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2011年9月11日 ニューヨーク
「みんな調子はどうだい?」「最高の朝だね」「今日もはじけていくよ」
「最初のリクエスト 誰?」
「俺はビニー。運送会社で働いているんだ」
「今、何してるの?」
「運転中さ」
「リクエストは?」
「マイケル・ジャクソンの新曲 頼むよ」
「オーケー、いってみよう」
9月11日 午前7時 ボストン空港
「アメリカン航空11便 ロサンゼルス行きは搭乗中です」「搭乗ゲートに集まって下さい」
「8時5分になりました 交通情報の時間です」
「道路はどんな状況?」
「今日はどこもすごい渋滞です」「東へ向かう280号線は特に混雑」「80号線の4号出口は車2台の事故」「現在はノロノロ運転です」
エジプト カイロ郊外のトラ刑務所。数キロに及ぶ敷地に1万人を超す政治犯を収容している。20年前(1982年)、このトラ刑務所につながれていた一人の過激派をテレビカメラが捉えていた。後にビンラディンに過激な思想を吹き込み、ともに無差別テロへ暴走してゆくアイマン・ザワヒリだ。「我々はシオニスト 共産主義 帝国主義と徹底的に戦う!」
ザワヒリは高名なイスラム法学者を祖父にもつ名家に生まれた。114章に上るコーランをことごとく暗唱しようと少年の日々を費やしていったという。ザワヒリは義務教育課程を2学年飛び越し、17歳で最高学府のカイロ大学医学部に進学する。
ザワヒリの叔父、老弁護士のマハフーズ・アッザーム。少年時代のザワヒリは飛び抜けて聡明だったという。「ザワヒリは毎日夜明け前に起きては自宅そばのモスクに出かけ、祈りを捧げていた。暑い夏でも寒い冬でも毎日コーランをそらんじようとそれはそれは一途だった。どんなささいなことでも疑問を残したままにせず、納得のいくまで本を読んで究める。そういうひたむきな少年だった」。医師となったザワヒリは、祖国エジプトの国家としてのありように疑問を持ち、テロリストへと変わってゆく。
聖地エルサレムを遥かに望むシナイ半島。1973年、エジプトはイスラエルに占領されていたこの砂漠の地を奪還した。巧みな奇襲攻撃によって勝利をもたらした大統領アンワール・サダト。サダトはこの勝利を機に西側陣営の盟主アメリカに近づき、昨日までの敵、イスラエルとの電撃的な和平交渉に着手する。聖地を占領するイスラエルと手を結んだサダトに、敬虔なイスラム教徒たちは怒りの声を上げた。ザワヒリは、エジプト政府はイスラムの裏切り者だと断じた。サダト政権に対する闘争こそジハード・聖なる闘いである。ザワヒリは仲間と反政府の地下組織を作る。
かつてザワヒリと同じ夢を見て、ともに牢につながれた元反体制派活動家、モンタスィル・ザイヤート。ザワヒリの思想に深く影響を受けた一人だ。「ザワヒリの秘密組織には、当時はっきりした名前はまだありませんでした。我々仲間内ではジハード・グループとか、アイマン・ザワヒリ・グループと呼んでいた。ザワヒリはエジプト軍の将校たちにジハード思想を植え付けようとしていました。クーデターを起こして政権を転覆することこそ最良の手段だとよく話していたものです」。
ザワヒリが目指していたのは、イスラムの戒律が万物を支配する社会だった。しかし革命にとりかかる前に事態は予期せぬ展開を見せる。1981年10月6日、軍の過激派将校たちがザワヒリのグループに先んじて決起したのである。大統領サダトは軍事パレードを観閲中に若手将校が放った銃弾に倒れた。治安部隊は全土に非常事態令を発動。反体制派活動家を一斉に検挙した。逮捕者の数は3000人に上った。ザワヒリも検挙され、政治犯を収容するトラ刑務所に入れられた。ザワヒリは刑務所の中で革命思想を仲間たちに説き、強力な過激派組織を作り上げてゆく。
モンタスィル・ザイヤートはこの時逮捕された。牢獄の壁越しにザワヒリと議論を交わしている。「まず、こうやって壁を叩くんです。その音で壁の向こうにいるのが誰か判る。口を両手で覆って壁に口を押し当ててしゃべる。聴く方も壁に耳を押し当てて、こうやって議論したものです」。
ザワヒリはコーランを巧みに引用しながら、牢獄の仲間たちにこう唱えた。「我々イスラム教徒たちの前に二つの敵がいる。近い敵と遠い敵だ。遠い敵は宿敵イスラエル。その背後にアメリカの影がある。近い敵こそイスラムの裏切り者であるエジプト政府。まず近い敵を倒してしまえ。そして遠い敵イスラエルに攻め入ろう。悲願の聖地エルサレムの奪還を果たすのだ」。ザワヒリはそう呼びかけた。
モンタスィル・ザイヤート、「アメリカの協力者に成り下がったエジプト政府をまず手始めに始末する。それは我々の最も近くにいるからだと、ザワヒリは言いました。コーランの一節を引用し、お前たちを無信仰へ導く者のうち、近くにいる者を殺してしまえとささやいたのです」。
コーランの一節。「信徒たちよ、汝らの身近にいる無信仰者たちに闘いを挑みかけ、恐ろしく手ごわい相手だと思い知らせてやるがよい」。ザワヒリはこれをエジプト政府攻撃の根拠と解釈した。そして後のアルカイダにつながる過激派組織を刑務所の中で作り上げていった。
1982年。最高軍事治安法廷でザワヒリたちに対して判決が言い渡された。被告席は鉄格子の中であった。ザワヒリはテレビカメラの前で組織のリーダーとして宣言した。「我々はイスラム教徒である。イデオロギーとして、慣行として、宗教を信じる者たちだ。我々はイスラム国家の建設を目指す。シオニスト 共産主義 帝国主義と徹底的に戦う。さらなる犠牲も覚悟している。イスラムが勝利するまで犠牲をいとわない!」
ザワヒリの叔父、マハフーズ・アッザームは眼に涙を浮かべながらこう述べた。「ザワヒリは牢獄にいた3年間、毎日のように拷問を受けていた。常の人生ではあり得ないことだ。嫌というほど拷問を受けた3年間だったのだ」。
1984年9月、ザワヒリは3年の刑期を終えた。この時33歳。やがてその姿が祖国エジプトから消えた。近い敵と遠い敵へのジハードを戦う拠点を求めて祖国を捨てたのである。
