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ソウル近郊「反日スポット」ここまでやるか![大新聞が報じない「韓国」の馬脚]〈週刊新潮〉 
http://www.asyura2.com/12/asia14/msg/584.html
投稿者 赤かぶ 日時 2013 年 12 月 12 日 12:35:00: igsppGRN/E9PQ
 

ソウル近郊「反日スポット」ここまでやるか![大新聞が報じない「韓国」の馬脚]〈週刊新潮〉
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20131212-00010001-shincho-kr
Book Cafe 矢来町ぐるり 12月12日(木)11時46分配信


[韓国人の理不尽な反日意識は、朴槿恵大統領が誕生してからというもの、火勢を増すばかりだ。それは教育もさることながら、そこかしこに設けられた「反日スポット」という酷い“種火”によって、かの国の人々が、嘘に立脚した憎悪の炎を絶やさないからである。]

 日本が統治時代に行ったという“非道”が、今なおそれほど憎いなら、「人のふり見てわがふり直」したほうが、国際的にもよほど尊敬されるのに、韓国の方々には、そんなことはまるで意中にないらしい。さる韓国人ライターは、

「とりわけ、60代以上の世代は、台風が日本に向かうと聞けば“日本人は全員死ねばいい”と言うし、東日本大震災で発生した巨大津波に対しても、“植民地時代の天罰”なんて平気で言っていましたからね」

 と呆れ顔だが、口にするだけならまだしも、それを公共建築によって“造形”してしまうとは、もはや我らの想像を絶している。最近完成したソウル市の新市庁舎、通称「ツナミ」のことである。全面ガラス張りで、波の曲線美を強調したその巨大建築は、

「見るからに東日本大震災の大津波そのままの形で、不謹慎極まりない」

 と、国際部の記者も憤りを隠さない。

「1926年の日帝統治時代に建てられた旧市庁舎は、老朽化に加え、上空から撮影した際に、ある問題が指摘されていました。建物の配置が“心”という文字を描いていて、それを見たソウル市民は“日本政府が朝鮮半島を侵略したとき、風水の力で朝鮮民族の心を支配しようと気を通した証拠だ”と訴え、取り壊しの機運が高まりましてね」

 風水にからんだ話には後にも触れる。いずれにせよ、言いがかりに過ぎないが、

「結局、旧市庁舎の正面だけを残し、後ろに旧庁舎を今にも飲み込もうとする津波をモチーフに、新庁舎が建てられたのです」(同)

 3・11の悪夢が生々しい東北の方々がこれを見たら、どう思うか。“非道”としか呼びようがあるまい。

「今、一番熱い反日スポットといえば、日本大使館前です。2年前に無許可で設置された慰安婦の銅像がその象徴で、毎週水曜日にデモが行われています」

 と言うのは、『悪韓論』(新潮新書)の著者でジャーナリストの室谷克実氏。韓国に詳しい大学教授が、話を引き継ぐ。

「あの慰安婦像が置かれたのは衝撃でしたね。大きな通りのそばにあり、いやでも目につく。その後ろの壁も如何ともしがたく、“独島の次は対馬だ”なんて書かれたポスターがこれ見よがしに貼られている。しかも、周囲には常時、警官が立っていますが、彼らの任務は慰安婦像を守ることと、反日的なポスターが剥がされないように見守ること。しかし、私たちが“竹島は日本のもの”というポスターを貼ろうものなら捕まるわけですから、まことにいびつな話なのです」

 慰安婦がらみでは、さらに新しいスポットもある。

「昨年5月、ソウルの弘益大学近くのハイファッションな街に、戦争と女性の人権博物館ができた。私はまだ行っていませんが、慰安券や慰安所への出入り証、コンドームなどが展示されているほか、慰安部屋が再現され、日本大使館前にあるのと同じ少女像が飾られているとか。設立に際しては韓国政府が3500万円を寄付したほか、日本の人権団体なども5500万円を寄付していますね」

 そう語るのは、元全国紙のソウル特派員でジャーナリストの前川惠司氏である。慰安婦にちなんだスポットを、もうひとつ紹介するとしよう。ソウルから30キロほど南東の広州市郊外にあるナヌムの家で、最近訪れた人に尋ねると、

