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@ 今回の記事の結論。
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ヘブライ民族と日本民族は、コインの裏表であり仕組みの主役である。ヘブライ民族が流浪の果てにエジプトに流れ着いて子孫を増やしたように、(ヘブライの遺児である)日本民族も流浪の果てに中国で子孫を増やした。
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そして、ヘブライ民族がモーゼに率いられてシナイ半島で兵を養い、一気に「約束の地」に侵攻したように、朝鮮半島に隠れていた「ヘブライ民族たる日本人」は、民族大移動に合わせて移動を開始して、北九州と出雲を制圧し、西日本を制圧して「大和王権」を成立させた。
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以下、この根拠について列挙するのである。
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★ これは、あくまでも『元伊勢80社説』である。「自説と違うから」と言って、興奮しないように。
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A 古墳の成立と神社の成立。
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@ 『古墳の成立時期』
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古墳は古墳時代(3世紀後半以降)に突然出現した。古墳の形式には様々があるが、それ以前の「弥生式」の形式とは全く異なっている。
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A 『古墳と弥生式墓制との違い』
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弥生時代には「甕棺墓(かめかんぼ)」や「石棺墓」や「木棺墓」など様々な形態があり、中には「舟形」のものも見られるが、いずれも家族単位や共同墓地形式であり、古墳のような巨大墳墓ではなかったから、古墳と弥生式墓制には明らかな「断絶」があった。
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B 『古墳は中国から来た』
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日本に古墳の原型は無かったから、古墳は周辺諸国から輸入されたが、輸入元は中国である。
それは、秦の始皇帝の巨大墳墓であり、(1968年に発掘された河北省にある)前漢の中山靖王の墓(紀元前113年没)でもあるだろう。
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しかし、秦の始皇帝時代に「徐福(じょふく)」が日本を訪れたとしても、日本は中国に比べれば未開の原野であり、その当時には今の平野もなく、富士山も活発に活動しており、琵琶湖も伊賀上野方面から若狭方面に移動を繰り返していたような造山活動の時期でもあったから、文明人たる中国人は日本に定着しなかったし、中国式の古墳も作られなかった。
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C 『民族大移動が中国人を日本に追いやった』
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民族大移動は、東洋では、(魏・呉・蜀の三国時代を再統一した晋の晩期である)304年の「五胡十六国時代」から匈奴などの北方民族が大移動して、中華帝国に進入し、中国は3百年にわたって動乱が続いた。(中国の再統一は581年の鮮卑族系の隋によって成された)。
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西洋では375年のフン族の大移動から始まったが、これは、中国北方民族の大移動により、一部勢力が東欧に侵入したために、「玉突き現象」として派生したとの見解もある。
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ちなみに、朝鮮半島では、濊貊(わいはく)である高句麗が、鮮卑族に押される形で朝鮮に侵入して、313年に楽浪郡を滅ぼした。全勢力は老若男女を入れて数万であり、多くても十万とか二十万に過ぎないだろう。
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高句麗から分派した夫余族の百済は、高句麗よりも少なく老若男女を合わせても数万であり、多くても十万が良いところだろう。
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(『魏書東夷伝』当時で、高句麗の北東にいた夫餘・夫余族の人家は8万戸で推定30万人程度だが、大動乱で半分から3分の1が移動したと推測する。
また、高句麗は魏志東夷伝で3万戸で推定15万人程度だ。
魏書東夷伝の「夫餘」と、百済の夫余族が違うなら、それは高句麗から分派した夫余族ということになり、総人口は数万に過ぎないだろう)。
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『騎馬民族は基本的に敵は全部殺した』
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騎馬民族は、生活の基本が草原での遊牧であり移動生活であったから、「足手まとい」になるような捕虜や奴隷を持たなかった。したがって、(民族の違う)敵を倒した後は老若男女全部を皆殺しにしただろう。
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したがって、中華の王侯貴族は、騎馬民族の侵入を恐れて、逃げたはずである。
逃げた先は3方面が考えられる。第1は揚子江を南に渡った中国南部。第2はベトナム・タイ・インドネシアなどの東南アジア。第3は船で日本に渡った。
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『少数単位の中国の王侯貴族が日本に分散して、古墳を築いた』
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中国の王侯貴族は大陸内部に領地を持っていたために、船の確保が出来ず、大船団を組めなかった。また、遠浅で水深の浅い中国沿岸では大型船を作ることが出来なかったために、少数単位で日本を目指したが、多くは東シナ海で海の藻屑と消えた。日本列島にたどり着いたものが、土着の倭人たちを鎮圧して「豪族」になり、古墳を築いた。
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D 『神社の成立は古墳の成立よりも後である』
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考古学的な検証により、日本神道の神社は古墳よりも後に作られたことが常識とされている。
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『古墳から出土する銅鏡の話』
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日本各地の古墳から銅鏡や銅剣などが出土している。三国時代の魏の年号である「青龍三年(235年)」とか「景初3年 (239年) 」とかの青銅鏡の発見に『卑弥呼だー』と騒ぐ人もいるが、本当は、日本に脱出した中国の王侯貴族が貴重品であった鏡などを持ち込んだに過ぎない。
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B ヘブライ民族であるアマテラス・スサノオは朝鮮半島の沿岸部に隠れていた倭人である。
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朝鮮半島の沿岸部に隠れて、海洋部族「倭人」として勢力の拡大を図っていたヘブライ民族は、北方騎馬民族の動向を探っていたが、高句麗が313年に楽浪郡を滅ぼし、さらに分派した百済が南下したので、ヘブライ民族が地盤を築いていた北九州や出雲などに軸足を移動していった。
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しかし、ヘブライ民族全てが移動したわけではなく、百済方面は夫余族に陥落したが、南部の伽耶諸国(かやしょこく)や東部の新羅方面は守り通した。
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『ヘブライ形式の日本神道の成立』
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ヘブライ民族であるアマテラス・スサノオは、北九州や出雲方面の沿岸部を基点に勢力を拡大していった。それがスサノオの「ヤマタノオロチ」であり、大国主の「越への遠征」であり、「播磨風土記の大名持大神(大国主大神)」であり、「三島溝咋(みしまみぞくい)の勢夜陀多良比売(せやたたらひめ)の大物主神」である。
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そして、勢力の拡大とともに、初めて、ヘブライ様式の日本神道が拡大していったのだ。(それまでは、モーゼがシナイ半島にヘブライ人を隠したように、日本民族もヘブライの出自を隠すために朝鮮に神社は作らなかったのだ)。
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C 騎馬民族の百済は日本に来れなかった。
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第1に、老若男女全部でも数万とか十万程度の少数勢力では百済の建国が限界だった。
第2に、伽耶諸国や新羅と激しい攻防戦を繰り広げており、日本遠征は不可能だった。
第3に、日本遠征に必要な船の調達が出来なかったし、必要な船大工は全部日本に逃げた。
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