アフガニスタンと国境を接するパキスタンのペシャワール。オサマ・ビンラディンとザワヒリはこの町で出会った。国境の向こう側、アフガニスタンではイスラムにとっての侵略者、ソビエト軍との熾烈な闘いが繰り広げられていた。世界中から数万人と言われるイスラムの若者が終結していた。イスラム義勇兵は、ここペシャワールから聖なる闘い、ジハードに参加するため山々を越えて行った。その中に、アラブ義勇兵の英雄と呼ばれる一人の若者がいた。サウジアラビアの大富豪、オサマ・ビンラディンである。1979年、ソビエト軍がアフガニスタンに侵攻すると、ビンラディンが直ちに戦線に姿を見せた。「宿泊施設、食料、輸送トラック、闘いに必要な物ならなんでも揃えてくれる男。彼を送り出したのはアラブの盟主、サウジアラビアの王家だ」。当時こうささやかれていた。ビンラディンが放つカリスマ性に多くの義勇兵が引きつけられて行った。
負傷したイスラム義勇兵を治療するために現地に赴いた医師、サアド・アル・ファギー。彼もまたサウジアラビアの出身だった。「あの頃はジハード・聖なる闘いを戦っているという精神の高揚感があったのです。殺されても、怪我をして敵に捕まっても、そんなことはかまわないと思っていました。ジハードのため、精神だけでなく肉体も鍛えなければ。優れた軍事技術を身に付けることこそ、イスラム教徒にとっての義務だ。コーランにそうある。預言者もそうおっしゃっていると、みんな信じていました」。
傷ついた義勇兵のための野戦病院。その一つ、赤新月病院。ここにビンラディンが師と仰ぐエジプト人医師がいた。ビンラディンに注射針を刺している医師は、あのアイマン・ザワヒリ。ザワヒリはエジプト政府の弾圧を逃れ、ここペシャワールにやってきていた。表の顔は腕利きの外科医、ザワヒリは、ビンラディンこそイスラムの敵との戦い、ジハードをやり抜く実行力のある男だと直感する。そしてビンラディンにみずからのジハード思想をゆっくりと注入していった。
キング・アブドゥル・アズィーズ大学 ペシャワール分校。サウジの王家が出資して建てたものである。この学びやでは、侵略者ソビエトと闘うことこそが、ジハードだと説いていた。これまでの教えを突き破り、ジハードの対象を広げたのがザワヒリである。ジハードの敵は決してソビエトやイスラエルだけではない。ザワヒリはこう唱えた。近い敵と遠い敵。異教徒におもねるものは、たとえイスラム国家の政府であっても敵だ。この近い敵を討ち、かなたの聖地、エルサレムを奪還しよう。ザワヒリのジハード思想が徐々にビンラディンの血の中に行き渡ってきた。
ザワヒリの友人、モンタスィル・ザイヤート、「ザワヒリはビンラディンが持っていた伝統的なイスラムの考え方を変えていった。自分のジハード思想を植え付けていったのです。新たな協力関係ができ上がると、ザワヒリの思想をよりどころにビンラディンが資金を出し、アフガニスタンに軍事キャンプを造って、多くの若者を迎え入れていったのです」。
ビンラディンが造った軍事キャンプで訓練を受けた義勇兵たちは、寄せ集めの集団から統制の取れた組織へと変貌してゆく。数多くの義勇兵を束ねるビンラディン。その側近にザワヒリは自分が指揮してきたエジプトの過激派組織の仲間を送り込む。カリスマ的なリーダー、ビンラディンの後ろに常にザワヒリの存在があった。国際テロ組織、アルカイダはこうして様々な国籍のイスラム義勇兵を核にして生まれた。巨額な資金を動かす富のビンラディン。ジハード・聖なる闘いを操る思想のザワヒリ。二つの柱がいくつものイスラム過激派を糾合させ、アルカイダを国境を超えて増殖させることになる。
ザワヒリとビンラディンがペシャワールで出会った頃、エジプトのカイロ大学に一人の若者が入学してきた。後に世界貿易センタービルに飛行機ごと激突することになる実行犯のモハメド・アタである。当時は建築家を夢見て、工学部建築科に入った。大学時代の写真には仲間たちに囲まれておだやかな微笑みを浮かべるアタの姿がある。ナイル川が作った巨大なデルタ地帯がアタのふるさとである。豊饒な麦畑が限りなく広がる農村地帯。この風景の中でアタは生まれ育った。二人の姉から離れようとしない内気な少年。勉強好きで友達は多かったという。幸せだった少年時代を物語る写真が残っている。アタの母は頭をベールで覆っていない。一家が厳格なイスラム教徒ではなかったことをうかがわせる。
10年以上に渡って家族ぐるみの付き合いがあったムハンマド・ハミース。アタの家庭には宗教の匂いはなかったという。「私の知っているアタは、熱心なイスラム教の信者じゃない。アタだけじゃなくて、あそこは家族全員がイスラム教に関心がなかったよ」。
1989年。工学部の仲間と出かけた研修旅行の写真。アタはザワヒリと同じくカイロ大学に学んだ。在学中からジハード思想に傾いていったザワヒリ。しかし、アタの学生時代にはテロリストになってゆく片鱗すらなかった。建築家としてエジプトの美しい街並みを残したい。その夢をかなえようと、アタは大学卒業後、ドイツへ留学する。それがアタの人生を大きく変えることになる。
テロ組織アルカイダの過激思想を作ったザワヒリに、みずからの人生を綴った文書がある。文書の名は「預言者の旗のもと 駆け抜ける騎馬武者たち」。著者名はアイマン・ザワヒリと記されている。ロンドンにあるアラビア語の新聞「アル・シャルク・アル・アウサト」の編集部。文書は、テロ組織アルカイダの関係者から2001年11月に持ち込まれた。文書を持ち込んだ人物によれば、ザワヒリはアメリカ軍の空爆が続くアフガニスタンの洞窟でこの文書を書き上げたという。ザワヒリは死を覚悟してこの文書を残すと書いている。文書は300ページに渡り、ザワヒリの思想上の歩みが克明に記されている。高校生の頃、イスラムの革命思想家、サイード・クトゥブの「道標」という本と出会い、ジハード・聖なる闘いへの思いを深めたこと。カイロ大学に入学後、陸軍技術学校の秘密集会に参加し、軍事クーデターを目指す反乱勢力と出会ったこと。さらに1995年にパキスタンで起きた、エジプト大使館爆破テロ事件の総指揮をとったこと。この文書はこうした新たな事実を明らかにしている。