「2階建ての生活館が2棟、3階建ての教育館と歴史館があって、まず歴史館に入ると、数人の元慰安婦が共同で暮らしていることなどの説明を受けました。その後、ひとりのハルモニ(おばあさん)が出てきて、日本軍によって強制的に連れ去られ、慰安所に入れられたこと、慰安所では1日に何人もの相手をさせられたこと、それが非常に苦痛だったことなどを語り、もらい泣きする人もいました」

 ただし、ここを訪れる人の3分の1程度は、日本人だというから驚きである。

■突っ込みどころ満載
 韓国の反日スポットといえば、ひと昔前まで、1919年の三・一独立運動発祥の地、ソウル市内のパゴダ公園だったというが、

「今はそれほど人が集まる場所ではなくなっている」

 そう語る先の前川氏が、

「最大の反日スポット」

 と断じ、前出の韓国人ライターが、

「韓国の幼稚園児や小学生は、ほとんどが遠足で訪れると思います」

 と語るのは、やはりソウル市内にある西大門刑務所歴史館、そしてソウルから電車で1時間ほどの、天安市の独立記念館である。まず、刑務所を改装して1998年に開館した前者は、

「蝋人形による“日本人憲兵に爪を剥がされる老女”や“独立運動をする韓国人を拷問する日本人”といった展示は、その生々しさに大人でも目を背けたくなりますし、子供は泣いてしまうことも多い。目隠しをされて日本人に撃ち殺される韓国人の写真なんかも展示されています」(同)

 とのこと。2010年の改修で描写が若干マイルドになったものの、内容の信憑性に疑いの目を向けるのは、先の前川氏で、

「年配の韓国人は、“あの拷問は日本軍のやり方ではないな”と言っていました。爪の間に何かを入れて剥がしたり、ムチで叩いたりしたのは李朝時代だそうです。しかし、祖先が拷問されているところを見て、この国の子供たちに何のプラスになるのでしょうか」

 外国人参政権に反対する会の元東京代表の村田春樹氏も、続けて言う。

「拷問結果を待つ日本兵の蝋人形がタバコを吸っていますが、戦時中そんなことは許されなかったし、囚人がラジオ体操をしている写真の横に、間もなく処刑されたと書いてある。体をほぐさせてから処刑するだろうか。また、拷問を受け餓死させられたという説明の横に、ハンストを行ったとある。だったら食事を拒否したのではないか、と突っ込みどころ満載です」

 しかし、そんな嘘八百が子供たちに刷り込まれるのだ。一方、87年に開館した独立記念館は、村田氏が、

「82年、日本の文部省の教科書検定が韓国で問題とされたのを機に、寄付を集めて建てられた反日の記念館で、400平方メートルとかなり広い敷地に7つの展示場があって、総督府時代、創氏改名、従軍慰安婦、強制連行、臨時政府樹立などの順に展示されています」

 と説明し、続ける。

「入り口前の広場には、近くにあった総督府の尖塔が埋め込まれていて、度肝を抜かれました。日本の象徴を破壊して地面に埋め込んだ、という意味なのでしょう。日本人が拷問している蝋人形や、銃を向けている写真のほか、太極旗をつけた軍服姿の男が日本人を撃ちまくるジオラマもあって、そうして独立を勝ち取ったというのでしょうが、そんな史実はない。彼らの夢なのだろう、と思いました」

 入場は無料。人を叩く音や呻き声も流れ、それを小学生の集団が、顔をしかめて聞いているのである。

「韓国では歴史的建造物の多くが朝鮮戦争で失われたため、観光スポットがあまりない。だから、修学旅行や社会科見学では、反日スポットを見るしかありません。でも反日教育もできるので、学校としては一石二鳥なのです」(前川氏)

 朝鮮王朝の王宮で復元が進んでいる景福宮も、反日スポットだそうで、前出の国際部記者によれば、

「朝鮮王朝最後の王妃、閔妃の暗殺の様子が描かれたパネルや、閔妃のレリーフが建立されています。と言うのも、閔妃は1895年に日本軍を含む革命軍によって宮内で暗殺されたのですが、韓国は日本政府が暗殺したと主張。そうした虚偽の訴えに基づいた記念碑になっているのです」

■全土が反日スポット
 ソウル市内の地下鉄駅の構内にも、新たなスポットができている。韓国に詳しいライターが言うには、

「2010年、市庁駅など数駅に、ショーケースに入った竹島の精巧なミニチュア模型が置かれ、港に接岸する船や島にある施設まで再現されています。もちろん“独島は韓国のもの”と、ハングルばかりか英語、日本語でも書かれています」

