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最高裁事務総局の実像に迫る 明治大学教授西川伸一氏の論文
2011年10月02日 :(世相を斬る あいば達也)
司法官僚―裁判所の権力者たち (岩波新書) 新藤 宗幸 岩波書店
日本のあらゆる裁判官の命運を握り、日本の司法を一定の方向に向けていると思われる最高裁事務総局についての、渾身の論文を見つけたので、解説なしに貼りつけておく。 2008年に書かれたものだが、今回の陸山会裁判において、法廷指揮経緯とは異なる奇怪な判決を導いた登石東京地裁裁判長に、何らかの影響を与えたのではないかと言われる最高裁事務総局の実態が事実をもとに分析されているので、一読の価値がある。
≪日本司法の支配構造0最高裁長官と東京高裁長官の経歴に着目する0 西川伸一『もうひとつの世界へ』第17号(2008年10月)8-13頁。
はじめに 司法部の頂点には最高裁長官がいることは言うまでもない。彼は三権の長の一人として、他の3人の長(立法部には衆院議長と参院議長がいるので)とともに国家的行事に列席する。たとえば、終戦記念日に行われる政府主催の全国戦没者追悼式には、最高裁長官も「追悼の辞」を述べる。 ただ、残念なことにテレビ中継には最高裁長官の出番までは映らない。国民が最高裁長官の肉声に接する機会はめったにない。国民が最高裁長官の存在を意識するのは、最高裁大法廷判決の際の頭撮りで長官の映像なり写真を目にするときであろう。
ちなみに、最高裁には長官を含む15人の裁判官が5人ずつ分属する三つの小法廷と15人全員で構成される大法廷がある。大法廷では長官が裁判長となる。 しかし、最高裁長官の仕事はこの2種類にとどまらない。長官は司法行政事務の最高責任者でもある。 全国に散らばる3200人もの裁判官ならびに2万人を超えるそれ以外の裁判所職員の人事や給与、約3304億円(2007年度)に及ぶ裁判所予算額の切り盛り、地裁だけでも本庁と支部をあわせて253ヵ所もある裁判所の施設管理など、裁判を裏で支える仕事を司法行政という。
日本国憲法により独立が保障された司法部は、裁判に伴うこのような庶務的な仕事も自前で行っている。 最高裁の司法行政事務について、裁判所法12条は次のように定める。
1 最高裁判所が司法行政事務を行うのは、裁判官会議の議によるものとし、最高裁判所長官が、これを総括する。
2 裁判官会議は、全員の裁判官でこれを組織し、最高裁判所長官が、その議長となる。 高裁、地家裁も同様に、それぞれ高裁長官、地家裁所長が各裁判官会議の議長を務め、めいめいの裁判所の司法行政事務に責任を負う。そして、司法行政事務を担当する部局として、最高裁には事務総局が、高裁と地家裁には事務局が置かれている。
実は、高裁長官も地家裁所長も裁判官でありながら、裁判実務には携わらない。司法行政事務に専念する。ところが、最高裁長官だけは、その双方で文字どおり「最高」の重責を担っている。 最高裁長官にはいかなる人物が就いてきたのであろうか。
1 歴代最高裁長官の経歴
歴代最高裁長官は表1のとおりである。最初の3人は最高裁裁判官になった当初から最高裁長官であった。横田正俊以降の13人は、弁護士出身の藤林と検察官出身の岡原を含めて、みな最高裁判事を経て長官に就任した。
*表1省略
最高裁裁判官15人の出身別構成は、裁判官6、弁護士4、検察官2、行政官1,外交官1、大学教授1が慣例化している(ただし、現在は行政官2、外交官0)。すなわち、最高裁裁判官のうち9人は裁判官の経験がなく、さらに3人は司法試験を経ていない。最高裁は法律の運用や解釈に最終判断を行うことから、狭い法律専門家的観点に縛られない識見をそこに反映させるため、というのがその理由である。 各枠に欠員が出れば同じ枠から後任が選ばれる。
たとえば、9月2日に定年退官した才口千晴最高裁判事は弁護士出身であった。その後任には、やはり弁護士の宮川光治が就いた。