アブドゥル・ラシード編集長、「この文書に目を通した時に驚きました。なにしろザワヒリについて、それまでまったく知られていなかった様々な事実が書かれていたのです。これを読むと、ザワヒリが目的のためなら、殺人や破壊行為をいくらやってもかまわない、という人間になっていった様子がよく判ります」。
自分たちのジハード思想を後世に伝えたい。その思いをザワヒリはこの文書に託したのだ。「ザワヒリ最後の遺書」。文書はそう呼ばれている。
ビンラディンの故郷、聖地メッカを抱えるサウジアラビア。サウジアラビアはアフガニスタンのソビエト軍と闘う義勇兵を支援し続けてきた。義勇兵を率いるビンラディンの活躍は、祖国に知れ渡っていた。1989年12月、アフガニスタンからソビエト軍が撤退。イスラム義勇兵の粘り強い抵抗がソビエト軍を疲弊させたと言われている。ソビエト軍の撤退を見届けて、ビンラディンはアフガニスタンから一旦、祖国サウジアラビアに戻る。ビンラディンは英雄として迎えられた。
1990年8月、イラク軍のクウェート侵攻による湾岸危機の勃発が、ビンラディンのその後の人生を大きく変える。石油資源で潤うクウェートを武力で占領したイラク。サダム・フセインは中東最大の産油国、サウジアラビアをもうかがう勢いだ。サウジアラビアの王家に緊張が走った。イラクのさらなる侵攻を恐れるサウジアラビア。イラクへの反攻のため、部隊を駐屯させたいアメリカ。ファハド国王はアメリカ軍の駐留を受け入れた。アメリカ軍の部隊が聖地メッカの郊外にも進駐した。イスラムの信徒たちは怒りの声を上げた。聖地メッカの防衛を異教徒にゆだねようというのか。アフガンの英雄、ビンラディンが動いた。王家に対し、アメリカ軍によらずとも義勇兵だけで祖国を防衛できると進言した。国民的人気があるビンラディンが国王の方針に反対すれば、国家の権威を揺るがしかねない。ビンラディンの言葉は王家の怒りに触れ、自宅に軟禁された。祖国の英雄から反逆者へと転落したのである。
元イスラム義勇兵、サアド・アル・ファギー、「イラクがクウェートに侵攻した時、ビンラディンはサウジの国王に書簡を送り付けました。アフガニスタンにいる義勇兵を組織し、イラクを含め、あらゆる敵と闘う覚悟がある、と書いています。この進言は葬り去られ、ビンラディンは自宅にとどまるよう命令を受けました。そしてアメリカ軍がやってきて、彼にとって人生最大の屈辱となったのです。」
1991年1月湾岸戦争 勃発。アメリカはクウェートからイラク軍を駆逐するため、攻撃を開始した。ビンラディンはサウジやクウェートに駐留するアメリカ軍の圧倒的な軍事力を目のあたりにした。ビンラディンは軟禁中の自宅から抜け出し、逃亡の旅に出た。
砂漠を挟みサウジアラビアと国境を接するイスラム国家イエメン。ビンラディンの父が生まれたハドラマウト地方。雨期と乾期が交互に訪れ、荒々しい自然を形作っている。岩石砂漠が広がるイスラムの原風景である。ビンラディンの父親は不毛地帯の開発に富を注いだ。ビンラディン・グループの看板がその力の入れようを物語っている。この一帯の若者はビンラディン・グループを頼って、サウジアラビアへと出稼ぎに渡って行く。
ある商店主、「ビンラディンさんは、この地方の者をたくさん雇い入れて下さっている。私らは正直者で、ようく働く。ビンラディン一族から私らは信用されているのですよ」。
オサマ・ビンラディンは幼い頃、学校が休みになるたびに父の故郷を訪ねていたという。サウジアラビアの都会から訪ねてきた少年は、厳格な大自然に心をときめかせた。乾いた岩盤に張り付くように開けた砂漠の民、ベドウィンの集落。少年ビンラディンが行く先々で、ビンラディン財閥の跡取り息子として手厚くもてなされたという。反逆者として祖国を追われたビンラディンの脳裏には、イスラム共同体の変わらぬ姿があったという。伝統と血縁、そして友情を尊ぶ岩石砂漠の民。逃亡者をかくまい、仲間のためには闘うことも辞さない。砂漠の民の固い掟である。預言者・ムハンマドの時代から続く蜂蜜の収穫。ファドラ・マウトの蜂蜜は香り高く、そして甘い。アッラーの神が与えた恵の薬。それが蜂蜜だと言い伝えられてきた。蜂蜜が潤すイスラムの大地。その大地に踏み込んできた異教徒・アメリカ。ビンラディンはアメリカこそ聖なる闘いの真の敵だと思い定めていた。
ビンラディンの内面で、ザワヒリによって目覚めさせられたジハードの思想がこだまする。聖地を奪い返すための遠い敵への闘い・ジハード。ビンラディンは再び闘いを開始しようとしていた。そこでビンラディンは古巣のペシャワールに一旦舞い戻った。そしてザワヒリとともに新たな決起を目指してアフリカに渡った。
ビンラディンとザワヒリが選んだ新たな大地・スーダン。この国を舞台にして、二人は聖なる闘い・ジハードに挑んでいた。スーダンの大地を流れるナイル川。青きナイルは富のビンラディン。白きナイルは思想のザワヒリ。二つのナイルがスーダンの大地でぶつかり、ひとつの大河となって行く。ジハードにかけるふたりの行動は、その結びつきの新たな段階を迎える。
首都ハルツーム。一握りの特権階級が住むリヤド地区。ビンラディンとザワヒリはここにそれぞれ新たな住み家を得る。豪華な住宅を用意したのはスーダンのバシル政権。スーダン政権にとってふたりはかけがえのない賓客である。大富豪ビンラディンは首都ハルツームの経済をよみがえらせてくれる実業家。そしてザワヒリはエジプトと国境紛争を抱えるスーダンにとって、敵を良く知る参謀である。ビンラディンは潤沢な資金を投入。建設、農地改革、さらには金融。ハルツームに五つの会社を立ち上げ、一大企業グループを作り上げて行く。ハルツームから貿易港・ポートスーダンへとつながる1400キロの幹線道路。ビンラディンの建設会社、ヒジラ・コンストラクションが開発を一手に引き受けた。そして道路建設に名を借りてビンラディンは大量のダイナマイトを蓄えた。ナイル川沿いの広大な荒れ地はビンラディンの農地開拓会社が灌漑に着手。綿やトウモロコシの収穫地帯に生まれ変わっている。そしてバシル政権から深く信頼されたビンラディンとザワヒリは、この地に隠れて軍事訓練を繰り返していた。近い敵と遠い敵へ向けた闘いがアフリカを舞台に幕を開ける。