 日本人には理解できない抗弁によって、反日スポットとして浮上した場所もある。先の室谷氏が言う。

「韓国の国宝第1号であるソウルの南大門で、08年の放火で楼閣はほぼ焼け落ち、5年がかりの修復作業の末、今年5月に完工式が行われました。しかし、すぐに彩色が剥がれ、材木や瓦にヒビが入ったため、安い資材を使うなどの手抜き疑惑が浮上し、朴槿恵大統領は辺英燮文化財庁長官を更迭しました。その辺氏の訴えは“日本製の接着剤や塗料を使ったから”。結果、南大門も新たな反日の象徴になりそうなのです」

 要は、日本人を責める材料になりさえすれば、なんでもいいのである。

 先に市庁舎のところで風水に触れたが、いかにも風水を重んじる韓国らしい反日スポットを紹介するのは、先の国際部記者である。

「今年9月、朝鮮日報に驚くような寄稿がありました。又石大学の教授が“(南西部全羅南道の)実相寺は日本に流れる地の気を遮断するために建てられた”“日本列島を連想させる紋様がある寺の鐘を一突きすると、富士山を一発殴ることになる”“風水で日本を制圧できる”と主張し、寺を訪ねて日本に影響を及ぼすことを奨励したのです」

 辺鄙な場所にある寺の訪問者は増えたという。

 寺をもうひとつ。韓国に現存する唯一の日本式寺院といわれる東国寺で、宗教ジャーナリストの小川寛大氏が言う。

「日韓併合後の1913年、曹洞宗が建立した寺で、戦後は荒れていましたが、政府や群山市の公費によって整備され、きれいに保存されています。要は、韓国政府が日帝統治時代の負の遺産として、日本の過去の侵略をアピールすべく、公金を投入して保存することになった。周辺には“現存する唯一の日本式寺院”という看板なども立っていますが、親日的な表現ではなく“日本がしたことを忘れるな”という攻撃的なメッセージなのです」

 そこもかしこも反日スポットの韓国だが、

「私に言わせれば、韓国全土が反日スポットです」

 と言い切るのは、前出の大学教授である。

「韓国では自国の歴史に関わることはすべてが反日になります。南西部の木浦の博物館など、中国共産党による虐殺の写真を日本軍の蛮行だとして紹介している。学校の教科書も反日を促していて、その意味では学校も反日スポットです」

 こういう国とわかり合えるだろうか。1000年過ぎても難しいかもしれない。

※「週刊新潮」2013年12月5日号


 

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コメント
 
01. 2013年12月12日 15:22:46 : Un6heX4IUI
【話題】 大新聞が報じない 「韓国」・・・3.11の後に津波型の建物を建設! “日本人は全員死ねばいい”

1 名前:影のたけし軍団ρ ★:2013/12/12(木) 12:41:41.89 ID:???0

韓国人の理不尽な反日意識は、朴槿恵大統領が誕生してからというもの、火勢を増すばかりだ。それは教育もさることながら、
そこかしこに設けられた「反日スポット」という酷い“種火”によって、かの国の人々が、嘘に立脚した憎悪の炎を絶やさないからである。

日本が統治時代に行ったという“非道”が、今なおそれほど憎いなら、「人のふり見てわがふり直」したほうが、
国際的にもよほど尊敬されるのに、韓国の方々には、そんなことはまるで意中にないらしい。

さる韓国人ライターは、「とりわけ、60代以上の世代は、台風が日本に向かうと聞けば“日本人は全員死ねばいい”と言うし、
東日本大震災で発生した巨大津波に対しても、“植民地時代の天罰”なんて平気で言っていましたからね」
と呆れ顔だが、口にするだけならまだしも、それを公共建築によって“造形”してしまうとは、もはや我らの想像を絶している。

最近完成したソウル市の新市庁舎、通称「ツナミ」のことである。全面ガラス張りで、波の曲線美を強調したその巨大建築は、
「見るからに東日本大震災の大津波そのままの形で、不謹慎極まりない」と、国際部の記者も憤りを隠さない。

「1926年の日帝統治時代に建てられた旧市庁舎は、老朽化に加え、上空から撮影した際に、ある問題が指摘されていました。
建物の配置が“心”という文字を描いていて、それを見たソウル市民は“日本政府が朝鮮半島を侵略したとき、
風水の力で朝鮮民族の心を支配しようと気を通した証拠だ”と訴え、取り壊しの機運が高まりましてね」

