07. 2012年10月06日 01:30:28
: HNPlrBDYLM
慰安婦にされたのがアジア女性だったから問題にならなかっただけ: 軍人さんが強制連行した事をペラペラ話しちゃったんだから、今更否定するのは無理だよ:
従軍慰安婦強制連行 白馬事件
現在、国際的に「従軍慰安婦」関係の責任者処罰が問題になっています が、過去にグアム島やジャワ島などでは「従軍慰安婦」の関係者である日本軍 人や民間人が処罰されたケースがありました。中でもジャワ島での事件は規模 も大きく、別名「白馬事件」とも呼ばれていました。今回はこれらを紹介しま す。
最近、この裁判記録が発掘(92.7.21 朝日)され、ついでオランダ政府 の報告書(94.1.24 )が公表されました。さらに慰安婦にされたオランダ女性 の手記が発表され、その全容がかなり明らかになりました(オフェルネ著「レ イプされた女の叫び」、『福音宣教』47巻5号、1993年5月)。 ことの始まりは日本軍のジャワ島占領にさかのぼります。占領後、日本 軍は旧宗主国のオランダ人などヨーロッパ系住民を敵国人として抑留所に拘束 しました。 そのかたわら、日本軍はここの占領地でも慰安所を設けました。しかし 「性病管理がなされている軍慰安所」の数が不足気味だったためか「駐屯軍に 性病が広がって」しまいました。 また一方、占領地では例によって「駐屯軍の住民に対する行為がすでに 住民の反感を買って」いたため(裁判記録)、日本軍は新たに本格的な軍慰安 所を1944年2月に設けました。場所はジャワ島中部の州都スマランです。 日本軍はこの軍慰安所開設に必要な慰安婦を集めるのですが、その対象 として手っ取り早く目をつけたのが抑留しているオランダ人女性でした。その 際、軍司令部は自由意志の慰安婦だけ雇うように指示を出しましたが、それに 反して、担当の南方軍幹部候補生隊は17歳以上の女性を無理やり連行してし まいました。 その連行された一人が、先ほどの手記を書いたオフェルネさんです。彼 女は修道女になるためにフランシスコ会の教育大学で学んでいるとき、抑留所 に拘束されました。 彼女によれば、抑留所は悪臭・汚物・ネズミ・下水などにまみれるなど 環境は劣悪で、その上、飢え・暴力・病気、さらには重労働が横行するひどい 所でした。 さて、強制連行された彼女たちは、すぐ慰安所に送られました。そこの 食堂で恐怖にうち震え泣き叫んでいた少女たちはやがて一人ずつ無理矢理引き ずり出されていきました。彼女たちは激しく抵抗しましたが屈強な軍人たちの 力には到底かなうはずがありません。 オフェルネさんも自分の番が来たとき、激しくもがき抵抗しました。し かし「蹴っても、叫んでも、抵抗しても無駄」でした。そうした彼女の「反抗」 に業を煮やした軍人は刀を抜いて彼女の身体に突きつけ、彼女を裸にし、刀で 身体を撫でまわしました。 こうした人間を世間ではよく「ケダモノ」と言いますが、これは適当で はないと思います。ケダモノは強姦はしません。相手が合意しないと最終的に はあきらめます。ケダモノは人間のようにレイプなどの恥ずべき行為は決して しません。 余談はさておき、ここの軍慰安所にいたヨーロッパ系の女性2ー300 人中少なくとも65名は「売春を強制された」とオランダ政府報告書は結論づ けました。 ところで、この軍慰安所はわずか2ヶ月で閉鎖になりました。閉鎖は、 この慰安所に娘をとられた抑留所のリーダーのねばり強い努力のたまものです。 たまたま視察に来た日本陸軍省の大佐に彼が直訴したのが功を奏しました。し かし、このときは関係者の処罰は行われませんでした。日本軍の明確な指令違 反は黙認されたままでした。兵士たちに性のはけ口を提供するという行為は当 時にあっては戦意高揚のために軍律違反でも容認されたものと思われます。 しかし、こうした日本軍本位の行為は国際的に許されるはずはありませ ん。終戦後、関係者の軍事裁判がオランダにより1948年バタビヤで開かれ ました。中心人物の陸軍少佐が死刑になった他、10人が懲役刑になりました。 しかし、裁判ではアジア人慰安婦に対する罪は裁かれませんでした。あくまで もオランダ人などヨーロッパ系の女性に対する罪のみを対象にしました。(吉 見著「従軍慰安婦」、岩波新書 1995) インドネシア人や朝鮮人慰安婦に対する罪まで範囲を広げると問題が大 きくなり過ぎるため自制したのでしょうか。それとも、自国民の権益しか眼中 になくアジア人を軽視したためでしょうか。ちょっと惜しい機会を逃したよう です。