1993年10月 ソマリア 米軍襲撃事件。ソマリアに展開していたアメリカ軍の兵士が現地の武装勢力に襲われ18人が死亡した。ビンラディンにつながる勢力が遠い敵・アメリカに対するジハードを仕掛けたのだ。
1993年11月 エジプト セドキ首相 暗殺未遂事件。エジプトのカイロで首相暗殺未遂事件が発生した。ザワヒリ率いる過激派集団が近い敵・エジプトに対する闘いを仕掛けた。遠い敵と近い敵への闘いが、テロの嵐となって吹き荒れて行く。
スーダンのバシル政権は、イスラム復興の名のもとにアルカイダを始め、中東各地に散らばる過激派組織を受け入れ、国境を超えたイスラム統一戦線を作ろうとしていた。ハルツームにある国際会議場に過激派組織が一堂に会した。1995年のことである。レバノンのヒズボラ、パレスチナのハマス、アルジェリアのGIA、成り立ちの異なる過激派組織が、聖地エルサレム奪還を合言葉にひとつに結ばれていった。ビンラディン率いるアルカイダは豊富な資金力にものを言わせ、これらの組織を包み込む新たなテロ組織へと増殖して行く。遠い敵・アメリカが共通の敵として浮かび上がって行くことになる。
ドイツ ハンブルク工科大学。同時多発テロの実行犯となるモハマド・アタ。エジプトからドイツに留学し、ハンブルクの工科大学で都市工学を専攻している。ドイツに来て2年が経った1994年。アタは一眼レフのカメラを携え、シリアの古代都市・アレッポの研究へ旅立った。
シリアの古代都市・アレッポは、イスラム文明が駆け抜けていった歴史の舞台である。街を見下ろす丘に建つアレッポ城。十字軍の侵攻を退けるため、巨大な要塞として築かれた。アレッポ城につながる古い街並みのそこかしこにイスラムの伝統が息づいている。神の御名の元に人間は手を携えて生きよ。この教えがイスラムの都市造りに脈打っている。古い街並みに溶け込んで暮らす人々の日常。
アタはこうしたアレッポの人々の生活にまなざしを向け、路地から路地へと訪ね歩いた。そのアタの目の前に残忍な光景が広がっていた。古代都市アレッポの家並が鋼鉄の爪でかきむしられ、引きちぎられ、崩れ落ちている。アタは旧市街地の再開発の現場に立ち尽くしていた。ここにはやがて高層ビル群が立ち並び、広告塔が作られていた。欧米の現代文明がシリアにも押し寄せ、美しい街の形を変えていった。街が表情を変えるにつれて、イスラムの伝統が崩れて行く。アタはこの年、何度もアレッポを訪れ、崩れ行くイスラムの姿を記録にとどめようとした。
ドイツ ハンブルク。アタは大学近くのモスクに熱心に通うようになっていた。祖国エジプトにいた時はほとんどモスクに行ったことのないアタがアッラーの神に祈りを捧げるようになった。少数者に配慮し、様々な価値観を受け入れる西洋社会の民主的な政府。その一方で異質な者に向けられる冷ややかな視線。アタは欧米社会への反感を強める一方で、イスラムの教えにより強く惹かれるようになっていった。
ハンブルク工科大学。ドイツに来て5年が経つ頃から、アタの周辺にテロリストの影がちらつくようになる。そのひとり、マルワン・アルシェヒ。後に航空機を乗っ取って世界貿易センタービルに2機目の自爆攻撃を仕掛けることになる。もうひとりはジアード・ジャラ。ピッツバーグ郊外に墜落した航空機をハイジャックしたテロの実行犯となる。同時多発テロの実行犯となる3人がドイツで接触を深めていった。
1997年の夏、アタが忽然と大学から姿を消した。アフガニスタンのアルカイダのキャンプで訓練を受けていたのではないかと見られている。失踪からほぼ1年後、指導教授マフーレの前にアタが姿を現した。アタはシリアの古代都市アレッポをテーマに卒業論文をまとめたいと教授に申し出た。何かが彼を変えてしまった。教授はアタの険しい目つきからそう思ったという。
アタの指導教官 ディットマー・マフーレ教授、「アタはあまり笑わなくなりました。卒業論文を仕上げるのに、よほど心労が重なっている為だろうと思っていました。アタは頻繁に研究室にやってきては、設計図を何度も書き直し、朝から晩まで一生懸命頑張っていました」。
まるで何かに憑かれたように古代都市アレッポについて書き続けるアタ。教授の知らないところにアタのもうひとつの実像があった。
アタが1998年10月に新しく借り上げたアパート。契約書にはテロ計画に関わっている人物の名前が記されている。サイード・バハジ。テロリストとの連絡役で後方支援を担当。同時多発テロに関係したとして、後に国際指名手配されることになる。そしてこの部屋にはアタと一緒に暮らすもうひとりの仲間がいた。アタとは別の飛行機で世界貿易センタービルに自爆攻撃を行なうマルワン・アルシェヒである。アタはこの部屋で学生生活を装いながらジハードの指令がくるのを待っていた。
1999年夏、アタは卒業論文を仕上げ、大学に提出した。タイトルは「危機にさらされた古代都市・アレッポ」。論文にはアタが撮影したアレッポの写真の数々が添えられていた。都市工学を学ぶ者として、イスラムの古代都市復活を願うアタが脳裏に刻んだ風景である。論文の第1ページにアタは下書きにはなかった一文を書き添えた。「私の祈り 私の奉仕 私の生と死も全て 万有の主 アッラーのものである」。コーラン第6章である。卒業論文を仕上げたアタはドイツを後にする。行き先は、ビンラディンとザワヒリがジハードの対象としたアメリカである。
1996年。スーダンを新たな活動拠点に選んだオサマ・ビンラディンは、アルカイダの組織を着々と築き上げていった。その軍事組織はスーダンの警察権力の外に置かれ、国家の中にできた独立国家とすら呼ばれていた。アメリカ政府は危険なテロ集団をかくまっているとして、スーダンに経済制裁を発動。国際社会にも働きかけ、バシル政権への圧力を強めていった。このままでは国内経済がさらに疲弊し、政権の基盤そのものが危うくなる。バシル政権が極秘の外交カードをアメリカに示した。スーダンとアメリカの知られざる交渉が始まったのである。交渉開始の直接のきっかけは、スーダンの首都ハルツームにあるアメリカ大使館の撤退だった。1996年1月、アメリカは現地スタッフを除いて全ての要員を隣国ケニアに移す処置をとった。テロリストと手を切ろうとしないバシル政権に不快感を示したクリントン政権の強い処置は、バシル政権を突き動かした。
