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硫黄島からの帰還兵 戻ってみると町葬が済み墓ができていた (週刊ポスト) 
http://www.asyura2.com/11/warb8/msg/537.html
投稿者 赤かぶ 日時 2011 年 12 月 30 日 07:55:04: igsppGRN/E9PQ
 

硫黄島からの帰還兵 戻ってみると町葬が済み墓ができていた
http://www.news-postseven.com/archives/20111230_77366.html
2011.12.30 07:00 NEWSポストセブン


ノンフィクション作家・門田隆将氏が100人を超す元兵士に取材した戦争ノンフィクションの決定版三部作『太平洋戦争最後の証言 第二部 陸軍玉砕編』(12月発売)。硫黄島戦にまつわる帰還兵の声を基に、門田氏がレポートする。(文中敬称略)

* * *

小笠原諸島の南端にある硫黄島に、日本軍は陸海あわせて二万一千人の守備隊を配し、米軍は、六万一千人という大兵力を投じた。

「各自敵十人ヲ殪サザレバ死ストモ死セズ」

すべての将兵に伝えられた硫黄島の総指揮官、小笠原兵団長の栗林忠道中将のこの言葉に代表される徹底的な抵抗戦術と兵たちの気迫によって硫黄島では凄まじい攻防が繰り広げられた。

その硫黄島に唯一、聯隊旗を奉じて乗り込んだのが、鹿児島に本拠を置く歩兵第百四十五聯隊である。

硫黄島で最も激しい戦闘を繰り広げた百四十五聯隊の数少ない生還者が、向江松雄(九四)である。

向江が一年八か月に及ぶ捕虜生活を経て、三年二か月ぶりに故郷・鹿児島の地を踏んだのは、昭和二十二年一月六日のことだった。

すでに向江の葬儀は終わっていた。今年八十七歳を迎えた向江の妻・初枝はその時のことをこう語る。

「何か月か前に地元の出征兵士たちの町葬があって、私も参列し、白木の箱ば抱いて、歩いて帰って来ました。箱を開けてみましたら、木の位牌だけが入ってました。位牌には名前が書いてありました。それから何か月か経って、そろそろお墓を建てんな、て話して、お墓もやっとできたところでした。そうしたら、主人が帰ってきたんです」

生きて帰ってきた夫の姿を見た時、初江は身体が震えたことを覚えている。

「もう、ほんと、ありがたいて、がたがた震えました。涙も出ませんでした。本当だろうかと思うてね……」

向江松雄はこう語る。

「いま振り返ると、なんであんなに硫黄島で頑張れたかなあと思うよ。母ちゃん(初江)のことを思うとなあ。年寄りも抱えて大変じゃろうと。どうにか生きて帰らんと、っち。みんな死んでったが、その思いはずっとあったねえ。帰ってから、わしは戦友の墓参りに廻ったよ。生きて帰ったわしを陰で“国賊や”と言う人もいたそうです。

わしは、戦争のことは、ほとんど語らんかった。聞かれて話すようになったのは、ほんの最近のことよ。日本がこんな経済でも大国になったのは、硫黄島であんなに沢山の戦死した人がおったお陰やぞっど。二度とこげな戦争したらいかんどって、いまわしは話しとる」

向江松雄、初江夫妻はその後、四人の子どもに恵まれ、それぞれ九十四歳、八十七歳となった今も、出征していった同じ家に住んでいる。激動の戦後を、農業と林業で生計を立てて静かに暮らしてきたのである。

鹿児島歩兵第百四十五聯隊は、総員二千七百二十七人で硫黄島に上陸し、生還者はわずか百六十二人。生き残ったのは、「二十人に一人」だったことになる。

硫黄島での日本軍の死傷者は二万九百人、米軍は二万八千六百人に及び、太平洋戦争の島嶼戦で死傷者数が唯一、アメリカが日本を上まわった戦いとなった。


※週刊ポスト 2012年1月1・6日号


 