他方、グアム島での裁判資料は、95年11月に「朝鮮人強制連行真相 調査団」によりアメリカの国立公文書館で発見されました。その記録によると、 処罰されたのは日系の民間人で、当時、日本軍が占領していたグアム島で19 42年2月、現地の女性二人に 「本人の同意を得ることなく売春を強制した」 というものでした。この被告は反逆罪にも問われており判決は死刑でした。 これに対応する関連資料が法務省で発見されました。それによると同被 告の起訴理由は「婦女を慰安婦として日本軍にあっせんした」と記され、慰安 婦の強制が日本軍のためであったことが確認されています(共同通信ニュース 速報、95.11.27)。 http://www.han.org/a/half-moon/hm011.html#No.108 89. 2012年9月28日 20:01:35 : HNPlrBDYLM 『軍司令部は自由意志の慰安婦だけ雇うように指示を出しましたが、それに 反して、担当の南方軍幹部候補生隊は17歳以上の女性を無理やり連行してし まいました。』 要するに、強制連行が昭和天皇の指示だというのがわかると後で問題になるので、担当の南方軍幹部候補生隊に自己責任で強制連行しろと命令したという意味でしょう。 慰安婦にされた女性たち−オランダ 旧オランダ領東インドは今日のインドネシアです。太平洋戦争で、日本軍はこの地を1942年に占領し、オランダ人を抑留・捕虜にしました。民間人9万人、軍人4万人が収容所にいれられたのです。
一部の日本軍関係者は、収容所に抑留されたオランダ人女性と混血女性を慰安所に強制的に連行して、そこで日本の将兵に対する性的奉仕を強いました。その代表的な事例がスマラン慰安婦事件です。基金の資料委員会の報告書に収められた論文によれば、1944年初頭中部ジャワのアンバラワとスマランにあったアンバラワ第4または第6収容所、アンバラワ第9収容所、ハルマヘラ収容所、ゲンダンガン収容所からオランダ人と混血女性約35人が連行され慰安婦にされました。これを推進したのは南方軍幹部候補生隊の将校たちでした。 アンバラワ第4または第6の収容所から連行された女性の証言によると、ここでは、1944年2月23日、収容所中庭に17歳から28歳までの女性全員が並ばされ、その後1人づつ収容所事務所に出頭させられました。翌24日、20人が事務所に呼び出されました。その上で2月26日、17人が選び出され、スマラン市内の建物に連れて行かれ、同意書に署名を強要されました。同意書は日本語で書かれていましたので、署名した人には何もわかりませんでした。ハルマヘラ収容所では、11人が連行されましたが、3名が返されました。ゲンダンガン収容所では、年上の女性たちが志願することで、若い女性たちが選ばれるのを免れたようです。約35人の女性は、2月26日ないしはその2−3日後、スマラン市内の4箇所の慰安所に送り込まれたのです。それは、日の丸、青雲荘(または双葉荘)、スマラン倶楽部、将校倶楽部の4つです。
これらの収容所以外では、オランダ人側が強く抵抗し、若い女性たちが連行されるのを防いだということが知られています。 スマランの事件は、東京から収容所を視察に来た将校が、オランダ人から訴えをうけ、女性たちが意思に反して慰安婦にさせられていることを知って、報告したことで、軍上層部が知るところとなりました。ジャカルタの軍司令部の命令で、慰安所は営業開始2ヶ月で閉鎖され、女性たちは解放されました。しかし、慰安所のいくつかはその後混血女性を使って同じ場所で再開されました。 これより先、1943年12月ないし44年1月には、同じ中部ジャワのムンティラン女子収容所からも、日本軍関係者はマゲランにある慰安所に女性を集める行動に出ていました。