極秘交渉を担ったのは当時の在スーダン米国大使、ティモシー・カーネイ。内戦の地を渡り歩いてきた外交官である。スーダン側の交渉責任者は外相のモハメド・ターハ。現在の副大統領である。ターハはスーダンを去ろうとするカーネイを引き止めて、こう持ちかけた。「スーダンはテロ対策についてアメリカと真剣に話し合う用意がある」。スーダン政府からの意外な申し出にカーネイが動いた。
在スーダン米国大使(当時)、ティモシー・カーネイ、「それまでは、お互い主張を述べあうだけで対話と呼べるものはありませんでした。それがこの瞬間、変わったのです。バシル大統領自身がテロを巡る問題について、インテリジェンスと外交の両面からアメリカ政府と協議を行ないたいと動きました。私たちはビンラディンたち、イスラム過激派の扱いについて協議を開始しました」。
アメリカ政府は交渉で8項目の要求を突きつけた。ビンラディンたちイスラム過激派をスーダンから追放すること。アメリカ情報機関の査察を受け入れ、追放した事実を確認できるようにすること、などである。アメリカ側はこれらの要求を受け入れない限り、経済制裁を緩める訳には行かないと迫った。
ティモシー・カーネイ、「CIA、そして国家安全保障会議、国務省が8項目の要求を作成し、スーダン側に示しました。協議の進展ぶりをにらみながらスーダンだけでなく、時にはワシントンにも交渉の舞台を移して精力的に進めました」。交渉の核心はスーダンの国内にいるビンラディンの身柄の扱いだった。外相ターハはビンラディンと親しく、太いパイプを持つ人物だった。ターハはアメリカ側にこう持ちかけた。
スーダン外相(当時)、モハメド・ターハ、「我々はアメリカ側にふたつの提案を申し入れました。まずはビンラディンの思想や活動をアメリカ側が理解できるよう手助けすること。つまり、両者の率直な対話の場を作るということでした。何しろアメリカはビンラディンについてまったく分かっちゃいなかったんですから。もうひとつは、ビンラディンを祖国サウジアラビアに引き渡すこと。問題の解決をサウジ政府にゆだねようということです」。
テロリストとは一切の対話を行なわない。これがアメリカ政府の原則である。クリントン政権はサウジアラビア政府にビンラディンの身柄を何とかしてくれないかと打診。サウジアラビアにはビンラディンの英雄伝説が色濃く残っていた。サウジ政府にとっては王政を揺るがしかねないビンラディンの身柄を引き受けることなど考えられない選択だった。
ティモシー・カーネイ、「私たちの要求に対して、サウジアラビア政府の答えはノーでした。サウジはビンラディンの身柄など望んでいなかったのです。サウジもイスラム原理主義勢力も、そして政権も国体を危うくしかけない身柄引き受けなどやりたくなかったのです」。
ふたつの提案を拒否されたスーダン政府は最後の切り札をそっと差し出した。ビンラディンの身柄をアメリカに引き渡してもよいとほのめかしたのである。アメリカ政府にとっては国際テロ組織アルカイダの首謀者を手中にするまたとないチャンスだった。政府部内で検討が始まった。問題はビンラディンがテロに直接関与している決定的な証拠が見つからないことだった。それでもビンラディンをアメリカ国内で裁判にかけることができるのか。クリントン政権の上層部で協議が続いた。
ティモシー・カーネイ、「わが国の政府から私に訓令がありました。ビンラディンを裁く法的根拠がない以上、アメリカ国内の裁判で裁くことは不可能だ。したがってアメリカ政府がビンラディンの身柄を引き受けることはできない。スーダン政府はビンラディンを追放するというのだから行きたいところへ行かせればよい。これが政府の判断でした」。
法と自由を重んじるアメリカでは、ビンラディンを国内で裁判にかける訳には行かない。これがクリントン政権の結論でもあり、限界でもあった。
モハメド・ターハ、「アメリカはスーダンを公正な国家とは見なしていなかった。我々がいくら和平を望んでも、アメリカがかたくなに対応を変えようとしなかった。結局、事態は解決しなかった。ビンラディンを国外に追い出してしまうより、我々の目が届くスーダン国内にとどめて、経済活動をさせる方がアメリカの為でもあると説得したのです。ビンラディンがスーダンにいればその動向を把握できたのですから。しかし、アメリカ政府は拒否した。そしてビンラディンはこのスーダンを出ていってしまったのです」。
アメリカ大使・カーネイのもとに外相ターハからFAXが届いた。1996年5月20日のことである。オサマ・ビンラディンは仲間とともにスーダンから出国したと記されていた。アメリカはやがて牙をむいて襲ってくることになる野獣を野に放ったのである。
アルカイダに関する極秘の情報がある裁判を通じて明らかになった。1998年に東アフリカで起きた米大使館 連続爆破事件だ。ケニアとタンザニアのアメリカ大使館が標的となった。被告席に立ったのは4人のアルカイダ工作員だ。数千ページにおよぶ裁判記録が残されている。ファイルの名は「アメリカ合衆国 対 オサマ・ビンラディン」。この裁判でアルカイダが関わった一連の無差別テロについて、詳細な手口が初めて明らかにされた。テロの標的はビンラディン自身が選んだこと。極秘裏に爆破計画を進めるため、慈善団体を隠れみのに使っていたこと。テロの実行犯たちの活動費は現地に企業を設置し、まかなっていたこと。アルカイダの指揮命令系統や資金調達ルートなど、重要な情報を工作員が証言した。アメリカの捜査当局は、アルカイダ特有のテロ工作の手口について第1級の情報を手に入れた。しかし同時多発テロを防ぐ有効な対策をとることはできなかった。
