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労働組合運動に基礎を置く大衆的労働者党の建設が重要
アラブ地域全体をかけめぐり、現在も続いている革命プロセスの開始から一年たったいま、「インターナショナル・ビューポイント」はこの地域全体での現在の情勢を見渡すために、ジルベール・アシュカルに話を聞いた。このインタビューは二〇一一年一二月一四日に行われた。
チュニジアでの
闘いから一周年
――チュニジアでの「アラブの春」勃発から一周年を迎えようとしています。ベンアリの打倒は、エジプトでの大衆動員とホスニ・ムバラクの打倒、リビアでのカダフィ打倒、イエメンでの動員とアリ・アブドゥッラー・サレハ大統領の辞任、湾岸諸国での大衆動員、そして民主主義を求めるシリアの運動に道を開きました。こうした運動をどのように特徴づけることができるのでしょうか。
これらの運動は民主主義の要求という共通点を持つ効果的なものです。こうした運動は専制的諸国で行われ、体制の変革、政府形態の変更、政治生活の民主化を求めています。この側面はいま挙げた諸国に共通したものであり、運動に力を与えてもいます。民主主義の要求は、この地域できわめて強力な社会的反乱の可能性を結びつける時、異なった要求を持つ広範な大衆の統一を可能にさせるからです。
チュニジアで、この運動が社会的爆発を伴ったことを忘れるべきではありません。モハメド・ブジアジという青年は、彼の生活条件に抗議して自らに火を放ったのであり、政治的要求を掲げたのではありません。彼の事件は、この地域の諸国に固有な失業、とりわけ若者の失業、経済危機、社会的展望の不在を焦点化させました。これが基本的要素です。しかしそれが専制体制批判と結びついた時、われわれが先に挙げた諸国で見られるように、民主主義の要求は大きな比重を持つことになりました。
これとは対照的に、専制政治の問題が同様の鋭さをもって提起されなかった諸国、あるいは政権の側がよりリベラルで、政治的多様性に関して寛容である諸国――たとえばモロッコ――では、運動は社会的問題をベースに作り出されていますが、チュニジア、エジプト、リビア、イエメン、バーレーン、シリアで急速に達成されたような広がりをいまだ持ち得ていません。
米帝の後退と
新たな戦略
――この地域での米国や欧州諸国の政策の発展をどう見ますか。チュニジア、モロッコ、エジプトの選挙やリビアへの軍事介入は、帝国主義や買弁民族ブルジョワジーの側のイニシアチブの回復となるのでしょうか。
あなたの質問には、ブルジョアジーと帝国主義という二つの関係者が存在しています。正確にはこの二つは同じものではありません。さらにここは、現在西側諸国とりわけ米国と協調して動いている世界の一部であり、すべての政府がブルジョアとして特徴づけられるわけではありません――私は湾岸の石油王制について語っているのです。この湾岸王制諸国は前資本主義的様相を持っており、石油収入を搾取している金利生活者のカーストです。これら諸国では、支配しているのは地元ブルジョワジー――買弁であるか否かを問わず――ではありません。その点について区別することが必要です。
米国――この地域の主要帝国主義国――について言えば、チュニジアとエジプトの民衆決起が米国に課したきわめて困難な状況の後で、少しではあれ有利な力の均衡を取り戻しました。しかし「イニシアチブの回復」について語るのは、私には過大評価のように思えます。比較的僅かなコストでリビアに介入することによって、また「決起勢力の側に立つ」と自らを押し出すことによって、かれらは少しばかりの信用を取り戻すことができました。かれらはこれを民主主義に関する一般的言辞と結びつけ、そして、一部の人たちが主張していることとは違い、この偽善的言辞を湾岸王制にまで押し広げています。かれらはその言辞をいかなる行動とも結びつけてはいないとしても、です。米国は、自らを自由という価値の宝庫だとして押し出しています。かれらは、とりわけ冷戦期にそうであったように、数十年間にわたってそれをイデオロギー的武器として見せびらかしてきました。
シリアではかれらはそれをある程度容易にやりとげています。かれらがリビアの体制との間で持っていたほどにも愛着のないイランと同盟関係にあるのが、シリアの体制だからです。しかしかれらがこの地域でヘゲモニー的立場を回復したと述べるのは極度の過大評価です。実際に進行している事態は米国の覇権の重大な後退を示すものです。われわれはこのことを、とりわけシリアとリビアのケースで見ているのです。