収容所のオランダ人リーダーにバーで働くのにふさわしい若い娘の名簿を作成させました。1月25日、日本人はこの名簿の女性たちを集めて、身体検査をし、15名を選び出し、連行しました。しかし、オランダ人側が強く抵抗したため、日本側は身代わりになる志願者を出すようにいい、その結果、元売春婦であったという評判の女性たちが志願しました。再選考がおこなわれて、13人が慰安所に送られたのです。 戦後、収容所のオランダ人を強制的に慰安所に連行していった日本軍将校たちはBC級戦犯裁判で裁かれました。1948年2月14日バタビヤ臨時軍法会議はスマラン慰安婦事件の被告13人のうち、岡田陸軍少佐に対して死刑、11人に最高20年、最低2年の禁固刑を言い渡しました。ムンティランの事例は検察側が訴追しようとしましたが、成功せず、不問に付されました。 オランダ政府は1993年に「日本占領下オランダ領東インドにおけるオランダ人女性に対する強制売春に関するオランダ政府所蔵文書調査報告」を出しています。(全文はこちら)それによると、日本軍の慰安所で働いていたオランダ人女性は200人から300人に上るが、うち65人は売春を強制されたことは「絶対確実である」とのことです。 http://www.awf.or.jp/1/netherlands.html 90. 2012年9月28日 20:05:45 : HNPlrBDYLM
憲兵が連行、売春強制 慰安婦でオランダ新史料 '07/5/11 【ベルリン11日共同】太平洋戦争時の従軍慰安婦問題で、日本占領下のインドネシアで憲兵らが直接、女性を連行して慰安所で売春を強制したことを記述 したオランダ政府の公文書が十日までに見つかった。旧日本軍による「狭義の強制性」を否定した安倍晋三首相の発言の矛盾を裏付ける新史料として注目され る。 公文書は、戦争犯罪問題を調査しているベルリン在住ジャーナリストの梶村太一郎氏が入手した未公開の約三十点。一九四四年にインドネシアのマゲランや フロレス島で起きた集団売春強要事件の被害者の宣誓証人尋問調書に記述されていた。マゲランの事件についてはオランダ政府報告書が「最も悪名高い事件」 と指摘している。 マゲランの事件に関し、東京裁判に証拠として提出された四六年五月の調書では、当時二十七歳のオランダ人女性が、憲兵に衣服をはぎ取られ慰安所に連行 されたと証言。抵抗したが手も足も出ず、売春させられたとしている。 女性抑留所に収容されていた目撃者の四八年三月の調書によると、抑留所を訪れた日本人が少女らを病人に仕立てて診療所に収容するよう指示。そこで選ば れた少女らが慰安所に連行され売春を強要されたと、この目撃者は詳細に証言した。 梶村氏は「被害者は連行され売春させられており、安倍首相の言う『狭義の強制性』の典型的な例だ」としている。 ーーーーーーーーーーーーーーーー TBS http://news.tbs.co.jp/part_news/part_news3559706.html ページ更新時間:2007年05月11日(金) 07時08分 オランダ人慰安婦、被害者証言明らかに
第2次大戦中、日本占領下のインドネシアで、オランダ人女性らが軍の慰安婦とされた問題で、戦後、被害者が裁判で証言した内容などが明らかになりまし た。 これはドイツ・ベルリンに住むジャーナリスト、梶村太一郎さんらの調査で明らかになったものです。 梶村さんらは、1944年、日本占領下だったインドネシアのフローレス島にオランダ人女性らが連行され、慰安所で売春婦として働かされた事件などにつ いて調べていました。 インドネシアでの慰安婦問題は、戦後、オランダ軍による戦犯裁判の記録などから概要は知られていましたが、今回、初めて被害者の尋問調書の内容が明ら かになったということです。 その中には、健康診断という名目で若い女性が集められ、そのうちの17人が軍の慰安所に強制連行されたこと、また、1週間で100人の兵士の相手をし ないと捕まって殴られたなどという証言もあり、梶村さんらは「軍による強制売春だったことをさらに裏付ける史料だ」と話しています。(11日05: 12) http://blog.goo.ne.jp/arai647/e/276b210e841f80912301b4ac2aba3783 「わたしの友人オヘルンの写真があそこにあるね。