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コメント
 
01. 2011年12月30日 09:03:42 : SttEU322z6

>硫黄島からの帰還兵 戻ってみると町葬が済み墓ができていた

小笠原事件(おがさわらじけん)
http://kknanking.web.infoseek.co.jp/mondai/gyakusatu.html
「”やはり食糧がなくなってくると人肉も食べなければならなくなるでしょう”という話になりました」
 と法廷で証言しているのは大隊長(独立歩兵308大隊)の望月新少佐(のち絞首刑)である。
吉井大佐はこのBC級裁判の法廷で、
「無差別爆撃する米軍が悪い。戦意高揚のため人肉を食べた」と供述。
「日本軍の戦陣訓である、
生きて陵辱の辱めを受けず゛・・・という教えがあり、
捕虜に対する行為は何をおいても許される」と主張したとされる。
http://hide20.blog.ocn.ne.jp/mokei/2008/02/post_2ba0.html
小笠原事件(おがさわらじけん)とは、1945年(昭和20年)に日本軍が米軍の捕虜8名を殺害し、そのうち5名の人肉を嗜食したとされる事件である。別名、父島人肉食事件。
当時の父島は住民を疎開させた上で要塞化(父島要塞)されており、陸軍の立花芳夫中将指揮する混成第一旅団と海軍の森国造中将指揮する父島方面特別根拠地隊が駐留していた。連日の空襲を受ける中、酒乱で気性の荒い立花芳夫中将と的場末男少佐が共謀して「日本刀の凄みを披露する絶好の機会」という理由で、撃墜した米軍機から脱出して捕虜となった搭乗員を使って軍刀の試し切りをすることになった。
http://esashib.web.infoseek.co.jp/kenpo05.htm
そこで、大木に針金で括りつけた捕虜を予備役応召の伊藤喜久二中佐に師団長命令を発して斬殺させるなどし、さらに軍医に遺体を解体させて、その肉を戦意高揚のためとして焼いて酒宴の肴とした。後の証言によれば、立花は米兵の手足の肉や内臓を食べると、「これは美味い。お代わりだ!」と喜んだという。

参謀だった堀江芳孝少佐は立花らの素行にかねてから不安を感じており、捕虜のウォーレン・ボーン中尉を、自分の英語教師として身近に置くことで守っていたが、外出後に戻るとすでに処刑されて喰われた後だった。的場少佐の部下の供述調書によると、この時に的場少佐が発した命令は次の通り[2]。

一、大隊は米人飛行家ボーン中尉の肉を食したし
二、冠中尉は此の肉の配給を取り計らうべし
三、坂部軍医は処刑に立会い、肝臓、胆嚢を取り除くべし
1945年3月9日 午前9時 大隊長 陸軍少佐的場末男
発令方法…冠中尉並に坂部を面前に呼び口頭命令、報告は立花旅団長へ、通告は堀江参謀へ
http://gonta13.at.infoseek.sk/newpage441.htm
http://www.jca.apc.org/~yyoffice/Son%20My/Part2.htm


02. 2011年12月31日 04:11:55 : FijhpXM9AU
真珠湾攻撃に絡む宣戦布告の文書作成提出の遅延等はぜんぶ嘘くさい謀略だったと思うし、映画「パールハーバー」で海軍のパイロットが民間人に機銃掃射する場面も自分たちがやったことの照れ隠しでしかないペテンプロパガンダであるが、この小河原事件と泰緬鉄道建設時の英人捕虜虐待はもう文句の言いようのない戦争犯罪であった。人食い人種だと言われても反論ができなくなってしまったのである。人間は人肉を食べてまでサーバイブする必要はない。潔く死ねばいいのである。
---------------------------------------------------------

それから
「生きて帰ったわしを陰で“国賊や”と言う人もいたそうです。」であるが、こういうことを言う根性の狭いゴミがいるから日本は今のようなざまになったのだ。


03. 2013年8月16日 22:55:48 : dmaC73usdI
こういう話を聞くと、裕仁が処刑されなかったのが本当に納得できない。
戦争を始めて、大本営から指令をだしていたのはコイツだろ。

なぜ、当時の日本人は裕仁が処刑されなかったことに何も言わなかったんだ?
日本人は当時からおかしかったんだよ。
そして今のようなザマだ。


04. 2014年8月16日 14:26:03 : RQpv2rjbfs
陛下の言い分、立憲君主であった。すなわち陛下には戦争を始める権限もなければやめる権限もなかったと。

陛下は松岡洋右や安倍のじじ、岸信介をずいぶん嫌っておられたそうだ、A級戦犯ながらゾンビのごとく政界復帰をはたしたが、岸は多くの兵隊さんを犬死させた責任を天皇陛下以上にとらねばならんかったと思っている。事実戦後の昭和天皇の言動をみれば平和と国民をことさら愛していたことに疑いを差し挟む余地はない。疑わしいのは安倍だ。


05. 2014年8月16日 15:30:41 : Fx0MAc3H3s
04様に同意!
学徒出陣者の中にさえ死刑になった人間がいたにもかかわらず
どうして岸がA級戦犯から逃れられたのか
裏ごとしかないでしょ

06. 2014年8月16日 16:40:44 : w3M1BHSquE
>わしは、戦争のことは、ほとんど語らんかった。聞かれて話すようになったのは、ほんの最近のことよ。
>日本がこんな経済でも大国になったのは、硫黄島であんなに沢山の戦死した人がおったお陰やぞっど。
>二度とこげな戦争したらいかんどって、いまわしは話しとる

こういう話を本当に聞いておくべき時が迫っている 戦争経験者は高齢化し語る人が少なくなっている
そして本当に壮絶な体験をした人が それを語るのは 文字通り死ぬ直前である場合が多いのだ
そのくらい、言葉に表せないほど 想像を絶するような辛苦であった事は推察出来よう
戦後69年経った 今だからこそ やっと話せると言う話も 必ず有るはずである。


07. 2014年8月16日 21:20:34 : YG4lleWtCw
今度は讀賣日テレグループの工作員の方々の宣伝ですか?

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