アフリカの美しい港町、ケニアのモンバサ。アメリカを標的としたテロ計画がインド洋を望むこの街から動き出した。1994年、ひとりの男がこの街に住み着き、魚の卸業を始めた。名前はモハマド・オディ。実は眠れるテロリスト、スリーパーだったのである。オディはソマリアのアメリカ軍攻撃にも関わったとされるアルカイダの工作員だった。ソマリア事件の後、ここに移り住み、新たな指令を待っていた。そのオディが動き出す。モンバサから首都ナイロビに延びる幹線道路。赤道直下、この道をたどってテロリストは目的地へと向かった。
巨大な高原に開けた200万人都市ナイロビ。オディたちアルカイダの工作員が集まっていた。静かな住宅街の建物が秘密基地となった。「ヘルプ・アフリカ・ピープル」。貧しいアフリカの人たちのための人道支援団体が隠れみのだった。
近くの住民、「人が出たり入ったりしていたけど、何をやっていたかは知らないな」。
秘密基地に新たにひとりの男が送り込まれた。アリ・モハマド。80年代アメリカ軍に在籍し、情報収集や攻撃方法に長けていた。テロ計画立案のプロである。標的に何を選ぶのか。アメリカ大使館、イギリス、フランス、イスラエルの大使館。モハマドはそのひとつひとつに足を運んで写真に撮り、警備の様子や突入のルートを克明にメモしていた。そして極秘ファイルを抱えたモハマドはビンラディンのもとに向かった。作戦会議ではビンラディンをはじめ、アルカイダの幹部たちがモハマドを囲んだ。標的を選んだのはビンラディンだった。アメリカ大使館の写真を指さしてこうつぶやいた。「自爆するならトラックはどの方角から突入すればよいのか」。できるだけ多くの死者を出す。こうした攻撃方法はこの作戦から採用された。大使館のビルには現地の市民も数多く働いている。ジハードの為なら市民を巻き添えにしても構わない。アルカイダは大量無差別の自爆テロへと踏み出していったのである。
1998年 ナイロビ。作戦会議から3年が過ぎた1998年6月、ナイロビ国際空港にはビンラディンが放った自爆犯が次々と潜入をはかっていた。モハメド・アルオワリ。アフガニスタンの軍事キャンプで2年間におよぶ訓練で殉教者になりたいとみずから申し出たサウジアラビア人である。ナイロビの中心部にあるアラブ人街のさびれたホテルが実行犯たちの集合場所となった。ヒルトップ・ホテル。A107号室とB102号室。犯行グループはここで起爆装置を組み立てる。
ホテル従業員、「まさかテロリストだなんて、彼らとは少し話しをしただけなんです。確かイエメンから来たと言っていました。怪しげなところは特にはなかったです。彼らは5人のグループで、ひとりはスワヒリ語を巧みに話していました」。
犯行グループは日本製のトラックを購入。後部を改造して数千キロのTNT爆弾、シリンダータンク、バッテリ、起爆装置を取付けた。荷台には肥料や砂を入れた袋を積み、周到な偽装工作を施した。
1998年8月1日、新たな指令が届く。実行グループを除くすべての工作員は5日以内にケニアから脱出せよ。計画実行が秒読み段階に入り、ビンラディンは実行犯以外をアフガニスタンに呼び戻した。最初に潜入してテロ工作を始めたオディは、衣料品店に駆け込み新しい服を買い込んだ。アルカイダの首領・ビンラディンに会うため、身だしなみを整えたいと思ったからである。指令通り、工作員たちは6日までに全てがケニアを出国。
翌7日午前9時30分、爆弾を積んだトラックが走り出した。助手席には手榴弾と拳銃を持ったアルオワリがいた。運転席にはもうひとりの自爆犯。午前10時頃、トラックがアメリカ大使館の裏手にそっと駐車した。アルオワリがトラックから飛び降り、大使館の警備員に手榴弾を投げつけた。その直後、運転席の男がアクセルを踏み込む。高原の首都ナイロビは一瞬にして地獄と化した。ほぼ同時刻、隣国タンザニアのダルエスサラームでもアメリカ大使館近くで爆弾テロが発生。ふたつの事件で233人が死亡し、負傷者は4000人を超えた。
吹き飛んだナイロビのアメリカ大使館の前にアルオワリがたたずんでいた。手はずでは警備員に手榴弾を投げつけた後、自爆することになっていた。しかし、トラックに乗り込んだあたりから、恐怖にとりつかれた。アルオワリは走って逃げた。爆発の衝撃で顔と手、そして背中に深い傷を負っていた。痛みが治まらず駆け込んだナイロビ病院。ここから足がつく。アルオワリが病院で捨てた銃弾を従業員が見つけ、警察に連絡したのである。ケニアの警察はアルオワリを逮捕し、アメリカに身柄を引き渡した。犯行直前、ケニアを出国したモハマド・オディもアフガニスタンに逃れる途中、逮捕された。
ふたりはFBIに対し、事件の全容を詳細に告白した。アルカイダがアメリカを最大の敵として、大量無差別テロを企てていることはもはや疑いようもなかった。FBIはビンラディンとザワヒリに2500万ドルという巨額の懸賞金を掛け、行方を追った。しかし、その時すでにアメリカ大陸には別のスリーパーたちが上陸し始めていたのである。
アルカイダ兵士が潜んでいたアフガニスタンの拠点に、一冊の本が残されていた。「聖地を占領するアメリカに対するジハード宣言」。著者はオサマ・ビンラディン。ビンラディンの名前で出されたファトワ、イスラム教徒に対する宣告文を集めたものだ。1998年2月付けファトワ。「民間人、軍人を問わず、アメリカ人を殺すことは全てのイスラム教徒にとっての義務である」。ファトワの内容は時を経るたびにより残忍で非人間的なものとなって行く。最初はアメリカの政府や軍の関係者だけを対象としていたテロが、次第に一般市民を巻き込むようになって行く。ジハード・聖なる闘いの名のもとに罪なき人々を殺戮の標的にしていった。テロ組織アルカイダは無差別大量テロへと暴走していった。
2000年、アルカイダの工作員たちがアメリカにひそかに忍び込んでいた。アメリカの心臓部を突くテロ作戦のために工作員たちが送り込まれたのはフロリダであった。ホフマン飛行機学校。フロリダによくあるパイロット養成学校のひとつである。ドイツから姿を消したモハマド・アタが自家用飛行機の操縦コースに入学していた。コンピュータ画面でのシミュレーションを繰り返す少人数での授業。やがて空を飛ぶ実習訓練へと移っていった。アタはベテラン教官によるマンツーマン指導を受けた。パイロットの資格を取るには250時間の飛行時間が求められる。アタは毎日操縦席に座り、黙々とカリキュラムをこなして行く。