リビアでの西側の介入は、地上軍によらない、本質的には遠くからの介入でした。この進行中の過程で米国が持ち得た影響力は、極めて限定的なものです。実際のところ、誰もこの国の情勢をコントロールすることができません。リビアでは、暫定国民評議会、ならびにこの国の再建を請け負う国民評議会の企図――きわめておずおずした、副次的なもの――への抗議の拡大など、米国のお気に召さない事態が展開しています。
エジプトでは、ワシントンの軍事的同盟者が依然として情勢を掌握していますが、かれらの支配は、街頭からの、今も続いている民衆運動からの挑戦を受けています。とりわけ社会的レベルでは、現在の強力な闘いが反映しています。イスラム主義潮流の選挙への強力な登場は、新しい地域的な要因の証明です。こうした潮流は米帝国主義にとっての脅威ではないにしても、米国にとっては軍部がそうであるような御しやすい道具あるいは同盟者ではないのです。同盟者の中で、軍部とムスリム同胞団との協力関係の間には緊張が存在しています。これはムバラク政権と米国の間にあったものとは比較になりません。
伝統的同盟者の民衆的正統性が大きく失われて以来、米国がなぜアラブ地域の政策の再定義を非常に広げた形で行ってきたかを説明する理由がここにあります。ウィキリークスで暴露されたように、その一部について米国はそれほど過大な幻想を持ってはいなかったのですが。民衆的正当性が街頭で確認されている今となっては、米国は真に社会的基盤を持った同盟者を見つけ出さなければなりません。米国がムスリム同胞団に顔を向けているのはそのためです。近年ムスリム同胞団は悪魔視されてきましたが、いまやサラフィ主義者(訳注:最保守派のイスラム教団)との対比で「穏健なムスリム」とされています。ムスリム同胞団は、この地域全体に存在しています。一九五〇年代から八〇年代にかけてナセル、アラブ民族主義、この地域におけるソ連の影響に対決してかれらとの同盟関係を結んでいた古き良き日と同様に、米国はかれらを必要としています。
湾岸王制諸国――とりわけ現在アラブ地域できわだった役割りを演じている二つの国、すなわちサウジ王国とカタール――もまた、イニシアチブを取り戻そうとしています。この二つの王制は必ずしも同じ政策をとっているわけではなく、ときにはたがいの緊張さえ生じるようなライバル関係の伝統を持っているのですが、米国とともにかれら自身の利益を脅かさず、短期的にこの地域の安定をもたらすように事態を方向づけようとする点で、共通の動機を持っています。
とりわけカタールは、米国のように後退を経験し、その影響力を退潮させているサウジ王制と異なり、民衆決起のなかで影響力を増大させてきました。カタールの首長は、ここ数年にわたってムスリム同胞団との関係で賭けを行い、かれらの主要な金銭的支援者となり、アルジャジーラ衛星TVを設立しました。アルジャジーラは大きな力を持つ政治的手段であり、同時にそのスタッフの中に相当のメンバーを持つムスリム同胞団が支配的な影響力を持っています。
カタールはすでに長きにわたってこうしたカードを切り、いまや事態は彼らにとって戦略的な利益になる方向に変わりました。こうしてカタールの首長は米国にとってきわめて価値のある重要な同盟者となったのであり、米国はカタールと緊密な関係を持ち、カタール領内にこの地域の主要な米軍基地を置いているのです。しかしカタールは「危険の分散」のためにイランやレバノンのヒズボラなどとの関係をも築いてきました――これが自分の投資証券の利益を確保しようという金利生活者のメンタリティーです。現在カタールは、米国から見ればその地域的な影響力を全面的に行使することができます。
これらすべてがトルコの地域的役割とも結びついています。トルコに関しては、ブルジョアジーが権力を取り、政府はなによりも自国資本主義の表現であると言うことができます。トルコ政府は米国の同盟者――トルコはNATO加盟国――ですが、トルコ資本主義の独自の利害という展望によって介入しています。この地域へのトルコの貿易・投資攻勢は、何年にもわたって重要性を増しています。
この地域の国家レベルで、重要な役割を演じている人もいます。しかし現在、最大の役割を演じているのは大衆運動です。チュニジアやエジプトのように半勝利を勝ち取った国でも、大衆運動が継続しています。
アラブ各国の
イスラム勢力
――チュニジア、モロッコ、エジプトの選挙でのイスラム主義政党の勝利について、どのように分析しますか。こうした成功は、一九七九〜八一年のイラン革命に膝を屈してしまったことの再現として解釈できるのでしょうか、それとも別の現象なのでしょうか。
