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吊るされ火あぶり、母は目の前で処刑… 壮絶な収容所体験〈AERA〉
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140319-00000004-sasahi-kr
AERA 2014年3月24日号より抜粋
目の前で母が絞首刑に、続けて兄が銃殺刑に処された。そのとき申東赫(シンドンヒョク)氏(31)を襲ったのは、悲しみでも絶望でもなく、2人に対する「怒り」だったという。14歳になって10日後のことだ。
「母と兄が脱走を企てたことで(拷問など)ひどい目にあった。2人をとても恨んでいた」
「罪を犯したのだから、死ぬのは当然だと思っていた」
彼の半生を振り返ったドキュメンタリー映画「北朝鮮強制収容所に生まれて」で、申氏はとつとつと語る。その言葉は、肉親に対する愛情の獲得すら許されない閉鎖空間の凄まじさを知らしめる。
この映画や彼の著書などによると、申氏は1982年、北朝鮮中部の价川(ケチョン)市にある政治犯の強制収容所「14号管理所」で生まれた。両親は模範的な収容者同士として「表彰結婚」をした。
物心ついたとき、申氏にとって母は「生存競争の相手」だった。食事はわずかな配給だけで、申氏はいつも空腹だった。ある朝、母が働きに出た後、昼食にと作ってあったトウモロコシの粥を母の分まで平らげた。母は激怒し、申氏を激しく殴打した。しかし彼はその後も、機会を狙っては母の食べ物を奪い、せっかんに耐え続けたという。
学校に入ると、自分は両親の罪を受け継いだ人間だと教師から叩き込まれた。収容所で生まれた子どもは他にもいたが、経歴について話すことは禁じられていたため、どのぐらいの人数だったのかは知らない。他人はもちろん、友人や家族も常に監視し、話の内容や行動におかしい点があれば、教師らに報告するよう教育された。
そんな申氏にとって、彼が13歳の春にとった行動は、直感的で自然なものだった。
その日たまたま、教師の指示で学校の寄宿舎から自宅に帰ると、いるはずのない兄が家にいた。セメント工場の労働から逃げ出し、見つかれば銃殺は確実だった。夜、申氏が話し声に目を覚ますと、母と兄が収容所からの脱出を話し合っていた。母は、ふだん食べられない白米を、兄のために炊いていた。
申氏は午前1時に学校に行き、見たままを警備員に密告した。見返りに、食べ物と学年リーダーの地位を求めた。申氏が次に母と兄の姿を見たのは、7カ月後の2人の公開処刑の場だった。この間、申氏と父も脱出計画への関与を疑われて監禁され、天井からつるされ火であぶられるなどの拷問を受けた。
22歳のとき、収容所を脱出。中国経由で韓国に渡った。申氏は現在、唯一の収容所生まれの脱北者とされる。
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