本当に勇気のある友人だった」 今月8日、オランダのハーグで開幕した「韓国・オランダ・ドイツ性奴隷展」(北東アジア歴史財団主催)を訪れたブルーフさん(86)は、旧日本軍の元慰安婦だ。日本軍がオランダの植民地だったインドネシアを占領した1942年春、ブルーフさんの家族はジャワ島中部のスマランにあった収容所へ連行された。それから2年後のある日、日本軍は 「病院や事務所で働く事務員を募集」するとして、若い女性30人を選んだ。 ブルーフさんはほかの女性14人とともに、上流階級の居住地区にある「仕事場」へ連れて行かれた。そこは日本軍の将官のための公娼街だった。 60年余り前のことだが、ブルーフさんはこの経験を忘れていない。 「日本軍にとっては快楽を求める場所だったが、わたしには恐怖と悲しみ、恥辱(ちじょく)が満ちた地獄以外の何物でもなかった」。 彼女は反抗する意欲も無くし、ただ早く無傷で解放されることを祈るだけだったという。3カ月後、ようやく解放され収容所へ戻った彼女は、着ていた服を収容所へ戻るバスの窓から投げ捨てたという。「自分の体を汚された」というのがその理由だった。 ブルーフさんは長い間、日本軍の慰安婦だったことを誰にも話さなかった。 90年代に入り、まず韓国の元慰安婦たちが立ち上がり、オランダでも友人のオヘルンさんが口を開いたことで、ブルーフさんも勇気を出し告白した。ブルーフさんはオランダの「対日道義的債務基金」(SJE)の助けを借りて証言集を発行し、日本の戦争責任の認定や補償を求める裁判に証人として出廷した。オランダ人の元慰安婦は約300人とされ、このうち10人ほどが生存している。 「日本の人々が過去を反省し、責任を認めることに消極的な様子を見ていると、怒りを覚える」。ブルーフさんは澄んだ目で「わたしが体験した悲劇を繰り返さないためにも、日本が犯した罪について若い世代へ伝えていきたい」と語った。 http://blog.livedoor.jp/newskorea/archives/895782.html 2007/2/9
米国下院外交委員会アジア太平洋地球環境小委が15日、下院で日本軍従軍慰安婦聴聞会を開く。 第2次世界大戦当時、慰安婦として連行されたオランダ人女性が証人として出る。オーストラリアに住むヤーン・ルーフオヘルンさん(84)が主人公だ。彼女は「慰安婦問題に対して日本政府が公開で謝罪しなければならないという内容の慰安婦決議案が米国下院で成立してほしい」とし、下院外交委の証人出席要請を快諾した。 「あのとき、あの恐怖、絶対忘れない」
ヤーンさんは1941年12月、日本が太平洋戦争を起こしたとき、オランダ領東インド諸島(インドネシア)ジャワ島に暮らしていた。日本軍は4カ月後、ジャワを占領し、ヤーンさんの家族を含むオランダ人たちを収容所に入れた。そして2年後21歳のヤーンさんを含むオランダ人女性100人をジャカルタ南ボゴールに連行した。そこで彼女らは日本軍の性の奴隷になるという話を聞いて驚愕した。 ヤーンさんは2001年、オーストラリアABC放送とのインタビューで 「あのとき、私たちが『ジュネーブ協定違反』と叫ぶと日本軍はにやにや笑った」 と回想した。ヤーンさんらはそのとき、日本式の名前を1人ずつ与えられた。ヤーンさんには何かの花の名前が付けられたが、記憶から消してしまった。彼女は過去を隠して暮らした時代、花が嫌いだった。慰安婦生活を思い浮かべるからだ。英語が分からなかった2人の娘に、誕生日のプレゼントとして花をくれると言われても素直に笑えなかった。ヤーンさんは慰安所に入ってから少し立って髪の毛をすべて刈ってしまった。 「はげ頭のように見えれば日本軍が嫌がるだろう」 と思ったからだ。しかし日本軍はそんな姿にもっと好奇心を感じたようだと彼女はABC放送で明らかにした。それとともに 「あのときのあの恐怖を絶対忘れることができない」と話した。 ヤーンさんは92年、慰安婦出身韓国人女性3人が日本政府に公開謝罪を要求したのをテレビで見て、自分も過去を明らかにして闘争しなくちゃいけないと決心した。それで同じ年の12月、東京で開かれた日本の戦争犯罪聴聞会に出て証言した。 「証言でおびただしい反響起こす」