それは国ごとに違います。モロッコで起きたことはエジプトやチュニジアと同じではありません。モロッコでのイスラム主義政党の成功は、きわめて相対的なものです。第一にこの選挙では大規模なボイコットがなされました。公式の数字を挙げれば、投票に参加したのは登録有権者の半数以下です。さらにその数は前の選挙より奇妙なほど下落しています。これは二月二〇日運動の中でグループ化されている真の反対派勢力によるボイコット支持の精力的なキャンペーンを背景にして起こったことです。
一般に受け入れられている印象を正すために、反対派の中には体制にラディカルに反対している重要なイスラム主義勢力も含まれていると言うべきでしょう。モロッコでの「国王陛下の野党」であるイスラム主義政党の成功は、したがってきわめて相対的なものなのです。それは、王制に支持されているとは言えないまでも、恐らく非常に歓迎されていることでしょう。その目的は、モロッコが平和的・立憲的な形態で、他の国と同じようなプロセスを歩んでいるという印象を与えるためです。問題になっているこの政党は、ムスリム同胞団との関係を持っています。
チュニジアとエジプトの選挙でのイスラム主義政党の勝利は、もっと強い印象を与えるものですが、驚くほどのことはありません。エジプトの場合――ここで再び国ごとの違いに焦点を当てるべきですが――今回の選挙は、ムスリム同胞団が数十年にわたって唯一の既存の大衆的反対勢力だった時期を経て行われたものでした。他方、イスラム超保守派のサラフィ派勢力は非政治主義を唱え、ムバラクがかれらを政権にとって有用と見なしていたために、活動の自由を享受してきました。イスラム主義運動のこの二つの構成要素は、ムスリム同胞団がこうむらなければならなかった弾圧にもかかわらず、幾年にもわたって発展することができました。
かれらは大衆運動を主導しなかったのですが(かれらは途中から結集しました)、この大衆的運動が一定の制度的民主化を強制することに成功したとき、そこから利益を得る位置にいたのは他のだれにも増してこうした勢力だったのです。ムバラクだけがさる(二〇一一年)二月に辞任し、選挙を準備するのに数カ月しかなかったことを忘れるべきではありません。選挙のレベルで勝利を収めうる信頼できる反対派のオルタナティブ勢力を築き上げる時間は、多くはなかったのです。大衆運動は、この国の主要な選挙マシーンだった政権党を打ち破りましたが、この運動は組織形態としては非集権的な決起であり、「指導的政党」ではなく多様なネットワークでした。運動の中で物質的資産を持った唯一の組織的勢力がムスリム同胞団だったのです。
チュニジアのケースはそれとは異なっています。イスラム主義政党であるアンナハダはベンアリの下で迫害され、禁止されていました。しかしベンアリの弾圧体制は、左翼あるいは民主主義勢力の登場さえも妨げていました。こうした左翼、民主主義勢力は、アンナハダが一九九〇年代初頭に弾圧される以前に獲得していた広範な支持を持っていませんでした。そしてかれらは、とりわけアルジャジーラの支援を受け、この間の年月の中でベンアリに反対する最強の、最もラディカルな勢力として登場することができたのです。アンナハダはこの国の民衆決起を主導しなかったのですが、選挙準備の期間が短かったために他の政治勢力に比してより有利な位置につくことになりました。
エジプトとチュニジアのイスラム主義政党は、カネを持っています。そしてそれは選挙運動において不可欠でした。過去においてアラブ世界の左翼勢力は、ソ連やあれこれの民族主義政権から物質的支援を受けていましたが、そんなことはとうの昔に終わっています。それとは逆にイスラム主義政党に対しては、カタール、イラン、サウジ王国といった後援者の間での支援競争さえ見られます。この点ではカタールの役割がきわめて重要です。アンナハダの指導者であるラシェド・ガンヌーシはチュニジアに帰国する前にカタールを訪れました。チュニスにあるアンナハダの新事務所は何階建てもあるビルで、何十年もの弾圧にさらされて表に出た組織にとって、普通のことではありません。
エジプトのムスリム同胞団は、(二〇一一年)二月に合法化されて以後、資産を気前よく使ってこの国の隅々にまで新事務所を開設するのを止めていません。選挙運動期間中にかれらは多くの資金を使っています。こうしてカネという要因が全面的に展開したのであり、主要な野党勢力というかれらのシンボル的な資産がそれに加わりました。またエジプトの場合、かれらは社会的活動と慈善活動の遂行を通じて重要なネットワークをいかにまとめて政治勢力として根付いてきたのです。こうした勢力が選挙で主要な勝者として現れたのは驚くべきことではありません。