風水にからんだ話には後にも触れる。いずれにせよ、言いがかりに過ぎないが、
「結局、旧市庁舎の正面だけを残し、後ろに旧庁舎を今にも飲み込もうとする津波をモチーフに、新庁舎が建てられたのです」(同)

3・11の悪夢が生々しい東北の方々がこれを見たら、どう思うか。“非道”としか呼びようがあるまい。

「今、一番熱い反日スポットといえば、日本大使館前です。2年前に無許可で設置された慰安婦の銅像がその象徴で、
毎週水曜日にデモが行われています」と言うのは、『悪韓論』(新潮新書)の著者でジャーナリストの室谷克実氏。

韓国に詳しい大学教授が、話を引き継ぐ。
http://www.gruri.jp/topics/13/12121100/
>>2

2 名前:影のたけし軍団ρ ★:2013/12/12(木) 12:41:54.08 ID:???0

あの慰安婦像が置かれたのは衝撃でしたね。大きな通りのそばにあり、いやでも目につく。
その後ろの壁も如何ともしがたく、“独島の次は対馬だ”なんて書かれたポスターがこれ見よがしに貼られている。

しかも、周囲には常時、警官が立っていますが、彼らの任務は慰安婦像を守ることと、反日的なポスターが剥がされないように見守ること。
しかし、私たちが“竹島は日本のもの”というポスターを貼ろうものなら捕まるわけですから、まことにいびつな話なのです」

慰安婦がらみでは、さらに新しいスポットもある。

「昨年5月、ソウルの弘益大学近くのハイファッションな街に、戦争と女性の人権博物館ができた。私はまだ行っていませんが、
慰安券や慰安所への出入り証、コンドームなどが展示されているほか、慰安部屋が再現され、日本大使館前にあるのと同じ少女像が飾られているとか。
設立に際しては韓国政府が3500万円を寄付したほか、日本の人権団体なども5500万円を寄付していますね」

そう語るのは、元全国紙のソウル特派員でジャーナリストの前川惠司氏である。慰安婦にちなんだスポットを、もうひとつ紹介するとしよう。

ソウルから30キロほど南東の広州市郊外にあるナヌムの家で、最近訪れた人に尋ねると、
「2階建ての生活館が2棟、3階建ての教育館と歴史館があって、まず歴史館に入ると、数人の元慰安婦が共同で暮らしていることなどの説明を受けました。

その後、ひとりのハルモニ(おばあさん)が出てきて、日本軍によって強制的に連れ去られ、慰安所に入れられたこと、
慰安所では1日に何人もの相手をさせられたこと、それが非常に苦痛だったことなどを語り、もらい泣きする人もいました」

ただし、ここを訪れる人の3分の1程度は、日本人だというから驚きである。

韓国の反日スポットといえば、ひと昔前まで、1919年の三・一独立運動発祥の地、ソウル市内のパゴダ公園だったというが、「今はそれほど人が集まる場所ではなくなっている」
そう語る先の前川氏が、「最大の反日スポット」と断じ、前出の韓国人ライターが、「韓国の幼稚園児や小学生は、ほとんどが遠足で訪れると思います」
と語るのは、やはりソウル市内にある西大門刑務所歴史館、そしてソウルから電車で1時間ほどの、天安市の独立記念館である。

3 名前:影のたけし軍団ρ ★:2013/12/12(木) 12:42:07.29 ID:???0

まず、刑務所を改装して1998年に開館した前者は、
「蝋人形による“日本人憲兵に爪を剥がされる老女”や“独立運動をする韓国人を拷問する日本人”といった展示は、
その生々しさに大人でも目を背けたくなりますし、子供は泣いてしまうことも多い。

目隠しをされて日本人に撃ち殺される韓国人の写真なんかも展示されています」(同)とのこと。

2010年の改修で描写が若干マイルドになったものの、内容の信憑性に疑いの目を向けるのは、先の前川氏で、
「年配の韓国人は、“あの拷問は日本軍のやり方ではないな”と言っていました。爪の間に何かを入れて剥がしたり、
ムチで叩いたりしたのは李朝時代だそうです。しかし、祖先が拷問されているところを見て、この国の子供たちに何のプラスになるのでしょうか」