ヤーンさんはオーストラリアの放送で
「日本は私たちが死ぬことを願っているが、私は日本政府が慰安婦被害者たちに謝罪と補償をするまで闘争する」 と言った。そんな彼女が米下院で証言すれば波紋は大きく広がるだろう。下院のある関係者は8日 「ヤーンさんと韓国人キム・クンジャ、イ・ヨンスさんが証言すれば米国人は『当時の日本軍はそれほど残忍だったのか』と思うだろう」とし「彼女らの証言で慰安婦決議案の下院成立の可能性は高くなる」と話している。 http://japanese.joins.com/article/460/84460.html?sectcode=&servcode=500 1944年2月、オランダ領東インド(インドネシア)で起りました。事件の首謀者として死刑となった岡田慶治少佐の「青壮日記」と題した獄中日記によれば、州庁で希望者を募って慰安所を作ろうという構想を聞いた熊崎中将が、宮野スラマン州長官に話をつけたと切り出す。熊崎中将がジャカルタの第16軍当局から本人の許諾を条件に構想の認可を得て計画を策定し、岡田は上官の池田大佐や大久保大佐に命じられ実施面を担当したのでした。。
岡田は、州庁が作成した希望者名簿を元に数ヵ所のオランダ人抑留所から35人の女性を連れだし、1944年3月1日、将校用の慰安所を開設した。岡田は、希望者を慰安婦にしたのであって強制連行したのではないと裁判において主張しています。。 しかし、裁判記録によれば、女性たちは「強制連行だった」と証言し、ある抑留所では、リーダーが抵抗して徴集を断念した事例が挙げられてもいます。また、自殺した大久保大佐が、岡田には「若干、強引な言動があった」と遺書に書き記しているのも決定的です。 岡田は、州庁の杜撰な希望名簿を信じて「手違い」が生じたのを、独断先行による「強引な言動」で埋め合わせたのかも知れない。しかし、オランダ人慰安婦たちが戦後、対日協力者のレッテルを張られるのを恐れて告発に回ったとも考えられます。 なお、この裁判は杜撰な点も多く、例えば、その「強制連行」があったとされる期間、東京に出張して不在だった池田省三大佐は、シオウテンという名の検察官らに拷問を加えられて発狂させられたあげく起訴されて、「懲役15年」の判決を受けている。この戦犯裁判は敗者に対する報復裁判の色合いが濃いと言えましょう。 この慰安所はわずか2ヶ月後、第16軍当局の命令で閉鎖となっています。この理由を、94年のオランダ政府報告書は、 「娘を取られた抑留所の親が視察に来た陸軍省の大佐に直訴したため」 と説明しています。しかし、当時第16軍当局で勤務していた鈴木博史大尉は、 「慰安所でひどい悲鳴が聞こえるとの話を聞きこみ、山本第16軍参謀長へ伝えると、山本は『まずい、すぐ止めさせろ』と怒り、翌日に閉鎖命令が出た」 と回想しています。どちらにしても、すでに裁判は終結しており、関係者は処罰されています。 http://oshiete.goo.ne.jp/qa/4069300.html オランダの軍事裁判の報告を調査した吉見義明によれば、
当時スマランには既に慰安所があったが、性病の蔓延から新たな慰安所の設置が計画された。慰安所設置を要請された幹部候補生隊長は、慰安所には自由意思の者だけ雇うようにというジャカルタの第16軍司令部のガイドラインを無視した。(ガイドラインは未発見であるが証言やスマトラの第25軍の類似の通達からそのように考えられている。) 複数の将校と慰安所業者は、ハルマヘラ抑留所、アンバラワ抑留所、ゲダンガン抑留所から17歳から28歳の合計35人のオランダ人女性を強制的に集め、スマラン市内のカナリ通りの建物で日本語で書いた趣旨書への署名を強制した後、スマランの4つの慰安所(将校倶楽部、スマラン倶楽部、日の丸倶楽部、青雲荘)に連行した。 3月1日から営業を始め、女性達は毎日強姦された。給料は払われず、暴行され、その上、性病を移された者、妊娠した者がいる。週に1度医師の身体検査があったが、充分な治療はほとんど行われず、医師が強姦することさえあった。