古典的な大衆的
労働者党が重要
――長期的に見て、イスラム主義政党に代わる別の勢力を立ち上げることはできるのでしょうか。
当面の大きな問題は信頼しうるオルタナティブの不在です。それは時間の問題であるだけではなく、その能力、信頼しうる政治的・組織的プロジェクトの存在にかかわる問題です。私の見解では、この地域でイスラム主義勢力に拮抗しうる唯一の勢力は、その本質から言って限定された社会的基盤しか持たないさまざまな色合いのリベラル派ではなく、労働者運動です。チュニジア、エジプトといった国では、労働者運動はかなりの勢力を代表しており、リベラル派とは違って民衆的基盤を持った勢力です。労働者運動こそ、これらの諸国で宗教的原理主義に対するオルタナティブを構築する能力を持った唯一の勢力です。実際のところ、決定的問題は労働者運動の政治的代表が存在しないことなのです。
チュニジアにもエジプトにも強力な労働者運動が存在しています。チュニジアのUGTT(チュニジア労働総同盟)はベンアリ打倒の決定的要素でした。そしてエジプトには新しいエジプト独立労働組合連合(EFITU)があります。EFITUは少数の周辺的勢力ではありません。それはすでに一五〇万人の組合員を擁しているとされます。EFITUはムバラク打倒の前後に展開されたストライキ運動を基盤に、ムバラクが打倒された後に設立されました。このストライキ運動はムバラク打倒において決定的役割を果たしました。ある意味でEFITUは、韓国、ポーランド、ブラジルの独裁体制に対決して創設された反対派の労働組合に類似しています。
ここでの問題は、チュニジア、エジプトで労働者運動の政治的代表がいないことです。そして残念なことですが、これら諸国のラディカル左翼はこうした方針に優先性を置いていないと言わなければなりません。ラディカル左翼は自己の立場の主張と政治的組織の主体的建設によって事態の進展の中で大きな役割を果たすことができますが、そのリズムは、社会運動自体を直接的に促進する方向での政治に、より多くが向けられる必要があります。
砂漠を横断する緩やかなペースの時期には政治組織の建設を優先させることができますが、大衆的決起の時期には組織それ自体の建設だけでは十分ではありません。私は、そうしたことが不必要だと言っているのではありません。しかしそれでは不十分なのです。われわれは広範な運動の構築を追求するイニシアティブを必要としています。私の意見を言えば、チュニジア、エジプトのような国では労働組合運動に基盤を置く大衆的労働者党という古典的な考え方が中心に置かれるべきですが、残念なことにこれらの国のラディカル左派の政治的思考においてはそうしたことは重要だとされていません。
湾岸王政諸国の
動揺と新たな動き
――王制(モロッコ、ヨルダン、そしてアラビア半島)が「堅持」されているように見えるのはなぜでしょうか。あなたはモロッコについて現体制の「寛容」という要素について言及しましたが、アラビア半島の王制についてはそれはあてはまりませんね。
ここでも区別をつける必要があります。まず初めにヨルダンは、湾岸の王制諸国よりもモロッコに似ています。ヨルダンは「リベラルな専制」「リベラルな絶対主義」という外観を持っています。これら諸国は国民主権がない絶対王政ですが、たんに幻想ではない政治的複数主義を備えた憲法と政治的リベラリズムを許容しています。王制の社会的基盤も存在しています。それは王制が養ってきた農村、あるいは農村起源の遅れた基盤です。これは選択的弾圧と結合した路線です。
しかし現在の社会的情勢は、モロッコとヨルダンでは異なっています。モロッコでは強力な社会運動が存在しています。二月二〇日運動は、重要な動員の組織化に成功し、現在にいたるまでそれは持続しています。私の意見では、この運動は、社会的問題がきわめて先鋭であるにもかかわらず、モロッコでは切迫性のそれほど大きくない憲法問題、民主主義問題をスタートさせるという間違いをおかしました。しかし、それは何カ月かのうちに進化を遂げ、現在では社会問題をより強調するようになっています。それでも現情勢においてモロッコでチュニジアやエジプトのタイプの民衆決起が起きるのは、社会的問題だけであって、民主主義の問題ではありません。政権の側は賢明であり、民主主義問題で歯をむき出すようなことはしないからです。モロッコでは、決起が起こった他の諸国、すなわちリビアやシリアは言うまでもなく、ベンアリのチュニジアやムバラクのエジプトに比べても、弾圧は非常に少なかったのです。