校長 ルディ・デッカーズ、「アタはジョークひとつ言わなかったよ。話すことはとにかく飛行機のことだけさ。他の生徒みたいに女の子の話をすることもない。誰でも普通、試験には何度か失敗するものだけど、アタは全ての試験を1回でパスしたんだ」。
テロ実行のための資金は、フロリダ・サントラスト銀行に振り込まれた。飛行機学校の授業料、それに生活費を支えるため、3ヶ月で1400万円を超える資金が送り込まれてきた。テロ組織が高額な資金を動かせば、テロの計画を捜査当局につかまれる可能性は高い。アルカイダは中東最大の金融都市アラブ首長国連邦のドバイを利用した。ドバイにはテロ組織の息の掛かった企業が数多くの口座を持っている。金融当局の規制も緩く、中東独特の為替システムを使えば資金の送り主を隠すこともできた。おびただしい数の送金に紛れてアルカイダの資金ルートが捜査当局の注意を引くことはなかった。
飛行訓練を始めてから半年、アタはパイロットの免許を手にした。この頃からアタはアメリカとヨーロッパを頻繁に往復することになった。ヨーロッパのアルカイダメンバーと接触し、テロの作戦を固める為だったと見られている。
アタがヨーロッパとアメリカを行き来していた頃、アルカイダはアメリカを標的とするひとつの自爆テロを実行した。イエメンのアデン港に停泊していたアメリカ海軍の駆逐艦コールめがけて小型ボートが体当たりした。海からの自爆テロ。駆逐艦の船腹には10メートルの穴が開き、乗組員17人が死亡した。2000年10月12日のことであった(アメリカ軍駆逐艦爆破事件)。アメリカの情報当局は、事件の背後にオサマ・ビンラディンとアイマン・ザワヒリがいると見ていた。しかし、ふたりはアフガニスタンの奥深くに潜み、アメリカはその正確な所在をつかみあぐねていた。
翌2001年の1月10日、アタはヨーロッパからマイアミに戻って来た。このときアタは危うい目に遭った。半年前に取得したビザの期限が切れているのを入国審査官に指摘されたのだ。詳しい調べを受ければテロ組織に関わっている事実を突き止められてしまう。アタはあわてなかった。アタはこう答えた。「留学生ビザを申請中です。申請書類はここにあります」。審査官はパスポートに入国スタンプをおした。この直後、もうひとつの危険がアタを見舞った。駐車違反を摘発され、反則切符を切られてしまった。支払いが遅れ、警察の不審者リストに載れば組織そのものに捜査の手がおよぶ恐れがあった。アタはすかさず罰金30ドルを払った。
2001年6月、アタはフロリダのハムレットという高級別荘地に引っ越した。全体が高い塀に守られ、24時間の監視体制が敷かれている。住民の許可なく地域に入ることはできない。アタが契約したのは別荘地の片隅に建つ月額8万5千円の従業員向けのアパートだった。ダイニングキッチン、リビングルーム、そして寝室。家具付きのゆったりとした窓付きの部屋である。入居契約の日付は2001年6月13日。アタの同居人が署名した。マルワン・アルシェヒ。ドイツのハンブルクでも同じ部屋に住み、いつでもアタの影のように付き添ってきた。後にアタに続き、世界貿易センタービルに突入することになる工作員である。1LDKのアパートの一室で静かにテロの準備が進められた。決行の日まであと3ヶ月に迫っていた。
隣のアパートにネコ好きのアメリカ人女性が住んでいた。ナンシー・アダムス。彼女はごく気軽にふたりに声を掛けた。「変な人には見えなかったわ。いつもヒゲをきちんと剃っていて、清潔そうな感じだった。話しぶりもハキハキしていて、ふたりともよく見かける外国人ビジネスマンという感じだったわ」。
アタの部屋には数人の男がよく訪ねてくるようになった。世界貿易センタービルの北タワーに自爆することになるアタとアルシェフ。南タワーに突っ込んだアルシェヒ。ペンタゴンを襲ったアル・ハズム。ペンシルバニアに墜落した4機目のアル・ガブリとアル・ナム。後にハイジャックを決行する主要なメンバーがフロリダのアタのアパートに集結し始めていた。
8月13日、テロ決行まで29日。アタは真夏のラスベガスに姿を現した。夢と欲望に人々が心を奪われるこの街が、極秘の行動をカモフラージュできる。ホテル・ルクソール。ラスベガスでの会合に集まったのは全員がパイロットとしてハイジャック機の操縦桿を握ることになる工作員だった。アタはラスベガスでもうひとつ、サイバーゾーンという名のインターネットカフェを訪れている。韓国人が経営するこのカフェでアタは実名でEメールのアドレスを登録した。2時間に渡ってインターネットとEメールの画面に向き合うアタを店員が目撃している。
8月17日、テロ決行まで25日。緻密に運ばれていたテロ計画に思わぬ誤算が生じた。実行犯になるはずの男がFBIに逮捕される。ザカリアス・ムサウィ。ムサウィはパイロットの試験を受けるたびに失敗し、飛行機学校を転々としていた。
飛行機学校教官 ウォン・カルロス、「あいつは53時間も飛行訓練したのに一度も一人で操縦することができなかった。教官に聞いてごらんよ。問題があったと言うから。はっきり言って才能がなかったねぇ」。
ミネアポリスのパンナム航空でムサウィが吐いた一言。「着陸のことなんかどうでもいい。旋回の方法を教えてくれ」。学校側はその言葉に不信を抱き、直ちにFBIに通報した。FBIは滞在ビザが切れていたことを理由にムサウィの身柄を拘束し、捜査を始めた。ムサウィが大切に持ち歩いていたラップトップコンピュータにはアルカイダにつながる極秘情報が打ち込まれている可能性があった。ムサウィは所持品提出を拒み、アメリカには飛行機の操縦を学びに来ただけだと言い張った。FBIは捜索令状を裁判所に提出してパソコンを押収しようとした。しかし、裁判所から許可が下りたのは9月11日、同時多発テロの数時間後のことである(捜索令状の許可を裁判所が出す為には遅くとも数日あれば可能なはずである。同時多発テロが実行されるまでの25日間に渡って裁判所が捜索令状許可を出さなかったのは、アメリカ中枢部の意向が働いていたとしか考えられない。アタを初めとする同時多発テロ実行犯の動向はアメリカ中枢部に事前に把握されていたと思われる:ダイナモ)。