しかし自分の娘を連れ去られたオランダ人リーダーが、陸軍省俘虜部から抑留所視察に来た小田島董大佐に訴え、同大佐の勧告により16軍司令部は、1944年4月末に4箇所の慰安所を閉鎖した。(小田島大佐の視察は、事件と前後して抑留所の管理が軍政監部から現地軍司令部に移管したためのものである。)しかしながら、日本軍は、当事者を軍法会議にかける事も処罰も行なわなかった。
終戦後の1948年、バタビア臨時軍法会議でBC級戦犯として11人が有罪とされた。罪名は強制連行、強制売春(婦女子強制売淫)、強姦である。有罪者は、軍人および慰安所を経営していた日本人業者等であり、責任者である岡田慶治陸軍少佐には死刑が宣告された。また、中心的役割をはたしたと目される広島県生まれの陸軍大佐は戦後、日本に帰っていたが軍法会議の終了前に自殺した。裁判では、慰安婦にされた35人のうち25名が強制だったと認定された)。 としている。
一方、オランダ人女性の強力な抵抗により若い女性が連行されることを防いだ抑留所(スモウォノ・バンコン・ランペルサリ)もあった。年上の女性たちが志願することで、若い女性が助かった事例もあった。また、以前に日本人と関係があった「道徳観念に乏しい」女性達のリストを作り若い女性の身代わりとさせたケース等もあり、これらの身代わりとなった女性は「志願者」と呼ばれた(この件では戦犯裁判で無罪)。 1994年のオランダ政府の報告書では、インドネシア各地の慰安所で働いていた200〜300人のオランダ人女性のうち少なくとも65人は絶対確実に(most certainly)強制売春の犠牲者だったとされている。 1990年に対日道義的債務基金(JES)が結成され、日本政府に対し、その法的道義的責任を認めて一人当たり約2万ドルの補償を支払うよう求める運動が始まった。これに対し日本政府は、アジア女性基金により総額2億5500万円の医療福祉支援を個人に対して実施し、2001年オランダ人女性に対する「償い事業」を「終了」した。 しかし2007年、オランダ議会下院で、日本政府に対し「慰安婦」問題で元慰安婦への謝罪と補償などを求める慰安婦問題謝罪要求決議がなされた。2008年に訪日したマキシム・フェルハーヘン外相は「法的には解決済みだが、被害者感情は強く、60年以上たった今も戦争の傷は生々しい。オランダ議会・政府は日本当局に追加的な意思表示を求める」[9]と述べ、日本側の償い事業の継続を求めた。 また同2007年、米国議会での慰安婦聴聞会にこの事件の被害者・証人としてたったジャン・ラフ・オハーンは、 当時19歳だった42年、日本軍占領後、収容所に入れられ、 「日本式の花の名前が入った名前を付けられ、髪が薄い日本軍将校が待つ部屋に連れて行かれた。 彼は刀を抜いて‘殺す’と脅した後、服を破り、最も残忍に私を強姦した。その夜は何度強姦されたか分からない」 「一緒に連行されたオランダ人少女らと3年半、毎日こうした蛮行にあい、飢えて苦しみ、獣のような生活をした」 と証言し、 「日本は95年にアジア慰安婦財団を作って私的な補償をしたというが、これは慰安婦に対する侮辱」とも主張。 「日本は政府レベルで残虐行為を認め、行動で謝罪を立証しなければならず、後世に正しい歴史を教えなければならない」と求めた。 「日本人は私たちが死ぬのを待っているが、私は死なない」とし、日本が正式に謝罪するまで闘争を続けるとした。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%A6%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6 オランダ人慰安婦 http://www.youtube.com/watch?v=FA84tRAG-i0 http://www.youtube.com/watch?v=Bm-QIRhtq-M http://www.youtube.com/watch?v=EOTNQfS23zY
ネトウヨはいつも「慰安婦はただの朝鮮人の売春婦だったDEATH〜〜www」なんて言ってますが、皆さんは韓国だけでなく台湾でも対日非難決議が採択されたことを知ってます?