モロッコとヨルダンでは共通の要素があり、両国では政権の側が管理された自由を許容し、安全弁を開けて蒸気を外に放出させています。それと同時に政権側はエスニック問題を利用しています。ヨルダンでも無視することのできない、今も続く大衆動員が行われています。こうしてこの二国――モロッコとヨルダン――では、チュニジア、エジプト、バーレーン、イエメン、リビア、シリアでわれわれが見てきたような目を見張る光景ではないにしても、真の運動が起きています。
しかしヨルダンにおける、「ネイティブ・ヨルダン人」とパレスチナ人(ヨルダン川対岸から脱出してきた人びとを起源とする)との間の高度に人工的なエスニック的裂け目は、政権の側に利用されています。西岸出自のパレスチナ人がこの国の多数派であることを知っているヨルダン王制は、「少数派になる」という「ネイティブ・ヨルダン人」の恐れを駆り立てています。それは古典的な「分割統治」の処方箋です。
湾岸王制諸国に目を移せば、情勢は違ったものです。ここでもそれが可能なところでは民衆運動があります。オマーンでは社会運動が存在してきました。いまやクウェートでも政治運動の発展が見られます。サウジ王国では、厳しく弾圧された抗議運動や暴動がありました。そしてもちろん湾岸王制諸国で唯一大規模な民衆決起に見舞われたバーレーンがあります。
例外はきわめて人工的なミクロ国家であるカタールとアラブ首長国連邦(UAE)です。両国は住民の八〇〜九〇%が「外国人」であり、かれらは権利をもたず、いつでも追放されます。したがって両国は社会運動をそれほど恐れることはなく、西側諸国(米、英、仏――これら西側諸国はとりわけUAEとの間で軍事的な連携を持っている)による直接の保護を享受しているのです。他の諸国ではどこでも――クウェート(ネイティブの住民が多少多く見られる)においてさえ――運動が存在してきましたが、それは限られたものでした。
そして何よりもバーレーンでの民衆決起がありました。バーレーンの王制とサウジは、この運動についてスンニ派の王制に対する厳密に宗派的なシーア派運動だと描き出そうとしてきました――シーア派はバーレーン島の住民の大多数を構成しています。確かに宗派的側面は存在しており、この地域では強力です。シーア派はバーレーンでもサウジ王国(サウジではシーア派は少数)でも迫害されています。権力の座にある体制側は、大衆運動の合流を阻止し、自らの社会的基盤をシーア派への敵意で育成するために、最もあさましい宗派主義を利用しています。もちろんかれらは、買収可能な人びとに対しては金銭的手段も使っています。バーレーンでは、現在の力関係の下でかなりの規模の民主主義運動が見られました。この運動は外部からの介入がなければ王制を打倒することができたでしょう――そしていまなおそれは可能です。外部からの介入は湾岸諸国――とりわけサウジ――の軍隊という形を取って行われ、バーレーン島に急行して地元の軍が運動の弾圧に専心できるように補助しました。しかしバーレーンにおける運動は継続しており、解体しそうにはありません。
最後にイエメンです。イエメンは湾岸王制諸国には含まれないのですが、同じ地域に属しています。イエメンはスーダン、モーリタニアとともに最も貧しいアラブ諸国の一つです。人口の三分の二が貧困線以下で生活しています。イエメンは何カ月にもわたってきわめて例外的な規模の動員を経験してきました。イエメンでは政権によって利用されてきた部族対立的要因があり、また地域的な要因もありました。この中で事態は、住民の二つの派が双方に動員をかける「冷たい内戦」と呼ばれる様相を呈したのです。それは関連諸国の中で政権側がまがいものではない大規模な民衆動員をかけることに成功した唯一の国だったのです。この点では、カダフィがトリポリで行い、アサドがシリアで行った人工的・部分的動員とは違っています。
イエメンはその情勢がサウジに直接の影響を与える国であり、サウジがあれほど直接にイエメンに関与したのはそのためです。サウジはサレハ(イエメンの大統領)を支援し、サレハの「辞任」の背後にいました。それはだれもだまされないような仮面舞踏会であり、とりわけ闘争を続けているラディカルな反対派をだますことなどできません。
(つづく)
(「インターナショナル・ビューポイント」(二〇一二年一月号)
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