この人的構成は最高裁発足時にまでさかのぼる。これを仕上げたのは当時の片山内閣であった。加えて、片山哲首相自身が三淵を初代長官に推した。三淵は大正時代にアントン・メンガーの『民法と無産階級』の邦訳に携わり、アジア太平洋戦争中は同じ弁護士だった片山と平和論で旧知の間柄であった。また、三淵は社会主義の立場から司法を研究した最初の日本人といわれる。
最高裁長官の定年は最高裁判事と同様に70歳である。そこから逆算して、次の長官の人選が進められる。憲法によれば、内閣の指名に基づいて天皇が任命する手はずになっている。だが実際には、現職の長官が14人の最高裁判事の中から最適任の候補者を首相に推薦し、内閣がこの推薦に従って指名する。戦没者追悼式のみならず、三権の長として首相と長官が同席する機会は多い。それらをとらえて、下交渉が行われるものと推測される。 最高裁裁判官の出身枠を考えれば、最高裁長官にはその比率に応じた就任者がいてもおかしくない。ところが、表1のとおり、裁判官枠からの着任が11人と圧倒的に多いのが現実である。9代の服部からは、すべて裁判官枠の最高裁判事が長官に就いている。 彼ら11人が最高裁判事になる前は全員が高裁長官であった。すでに指摘したように、高裁長官は管内の司法行政に専念し、法廷には出ない。さらに高裁長官就任に至る経歴をみると、これまたほぼ全員が最高裁事務総局の幹部ポストを経験している(表2参照)。
*表2省略
最高裁事務総局には、トップである事務総長の下に七つの局(民事局長と行政局長は兼務するので、局長は6人)と29の課が置かれている。事務総長、局長のすべて、および課長のうち21ポストは慣例的に裁判官が就くポストと決まっている。各高裁の事務局長ポストも裁判官が必ず座る。彼らは司法行政のみを担当し、法廷での裁判実務には一切携わらない。 表2をみると、村上だけが唯一事務総局幹部ポストを経験していない。しかし村上は、法務省民事局長、最高検公判部長などを歴任した、れっきとした司法行政のプロである。 司法部に君臨する最高裁長官は、最もすぐれた裁判官というより司法行政に精通した能吏である。その意味で、裁判官ではなく司法官僚が日本の司法を支配している。それでは、司法官僚はいかにして養成されるのか。
2 司法官僚の養成メカニズム
一口に裁判官と言っても、その中身は司法官僚グループと実務裁判官グループに分かれている。約1割の前者は司法行政専従ポストと裁判実務ポストを交互に歴任しながら、司法官僚としての出世の階段を昇っていく。
もちろん、裁判官に司法官僚という特別の採用枠があるわけではない。裁判官になるには等しく司法試験に合格し司法修習を終える。ただ、任官の時点で、東大・京大出身で年齢が若く、司法修習の成績が優秀で性格が素直な者は、事務総局人事局からすでに一目置かれている。 彼ら司法官僚候補の初任地は、東京地裁など大都市の地裁である場合が多い。
まず新任判事補として部に配属され、裁判長=部総括判事から勤務評定を受ける。それが良好であれば、2年後の初任あけで事務総局各局の局付になる。これは司法行政の見習いポストで、裁判現場とは無縁である。ここでも認められれば、晴れて司法官僚グループへの仲間入りが許される。 その後は、途中に裁判実務ポストをはさみながら、事務総局の課長、最高裁調査官、司法研修所の教官などエリートコースを突き進む。
判検交流といって、身分を裁判官から検察官に変えて、法務省民事局長や内閣法制局参事官など行政部の幹部ポストに就く場合もある。これも出世とみなされる。それだけに、実務裁判官には、裁判しない裁判官のほうが有能な裁判官だという逆立ちした感情が植え付けられる。
さて、司法官僚は司法行政で有能さを認められれば認められるほど、ますます司法行政ポストから離れられなくなる。その結果、裁判官でありながら、そのキャリアの半分以上を裁判せずに勤務することも例外的ではない。とりわけ、最高裁判事に上りつめる者にその傾向は顕著である。例えば、前長官の町田顕は任官から最高裁判事になるまで、裁判をしていたのは5250日なのに対して、裁判せず司法行政のみに従事していたのは8980日であった。