台湾だけでなく中国もフィリピンも東南アジア諸国もオランダも欧米諸国もみんな日本の従軍慰安婦問題を非難しています。なぜならこれらの諸国の女性たちも日本軍性奴隷にされてしまったのが事実なのですから。この時点で既にネトウヨの言う「日本軍慰安婦=朝鮮の妓生」論は破綻していますね。 良識派の皆さんや韓国の皆さんも、さも韓国人女性だけが日本軍慰安婦にされていたかのような誤解を与える言及の仕方をするのは色々な意味でやめましょう。 しかしながら、この期に及んでも都合の悪いことは見えないふり、聞こえないふりしてスルーするのが毎度お馴染みのネトウヨ・クオリティ。それなのに「俺たちは歴史の真実を知っているDEATH〜〜〜wwwww」とかぬかすのは全く片腹痛いですね。ネットで幅を利かせる「Japanese nationalism」がいかに病理に満ちているのかがわかるようですね。 こういうネトウヨみたいなのがいつまでも日本でデカい顔してのさばっているから中国や韓国が反日をやめようとしないのがわからないのかなあ。今後、もし台湾や東南アジア諸国までもが忘れかけていた反日感情をまた思い出したりしたらネトウヨや右翼言論人のせいだな。 以下、ネトウヨがどうしても直視できない現実についてのリンクをいくつか紹介。都合の悪い相手を「在日」と思い込まなければ正気を保てない人たちにはあまりにも残酷な現実でしょうね。 台湾、慰安婦で日本に謝罪要求 - 立法院が決議 http://www.47news.jp/CN/200811/CN2008111101000463.html 憲兵が連行、売春強制 - 慰安婦でオランダ新史料 http://www.47news.jp/CN/200705/CN2007051101000223.html 各国の対日「慰安婦」決議 http://space.geocities.jp/ml1alt2/data/data5/data5-09.htm ネット右翼の妄言録 http://www.geocities.jp/ondorion/now/mougen.html ネットウヨのガセビアを指摘するスレ その5 http://yy31.kakiko.com/test/read.cgi/x51pace/1172996871/ ネトウヨがよくばら撒いている嫌韓コピペのデタラメを指摘。「在日の生活保護がどうたら」とか「日本統治時代の朝鮮の人口がどうたら」とか「ごくごく一部の抵抗はあったが上から下までみんな日本に憧れ、日本人になろうとしたのだ〜」とか。 http://www.geocities.jp/ponnitisuki/copipe.html ちなみにネトウヨの南京大虐殺否定論がどれほどインチキなのかを検証してくれるサイトはこちら。 http://wiki.livedoor.jp/nankingfaq/ http://ameblo.jp/scopedog/entry-10053587358.html 【ネトウヨ涙目】もはや誤魔化せない従軍慰安婦問題の真実 http://www.youtube.com/watch?v=f3YMripanwI
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