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(回答先: 国津神と天津神考、高天原は何処考その1 投稿者 C.V 日時 2013 年 2 月 22 日 13:37:24)
http://6616.teacup.com/rendaico3/bbs/212
学んで為になる学問と却ってアホウになる学問の識別解が漸く見えて来たので記しておく。学んでアホウになる学問とは、国際ユダヤ(国際金融資本帝国主義ネオシオニズム)が対ゴイム用に仕立てた学問テキストに基づく学問であることは既に指摘した。
それでは学んで為になる学問はどこにあるのか。見えて来たのは日本の古き学問及びその姿勢である。古きとは、大和王朝以前に遡る意味で使っている。れんだいこ推理によれば、日本は大和王朝以前に出雲王朝、邪馬台国を形成していた。これを「古き」としている。この時期までに形成されつつあった諸学問及び学問姿勢こそ学んで為になる学問である。そう思うようになった。
この観点から見れば、鮮やかなほど世に有益な業績を挙げたものが「古き学問」から生れていることが分かる。これを逆に云えば、ネオシオニズムテキストが生み出したものにはろくなもんがない。それは何も学問だけに限ったものではない。政治も経済も文化も精神も然りである。そういうことが見えて来た。
実際にはネオシオニズムテキスト系学問と上古代日本の学問が混在している訳で、そういう意味では見分けがつきにくい。しかしながら、見分けがつきにくいままに上古代日本の学問に向かったものは有益な果実を生み、ネオシオニズムテキスト系学問に向かったものは有害な空疎に至る。そういうことに気付いた。気づけば今からでも遅くない。気づいたときから始め実りのある営為に向かわねばならない。
この解により次にのべる一つの疑問が解けた。れんだいこの父母は、ここでは母を挙げるが、何故に知識が乏しいのに人として立派に生き通せたのか。ここで云う立派とは肩書きのことではない。母は4人の子を産み、父と睦まじく連れ添い、ほぼ死ぬまで働いて80歳余の寿命を終えた。生前云ってた通りに金も借金も残さなかった。朝に仏壇、神様、稲荷様にお供えし夕べに下げの繰り返しの日々だった。嫁に辛く当たるのでもなく死んだ時には兄嫁が心から涙を流していた。手前らは尋常高等小学校しか出ていなかったが、子供は高校、大学へと進学させた。れんだいこの奨学資金の返済は気づいたら母がしていた。
こういう生き方及び能力はどこから生まれたのだろうか。子供の数でも親業(わざ)でも地域との交わりも世間評も、れんだいこよりしっかりしていると思う。しっかりと云う意味では、その昔に驚かされたのだが、れんだいこが学生生活に東京に出向いた際、手紙をくれたが、文章がしっかりしていた。末尾が何とかでせうとしていたのを覚えており、これが気に入り、れんだいこも使っている。
要するに二宮尊徳的生き方をしていたのではなかろうか。その二宮尊徳は、三戸岡道夫著「二宮金次郎の一生」 で教えてもらったが、「古き学問」出自の英才だったと思う。他の誰それも同じこと、極論すれば優秀な人は皆な「古き学問」出自の者である。おふくろも、そのはしくれだったと思う訳である。後はもう云うまい
「歴史捏造の歴史 司馬遷から江沢民まで」その1
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/kashimashikan/rekishinetuzonorekishi1.html
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