裁判実務から遠ざかり、事務総局の局長にまでたどり着いた栄達者のほとんどは、その後東京高裁管内の地家裁所長から高裁長官に至る。司法研修所長を経由する場合もある。そして、高裁長官の中から最高裁判事が生まれ、さらにそのうち一人が最高裁長官となる。 より詳細には、事務総局各局にも格付けがある。総務局、人事局、および経理局は官房事務部局とよばれ、各省庁の大臣官房に相当する。一方、民事局、刑事局、行政局、および家庭局は事件関係事務部局といわれ、各省庁の原局に対応する。 官房が原局に優越するのと同様に、官房事務部局は事件関係事務部局の上に位置づけられる。同じ局付、課長、局長でも、この両者のどちらかで重みが異なる。官房事務部局の局付と課長を経験した者は、出世のトップランナーと言える。また、表2のうち、日本国憲法の下で司法修習を受けた矢口洪一以降の長官をみると、6人中4人が官房事務部局の局長を経ている。
余談になるが、前長官の町田顕の後任は堀籠幸男最高裁判事とする新聞辞令が、2006年9月24日付朝刊に一斉に出た。堀籠は人事局長および事務総長を歴任していた。順当にいけば堀籠だったはずである。ところが、国民が刑事裁判に参加する裁判員制度の導入を目前に控えて、刑事局の課長や局長を歴任し、刑事司法行政に詳しい島田の起用となった。 島田は1938年11月22日生まれであるから、今年の11月21日に定年退官となる。後任の長官はだれになるのか。有資格者はもちろん裁判官枠の最高裁判 事であり、具体的には表3の5人である。
*表3省略
経歴的には泉と堀籠は申し分ないが、泉は2009年1月に定年となってしまうので、泉の芽はない。堀籠がなった場合も、2010年6月の定年まで在任期間は1年5ヵ月程度にすぎない。歴代長官で最短の任期は藤林の1年3ヵ月であるので、堀籠の可能性は残されている。 ただ、裁判官出身枠から就任した長官に限れば、三好の約2年が最短である。むしろ、3年以上在職できる涌井に分があるのではないか。今井は泉に次ぐ高齢であり、なおかつ官房事務部局長を経験していない。一番若い近藤は、今回は見送られるだろう。
3 東京高裁長官のおおきな地位
すでに述べたとおり、高裁長官→最高裁判事→最高裁長官が司法部の頂点部分の人事パターンである。司法行政は、全国に八つある高裁の管轄区域を単位として展開されている。たとえば、裁判官の異動も任官して10年の再任を経て判事になった後は、次第に高裁管内に限定されていく。最高裁判事は裁判実務のみを仕事とするので、高裁長官は最高裁長官に次ぐ司法行政上の地位となる。ゆえに、わが国司法の支配構造を考える上で決して無視できない。 裁判所法の上は、八つある高裁ポストに優劣はない。
しかし、裁判官の報酬等に関する法律が定める報酬月額には、「東京高裁長官」と「その他の高裁長官」 という区分がある。前者の報酬月額は144万8000円なのに対して、後者のそれは134万1000円である。報酬月額では、東京高裁長官はその他の長官より格上の扱いを受けている。こうした東京高裁長官の別格性は、各高裁が管轄する地家裁数・裁判官数に関係している(表4参照)。
*表4省略、注記省略
東京高裁管内の地家裁数は抜きんでている。しかも、それら地家裁に配属されている裁判官だけが、東京高裁の差配する裁判官ではない。最高裁調査官として働く裁判官、最高裁事務総局、司法研修所、および裁判所職員総合研修所に勤務する裁判官も、東京高裁、東京地裁、東京家裁のいずれかに籍を置いている。彼ら裁判しない裁判官を加えると、全国の裁判官の半分程度は東京高裁管内勤務になる。 司法行政の面では、東京高裁長官が彼らすべての上に立つ。なので、東京が他の高裁長官より一段上の処遇を受けるのはうなずける。 日本国憲法下で司法修習を受けた裁判官の中で、東京高裁長官の歴代就任者は表5のとおりである。