外国人参政権に反対する会の元東京代表の村田春樹氏も、続けて言う。

「拷問結果を待つ日本兵の蝋人形がタバコを吸っていますが、戦時中そんなことは許されなかったし、
囚人がラジオ体操をしている写真の横に、間もなく処刑されたと書いてある。体をほぐさせてから処刑するだろうか。
また、拷問を受け餓死させられたという説明の横に、ハンストを行ったとある。だったら食事を拒否したのではないか、と突っ込みどころ満載です」

しかし、そんな嘘八百が子供たちに刷り込まれるのだ。一方、87年に開館した独立記念館は、村田氏が、
「82年、日本の文部省の教科書検定が韓国で問題とされたのを機に、寄付を集めて建てられた反日の記念館で
400平方メートルとかなり広い敷地に7つの展示場があって、総督府時代、創氏改名、従軍慰安婦、強制連行、臨時政府樹立などの順に展示されています」
と説明し、続ける。

4 名前:影のたけし軍団ρ ★:2013/12/12(木) 12:42:20.26 ID:???0

「入り口前の広場には、近くにあった総督府の尖塔が埋め込まれていて、度肝を抜かれました。日本の象徴を破壊して地面に埋め込んだ、という意味なのでしょう。
日本人が拷問している蝋人形や、銃を向けている写真のほか、太極旗をつけた軍服姿の男が日本人を撃ちまくるジオラマもあって、
そうして独立を勝ち取ったというのでしょうが、そんな史実はない。彼らの夢なのだろう、と思いました」

入場は無料。人を叩く音や呻き声も流れ、それを小学生の集団が、顔をしかめて聞いているのである。

「韓国では歴史的建造物の多くが朝鮮戦争で失われたため、観光スポットがあまりない。
だから、修学旅行や社会科見学では、反日スポットを見るしかありません。でも反日教育もできるので、学校としては一石二鳥なのです」(前川氏)

朝鮮王朝の王宮で復元が進んでいる景福宮も、反日スポットだそうで、前出の国際部記者によれば、
「朝鮮王朝最後の王妃、閔妃の暗殺の様子が描かれたパネルや、閔妃のレリーフが建立されています。
と言うのも、閔妃は1895年に日本軍を含む革命軍によって宮内で暗殺されたのですが、
韓国は日本政府が暗殺したと主張。そうした虚偽の訴えに基づいた記念碑になっているのです」


13 :名無しさん@13周年:2013/12/12(木) 12:44:53.94 ID:oDpBaI3l0
これだっけ津波のやつ
http://up.gc-img.net/post_img_web/2013/11/69cc7b95bda5b04b64fcdef94950b0d1_15302.jpeg

引用元:http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1386819701

参考http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1386819701/16


02. 2013年12月15日 21:56:34 : EpbZ2Bn4If
もう、ここまで来ると、民族レベルで脳が弱いとしか言い様が無いね?。

03. 2013年12月22日 00:40:49 : 4QE524gAHY
20「征韓」論の系譜ーー朝鮮崇敬から蔑視へ

 
    耳塚


 京都に豊臣秀吉を祀った豊国神社があるが、そこから一五〇メートル離れて耳塚と呼ばれる塚がある。最近までかけられている京都市の説明板によると、豊臣秀吉がおこした文禄・慶長の役で朝鮮人の鼻や耳を斬り、それをあとで供養したものだとあり、「耳などをきりとるのは当時の戦いにあっては必ずしも残酷とはいえない」とあった。


日本の武士が首狩り族であったことをわれわれは見落としてはなるまい。武士たちは戦闘における功績の証明として敵の首を斬り取る習慣があったことはよく知られている。


 しかし朝鮮から首を持ち帰るのは大変なので、秀吉の了解のもとに鼻や首を斬り取ることにしたのである。動員された大名の軍隊が鼻や耳を塩漬けにして秀吉派遣の軍目付に渡した記録が一部残っている。ある戦闘では二千名ぐらいの朝鮮軍と戦いながら三万八千以上の鼻や耳が斬り取られたことがある。鼻や耳の大半が武器を持たない女性や子どものものであったことが想像される。事実そういう記録も残っている。「働男女生子(うまれご)も不残(のこらず)撫切(なでぎり)に致し、鼻をそぎ、其の日々塩に致し」(「本山豊前守安政父子戦功覚書」)という記録がそれである。