同じ頃、フランスの情報機関もムサウィの行方を追っていた。フランス当局のブラックリストにイスラム過激派のメンバーとしてムサウィの名前が載っていた。しかし、アメリカとフランスの捜査当局は互いに連絡を取ろうとはしなかった。アメリカは同時多発テロを阻む最後のチャンスを逃してしまったのである。
8月18日、テロ決行まで24日。フロリダ・ランタナ空港。アタはこの日、ふたりの仲間とともに最後の飛行訓練を終えた。テロ計画は最終段階に近づいていた。アメリカを憎み、市民殺害をイスラム教徒の義務だと言い放つオサマ・ビンラディン。遠い敵、アメリカへの突撃こそジハードだと説き続けるアイマン・ザワヒリ。このふたりの意を受けて実行犯たちはかつていかなる残虐なテロリストも試みたことのない同時・多発・無差別・自爆テロに突き進もうとしていた。
8月26日、テロ決行まで15日。パンサーという名のフロリダのモーテル。実行犯たちが集結を始めた。肩をあらわにした白い女性の絵にはバスタオルがかけられていた。掃除をしようと足を踏み入れた経営者夫婦は、その異様な光景に目を留めた。ここにアタが毎日のように男達を訪ねてきて経営者夫婦とも言葉を交わした。
オーナー夫人 ダイアン・スルマ、「私はこう声を掛けたのよ。宿泊者の数が増えていませんかって。するとアタはこう応えたの。私はすぐに引き上げます。心配しないで」。経営者夫婦は実行犯のうち、7人を記憶にとどめた。
ニューヨークの世界貿易センタービルに最初に突撃するアメリカン航空11便。そして2機目のユナイテッド航空175便。この2機をハイジャックする男達が顔を揃えていたのである。
9月9日、テロ決行まで2日。男達はモーテルをチェックアウトした。このとき男達は真新しいかばんをモーテル横のごみ箱に無造作に捨てていった。
オーナー リチャード・スルマ、「あれは日曜日だったかねぇ。彼らはまだ真新しい大きなかばんを捨てていったんだ。中にはたくさんの地図、ボーイング757-767型機のシミュレータマニュアル、ジェット機の燃料チェッカー、それにドイツ語の辞書。格闘技の本が3冊入っていたよ」。夫婦はかばんの中に入っていたものを手に取って見た。テロ計画の詳細を物語る証拠の数々。しかし、夫婦の目には重要なものとは映らず、ごみ箱に戻した。捜査の手掛かりを秘めた品々は街のごみ処理場に送られていった。
9月10日、テロ決行前夜。メイン州ポートランド。一拍80ドルのモーテル。世界を揺るがすことになるテロリストたちは最後の夜をここで過ごした。ありふれたピザ。これが最後の晩餐だった。午後8時41分、モーテル近くにある現金自動支払機の防犯カメラがアタの姿を捉えた。隣にはもう一人のハイジャック犯、アルオマリがいる。無表情なアタの横でアルオマリが笑っている。
2001年9月11日 ポートランド空港。午前5時45分、ふたりが監視カメラの前を通過する。最後に記録されたアタの映像である。ここからボストン空港へ向かう。午前7時過ぎ、ボストン発ロサンゼルス行きアメリカン航空11便、搭乗開始。アタはコックピットに近い通路側の8のDの席に着いた。乗員乗客は92人。座席の半分が埋まっていた。午前7時45分、定刻通り離陸。
ボストンを離陸して1時間。ハイジャックされた飛行機の前方にニューヨークが姿を現した。モハマド・アタ、33歳。建築家を目指した青年はテロ組織の指令に従って命を捨てようとしていた。オサマ・ビンラディン、43歳。かつてアフガンの英雄と呼ばれた義勇兵は残忍な手段でアメリカに闘いを挑みかけた。アイマン・ザワヒリ、50歳。無口で真面目に見えた医師は史上まれな無差別大量殺人を実行する思想を作り上げた。それぞれがジハード・聖なる闘いを掲げて破壊と破滅への道を突き進んでいた。国際テロ組織の増殖を阻止できなかったアメリカ。国内に忍び込んできた実行犯の動きを捉え切れなかったアメリカ。
2001年9月11日、午前8時45分。同時多発自爆テロは3000人の命を奪うことになった。
資料提供
AI-Majalla Ai-Jazeera AFP/AFPhan AFP時事 AP/WWP APTN Camera Press EVN Getty Images Hulton Pictures ITN National pictures Popperfoto Spiegel Reuters
NHK BS1 暴走するジハード(聖戦) 〜9・11テロはこうして起きた〜
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この番組で初めて知る事実も多い。特にアイマン・ザワヒリが残した文書「預言者の旗のもと 駆け抜ける騎馬武者たち」の記述内容、スーダンのバシル政権とクリントン政権の交渉経過、在ケニア米大使館連破事件の詳細なテロ実行内容など興味深い。
アタたち、ハイジャック実行犯が犯行前日にモーテルのごみ箱に捨てたかばんの中に、ボーイング757型機と767型機のシミュレータマニュアルがあったことは、彼らが操縦をマスターした飛行機が単発プロペラ機であっても、大型ジェット機の操縦が可能であったことをうかがわせる。
ドキュメンタリー番組としては、関係者へのインタビュー、特にアメリカ政府関係者へのインタビューがわずかしかない。インタビューを受ける人の層に厚みがなく、ドキュメンタリーとしての深みはそれほど感じられなかった。ドキュメンタリー番組は、制作者によって出来不出来がはっきりしている。ユーゴ内戦を、各国政府指導者から戦闘に加わった民兵組織まで、あらゆる階層の極めて多数の関係者へのインタビューによって、その発端から拡大、終結にいたるまでを5時間の長さで扱った某国のドキュメンタリーほどの完成度は無理としても、やはり踏み込みが足りない印象がぬぐえなかった。
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