かれた当時の今)の妙香山(北朝鮮の平安道にある山)だと書かれている[11]。なお「三国遺事」の第三巻に含まれる「臺山五萬真身」と「溟州五臺山寶叱徒太子傳記」に白頭山という名称が見受けられ、これが朝鮮の文献における白頭山の初出である。仏教関連の項目に、中国の五臺山などと共に、仏教の修行地として登場している。
白頭山周辺は、もともと濊・貊・粛慎が居住しており、彼らの聖地だった。その後この地における濊貊の勢いは衰え、粛慎の後裔とされる女真(満州族)が霊山としていた。女真の金は、1172年には山に住む神に「興国靈応王」の称号を贈り、1193年には「開天宏聖帝」と改めている。清も金と同様、白頭山に対する毎年の典礼を行った。清朝の歴史書『満洲実録』によると、清朝の皇室愛新覚羅氏の祖先は長白山の湖で水浴びをしていた三姉妹の天女の末の妹が、天の神の使いのカササギが運んできた赤い実を食べて妊娠して生んだ男の子ブクリヨンションである。ブクリヨンションは成長後、母から乱れた女真の国を治める天命を受けて生まれてきたことを聞かされ、白頭山から船に乗って川を下っていき、争っていた女真の人々はブクリヨンション見て争いやめ、王として仰いだ。清朝時代には白頭山は神聖な山としてあがめられ、封禁地とされ一般人が立ち入ることは禁止された[要出典]。
「高麗史」に、第6代高麗王成宗(在位:981年 - 997年)の時代の990年10月に「逐鴨緑江外女眞於白頭山外居之」という記述があるが、韓国ではこの文章を「鴨緑江を渡ってきた女真族を白頭山の外側に追いやった」という風に理解され、中国の東北工程に対抗しているが、高麗が白頭山を領有したことは一度もなかった。白頭山は渤海が滅亡する926年までは渤海領であり、その後は渤海を滅ぼした契丹(遼)の領土になり、その後は金の領土、モンゴル帝国の領土と変遷していった。朝鮮人が白頭山を領有するようになったのは李氏朝鮮の世宗(在位:1418年 - 1450年)の時代になってからであり、世宗は鴨緑江・豆満江沿いの要塞化を進め、白頭山は朝鮮民族と北方民族との境界となった。李氏朝鮮の時代は1597年、1668年、1702年に噴火の記録がある。
朝鮮人が満州の豆満江以北地域である間島へと移住する動きが絶えず、1712年、清と朝鮮の役人達は白頭山の分水界に国境を示す定界碑を建てた。ここに書かれた、国境を「西方を鴨緑とし、東方を土門とする」という表記の解釈をめぐり、土門を豆満江とする清側の主張と、土門江(松花江支流)とする朝鮮側の主張が19世紀末から20世紀はじめにかけてぶつかりあった。1962年に結ばれた中朝辺界条約によって天池上に中朝国境線が引かれ、中国側の主張を北朝鮮が呑む形で終結した。この条約により天池の54.5%が北朝鮮に、45.5%が中国領としてほぼ半分に分割される事になった。これに対して韓国のメディアや世論は批判的であり、松花江を境界とする主張を続けている。
背景には、朝鮮王朝末期の19世紀終わりから20世紀にかけて、白頭山を朝鮮人のナショナリズムの象徴とする運動が生まれたことがある。この運動は成功し、韓国、北朝鮮双方の国歌や朝鮮民族の代表民謡であるアリランでも歌われるようになった。過激な韓国人民族主義者が白頭山を自国領と主張するパフォーマンスが行うことがあり、中国を警戒させている[12]。
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。