 輸送された鼻や耳は一〇万人分とも二〇万人分ともいわれる。これは当時としてはそれほど残酷なことではなかったのであろうか。朝鮮人にしてみれば、突然日本の大軍が侵入してきて、兵隊だけではなく平和な生活を営んでいた一般庶民に襲いかかり、鼻や耳を斬りとっていくのである。こんな野蛮な行為があろうか。これを侵略といわずして何を侵略というのか。


 朝鮮ではこの戦争を倭乱とよんでいる。海賊倭寇の再来とでも捉えられていたのであろう。 


    朝鮮文化の略奪


 秀吉の倭軍は多くの美術品や書籍を略奪し、多数の技術者を日本に強制的に連行した。


書籍は漢籍が多いが、そのほとんどが朝鮮で印刷されたものであった。朝鮮はドイツのグーテンベルグ(一四五〇年発明)よりも二世紀以上早く金属活字による印刷に成功している。もちろん世界最初である。数万冊の書籍がこの戦争で戦利品として日本に運ばれた。その大部分はその後徳川家の所有となり、今日、内閣文庫、尾張徳川家、加賀前田家、薩摩島津家などの伝わっている。


 また二〇万本の金属活字が印刷工とともに略奪されたが、これを用いたものが慶長勅版と駿河版である、しかし日本ではこの印刷術は根付かなかったようである。活字鋳造技術もさることながら、印刷用のインキの製造がうまくいかなかったらしい。


 ヨーロッパの宣教師たちが持ってきたグーテンベルグ以来の印刷術は、天草版で知られているが、これも廃れてしまった。そして江戸時代には木版印刷に逆戻りした。「かわら版」などをみると、木製の活字さえ使わないでいちいち版木を彫ったようである。


 余談ながら日本の金属精錬技術はこの時期大したことはなかったらしい。室町時代には明国に銅を輸出して銅銭を輸入していたが、これは結局のところ銅銭を造る技術がなかったからであろう。日本における貨幣製造は奈良時代前後にちょっと行われたことはあるが(和同開珎などの皇朝十二銭)、これは廃れてしまい、秀吉による金貨・銀貨の製造まで作られなかったのである。


 秀吉軍が連行した技術者のなかに、多数の陶工たちがいた。かれらは江戸時代に入って西南地方の各藩(豊臣系大名が多い)で製陶のために働かされたが、その結果伊万里焼(開祖は李参平)、有田焼、長州藩の萩焼(現在は十二代坂高麗左衛門ら)、薩摩焼(沈寿官ら)。福岡藩の子鹿田(おんだ)焼(開祖は八山)のような独特の陶器がつくられるようになった。とくに伊万里焼では開祖李参平により磁器が発明されたため、それは九谷焼や瀬戸焼に影響し、日本独特の焼物文化を確立した。それもこれも、もとはといえば拉致された朝鮮人陶工たちによるものである。



   朝鮮通信使と朱子学



 一六〇〇年(慶長五)の関ヶ原の戦いに勝ち、天下を握った徳川家康は、朝鮮との国交回復に乗り出した。家康は対馬藩の宗氏を通じて朝鮮政府に対し、再び朝鮮を侵略しないことを約束して国交の樹立を求めた。


 朝鮮政府は最初は警戒しつつ使節を送り、強制連行された同胞の帰還に力を入れた。これによって一万人以上の朝鮮人たちが帰国したが、しかし西南地方の大藩のなかには、陶工たちの帰国を許さない藩があり、軟禁状態にして朝鮮からの使節(刷還使という)に会わさないようとしなかった。


こうして日本と朝鮮の国交が回復し、貿易も復活した。将軍の代替わりごとに朝鮮から通信使がお祝いにやってきた。いずれも四〇〇人以上の大使節団で、幕府は最高の礼遇でかれらを迎えた。


こうして日本と朝鮮の国交が回復し、貿易も復活した。将軍の代替わりごとに朝鮮から通信使がお祝いにやってきた。いずれも四〇〇人以上の大使節団で、幕府は最高の礼遇でかれらを迎えた。十九世紀に入ると間遠くなるが、江戸時代を通じてあわせて一二回の通信使の来日があった。通信使は対馬藩に案内されつつ海路大坂に至り、ここで上陸、近江では将軍上洛の時しか使わない特別の道(朝鮮人街道)を通り、名古屋を経てゆっくりと東海道を江戸に向かった。そのきらびやかな行列は、各地で大きな屏風絵に残され、また宿舎で随員の学者たちと日本人学者との詩文の応酬があり、かれらは画員らが書いた書画が多数残されている、これらは友好的だった日朝関係をよく示している。