*表5省略
すなわち、歴代東京高裁長官は、全員が東大または京大出身者であり、一人を除いて全員が事務総局のポストを経験した司法官僚である。17人中12人が局付、課長、局長すべてに就いている。さらに5人はすべて官房事務部局のポストであった。 他の高裁長官と比べて、就任者全員が東大または京大出身者であるのは東京だけである。また、ほぼ全員が事務総局ポストを経ているのも、東京の顕著な特徴となっている。任官時から司法官僚として純粋培養された、裁判しない裁判官たちの殿堂といった趣がある。
表1に戻れば、裁判官枠の最高裁長官11人のうち8人が、最高裁入りする直前の職は東京高裁長官であった。また、表5のとおり、10人が東京高裁長官ののち最高裁判事になっている。 先述のとおり、全裁判官の5割は東京高裁管内に所属する。残る5割はうち2割が大阪高裁管内、さらに残る3割が他の6高裁管内に属している。従って、大阪高裁長官は東京高裁長官に次ぐ序列となる。就任者の出身大学や司法行政ポスト経験も東京に準じている。すでにそこから2名の最高裁長官が生まれている。 ちなみに、次の長官候補者の堀籠も涌井も大阪高裁長官から最高裁判事になっている。島田に続いて、大阪高裁長官経験者から最高裁長官が出る可能性が高い。
むすびにかえて
日本司法の支配構造は、全裁判官の約1割に当たる司法官僚が司法行政をてこにして、残りの実務裁判官を巧みに操るしくみになっている。最高裁長官とは司法官僚きっての出世頭であって、その予備軍が東京(大阪)高裁長官である。その地位に至るまで、彼らはほぼ同じ経歴を歩んでいる。
最高裁事務総局で局付から課長を経て局長へと、司法行政のプロとしての実績を積み上げるのである。 この人事パターンは制度化されている。それにより、司法官僚に代々にわたって特定の価値観が継承されていくと推測される。それは「行政優位」の伝統と要約できよう。
すなわち、庶務にすぎないはずの司法行政を現場の裁判実務より重要と考える、戦前の司法省にさかのぼる発想である。 旧憲法下では司法部の独立は認められておらず、司法行政に関しては行政官庁の司法省が担当していた。日本国憲法の施行により、もちろん制度的には司法行政は最高裁に移管された。
だが、人的には戦前の旧司法省官僚(裁判官)が最高裁事務総局(当初は事務局)に温存されることになった。のちの第5代最高裁長官・石田和外もその一人である。石田は最高裁発足にあたって、司法大臣官房人事課長から最高裁事務局人事課長に横滑りした。 彼ら旧司法省官僚が戦前の人事パターンを最高裁に受け継がせ、「行政優位」の価値観を扶植していったのである。
日本国憲法下で司法修習を受けたはずの矢口は、人事局長から事務総長の任にあった頃、実務裁判官たちを「度し難い愚か者ども」とさえ形容していた。矢口のこの本音は、戦前の価値観の継承をグロテスクなまでに示していよう。 言うまでもなく、戦前は天皇の裁判所であり官本位であった。戦後は国民本位の裁判所に姿を変えたはずだ。ところが現実には、国民にじかに接する実務裁判官は軽視され、いわば奥の院に陣取る権威的な司法官僚が幅をきかせてきた。
司法省の伝統を受け継ぐ司法官僚の意識は、司法部の独立を自覚するより、官としての同族意識という点で行政部と親和的である。その彼らが最高裁裁判官になるのであるから、最高裁判決が官僚的・行政寄りになるのは避けられまい。 官から国民へ主客を逆転させるポイントは、裁判所から「オカミ」意識をはぎとることであろう。国民の裁判参加はその突破口になると私は考えている。 (文中一部敬称略)≫(明治大学教授:西川伸一氏の論文より)
*改行等一部筆者にて変更しています。
記事元リンク:http://blog.goo.ne.jp/aibatatuya/e/8a5a33c2fd3d0ed965a2bdc00386704e
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