朝鮮通信使がこれほど厚遇されたのは、何故であろうか。


その理由としては、鎖国下で外交関係を持った数少ない国の一つであったことが考えられる。


江戸時代は鎖国であったが、もとより完全な鎖国ではない。建前は鎖国であるが、実際には四つの外界への通路があった。長崎でのオランダ人、清国人との貿易、薩摩藩による琉球王国の支配とそれを通じての清国との貿易、松前藩によるアイヌ人との貿易、それにこの対馬藩を介在させた朝鮮との外交ならびに貿易である。この点で、対朝鮮関係がとくに重視されたようである。


また徳川幕府が「正学」とする朱子学は、実は中国からの直輸入ではなく、朝鮮朱子学から学んだものである。徳川朱子学の創始者は藤原惺窩とその弟子林羅山である。かれらは書物の上ではあるが、朝鮮の朱子学者李退渓(一五〇一―一五七〇)に傾倒し、さらに秀吉軍の捕虜となって日本に連行されてきた姜からも朱子学を学んだ。


朝鮮国は儒教の国であった。本家の中国以上に儒教が重んじられ、一種の国教のような有様であった。武士階級の教養にとどまった日本の場合と違い、庶民生活のすみずみまで儒教の影響が浸透していた。


儒教のなかでも朱子学は、忠や孝を重視する思想である。永久政権をめざす徳川氏にとって朱子学は絶好の理論であった。「天下(てんが)まわりもち」の思想で、織田、豊臣、徳川とつづいた政権交代に終止符を打つにはどうしたらいいか。そのためにはまず家臣の側から主君を選ぼうとする風潮をやめさせ、「君、君たらずとも、臣、臣たらざるべからず」という絶対的忠誠の倫理を武士階級に植え付ける必要があり、そのために朱子学が利用されたのである。


 


朝鮮蔑視論の登場



 日朝関係がこまやかに展開した近世に、一部の学者や庶民の間に、徐々に朝鮮蔑視論が広がっていった。それは反徳川の感情を土台とし、親豊臣感情や古代天皇へのあこがれと重なっていた。


 第一に国学の流れである。国学は、万葉集の研究として出発した歌学であったが、しだいに『古事記』を研究することによって日本の古代についての独特の思想となった、とくに本居宣長は、「古道(いにしえのみち)」を唱え、近世封建社会への批判を行なった。これを一種の宗教的イデオロギーに仕立て上げたのは、平田篤胤である。


 国学者たちは儒仏の排斥を唱えた。儒というのは中国から伝来した儒学であり、仏とはインド起源を持つ宗教である。いずれも近世社会の支配的思想であり、これを批判することはとりもなおさず幕藩体制に対する批判を意味した。


 古事記や日本書紀には、大和朝廷の朝鮮支配について述べた箇所がある。その発端は神功皇后の三韓征伐であるが、国学者たちはこれを歴史的事実とし、朝鮮に対する支配の恢復を夢想した。国学者たちは尊王論を唱え、武士支配を覆し、天皇の政治の復活を目指したから、朝鮮支配の恢復は、「皇威」の回復にとって不可欠の大事とされた。その見地から見れば、幕府による朝鮮通信使への厚遇、朱子学者たちの朝鮮への畏敬などは唾棄すべきことであったろう。


 第二は水戸学の流れである。水戸学は徳川光圀(水戸黄門)による『大日本史』の編纂によって形成されるのであるが、その立場は徳川幕府を権威づける立場からの尊王論であった。すなわち天皇の歴史的権威を高めることによって、天皇から征夷大将軍に任命され、大政を委任されている(と称する)徳川将軍の権威もまた高まるのである。


 しかしこの論理はのちに幕府批判に転化した。将軍家と水戸徳川家の対立もその一因であるが、尊王論がそれ自身として一人歩きしはじめ、国学と同じような「皇国」観が展開されるようになった。これを後期水戸学という。そのなかで朝鮮は日本の属国であるという主張も強調されるのである。その代表的人物として会沢安、藤田東湖をあげることができる。


 


 第三に豊臣びいきを挙げねばならない。近世には歌舞伎などで「絵本太閤記」が上演されたり、加藤清正の虎退治などが庶民の喝采を博した。男の子の端午の節句の武者人形に加藤清正が登場するのもその一つである。太平に飽きた庶民が、日吉丸の出世物語や戦国武将の勇戦、朝鮮・明征服の野望に声援を送ったのである。この底には反徳川感情があり、徳川幕府の朝鮮友好政策、朱子学尊重への反発があったのであろう。「坊主憎くけりゃ袈裟まで憎い」の類である。


 


   幕末の「征韓」論 



 こうして徐々に朝鮮蔑視論が広がりつつあったところへ、対外的危機が迫ってきたために、朝鮮蔑視論は朝鮮征服論として声高に唱えられるようになった。


 その代表的人物として佐藤信淵と吉田松陰をとりあげよう。


 佐藤信淵は『混同秘策』において「神州は太陽の出ずる所、元気のはじまる所にして・・・・・・大地の元首にして万国の綱紀なり」「皇大御国は大地の最初に成れる国にして世界万国の根本なり」とし「全世界ことごとく郡県となすべく、万国の君長みな臣僕となすべし」と誇大妄想的世界征服論を述べていた。


 信淵のは観念の上での議論であったが、ペリー来航後の対外危機の切迫のなかで、欧米に対抗した日本の将来をアジア侵略に求めたのが吉田松陰である。かれは「国力を養い、取り易き朝鮮、満洲、支那を切りしたがえ、交易にて魯墨に失うところは、また土地にて鮮満に償うべし」(「獄是帳」)と主張した。


 この吉田松陰の主張は、かれが教えた松下村塾の弟子たちである伊藤博文、井上馨、山県有朋らによって受け継がれていった。


 尊王攘夷運動は、国学及び後期水戸学の思想的影響のもとで成立した議論である。尊王と攘夷とは本来は違った領域の主張であり、この二つが幕府の政治情勢のなかで結びついたに過ぎない。ところが両者ともに強い朝鮮蔑視論をもっていたから、これが政治的には「征韓」論となって現われることになったのである。尊王という理念のなかにある反徳川と天皇政治への期待のなかに反朝鮮感情を内包していたことは先に述べたとおりである。


 また備中松山藩の山田方谷という学者が朝鮮侵略論を藩侯に提唱したことがある。藩侯は幕末期の老中板倉勝静である。また朝鮮貿易に携わっている対馬藩の家老大島友之允も朝鮮への侵攻を構想した。大島と幕府の勝海舟、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)がこの点について協議した事実がある。これについて勝海舟の主張は、「征韓」「征清」ではなく、東アジアの連帯論であったとする評価もあるが、軍事力を背景とする連帯論などあるはずがない。



  明治初年の「征韓」論  



こうして明治維新の段階で、その指導者の間に濃厚な「征韓」論が議論されていたのである。かれらは西南雄藩の出身であるが、いずれも豊臣系大名として朝鮮に出兵したことがあり、そのときの戦功、戦利品を語りつたえてきた藩であることにも注目したい。新政府は朝鮮に対して王政復古を通告するが、その使節が出発するや、ただちに朝鮮の「無礼」を問うと称する征韓論を木戸孝允、大村益次郎が唱えている。


朝鮮政府は友好的な徳川幕府を倒した新政府を警戒した。その指導者たちの征韓論は何らかの形で伝わっていた筈である。とくに国書の形式が従来と異なり、中華皇帝のみが称することができる「皇」とか「勅」の文字は刺激的であった。かくして国交樹立交渉は難航した。


一八七〇年(明治三)ごろ、外務省の一部で「征韓」論が高まったことがある。そのとき、これを目前の重要課題の山積を無視した書生論として弾劾して薩摩藩士横山正太郎が諫死したが、かれを悼んで碑文を書いたのは、ほかならぬ西郷隆盛であった。


その西郷が今度は「征韓」を唱えたのが、一八七三年の「征韓」論論争である。これは当時の政府を二分する論議に発展したが、両派ともいつかは「征韓」を実行することでは一致していた。


ところで当時「韓」という国はなかったことに読者はお気付きであろうか。中国を「支那」と呼ぶなど、相手国を正しい国名で呼ぼうとしないのは近代日本の悪習であるが、これはその典型的な例であり、したがってここでは、「征韓」とかっこを記した。それに「征」というのは、「征伐」の意であり、夷狄征伐というこれまた古代の大和朝廷の手前勝手な論理の再版である。

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