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投稿者 宮島鹿おやじ 日時 2011 年 6 月 26 日 17:55:53: NqHa.4ewCUAIk
 


<私の原爆体験>      

岩上氏「はい、みなさんこんばんわ。ジャーナリストの岩上安見です。私は今、名古屋にお邪魔しておりまして、名古屋大学名誉教授の沢田昭二先生のインタビューをこれからお願いしたいと思っております。先生、どうもよろしくお願いします。お時間いただきまして、本当にありがとうございました。しかも、いろいろと時間変更もしてしまいまして、大変申し訳ございませんでした。えー、先生はですね、放射線の影響ということについて日本で第一人者で、大変長い間ご研究されてきて、ご自身も、被曝経験があるということでですね、放射線の怖さということについては誰よりもよくご存知だろうと思います。」

沢田氏「必ずしもそうじゃないと思いますけど。」

岩上氏「いやいやいや、まあ、かつ、大変広い視野と、それから、歴史的なパースペクティブをもってですね、放射線の難しさ、怖さ、というものについて論じてこられたというふうに伺っております。先生のご体験も踏まえながら、今の福島第一原発の、この事故の後の放射線、影響、被曝の影響について我々にご解説いただきたいなと思っております。よろしくお願いいたします。」

岩上氏「あのー、最初からなんではあるんですけど、先ほど、インタビューがスタートする前、先生が子供の頃にですね、広島で被爆された、原爆が投下された時の体験を実は伺っていて大変ショッキングな経験をされているんだなということを、ちょっと言葉が詰まる思いでお聞きしていたんですけども。もう一度、ご覧になっている人のためにですね、先生のおそらく出発点である、原爆体験というものをお話しいただけるでしょうか。」

沢田氏「当時、中学2年生だったんですね。当時の中学校2年生は戦争に協力するということで軍需工場、私の場合は、機関銃の弾丸を作る工場に動員されていたんですね。ただその日は病気なものですから、そこにいくのをやめて自宅で眠っていたんです。で、その眠っているときに原爆が爆発したんですね。原爆のことをピカドン、ピカっと光って、あとドーンと爆風がやってくるんですけど。」

岩上氏「爆心地からどれくらい離れていたんですか。」

沢田氏「爆心地から1400メートル。」

岩上氏「近いですね。」

沢田氏「気がついたら潰れた家の下敷きになって気がついたわけですよね。で、寝ていたもんですから、何が起こったのかわからない。一生懸命もがいて私はつぶれた家の上から這い出すことができたわけですけど、這い出したときは潰れた屋根の上にたって、あたりは暗闇でした。なぜ暗闇かというと、広島市全体が破壊されていますから、ものすごい土ぼこりが舞い上がって、何百メートルと思いますが舞い上がってますから朝の太陽を遮って、その下は暗闇になっていたというわけです。でも、それがこげ茶色から茶色、黄色、そして白っぽくなって、サーっと遠くが見えるようになったんです。それでつぶれた家の上に立って、日ごろは、もうよその家の屋根しか見えないんですけど、一面、広島が潰れているのが見えるわけです。それでびっくりしました。で、大きな地震が起こったんだと最初思ったんですね。で、そう思っているときに、すぐ、私の足元で、私の名前を呼ぶ母の声がしたわけです。それで、どうなっているかと聞いたら、太い柱かなにかで足を挟まれて動けないというんですね。それで一生懸命、上に乗っているものをひっぱがしてとろうとしたんですけど、なかなかうまく出せないわけですね。で、そうしてやりながら、母親のほうが私にいろんなお説教をはじめたわけです。『自分はもういいからお前は早く逃げなさい』と言ってくれたんですけど、でも、そのころは軍国主義教育をずっとうけていましたから、天皇のために命を捧げるんだという、そういう教育を受けていましたから、命が大事だなんてこと思っていなかったんですけど、母親が生き残ることが大事だと、一生懸命、お説教をはじめました。でも、それでも、なかなか逃げる気にならなかったんですけど、で、最初は言わなかったんですけど、ピカっと光ったときには、いろいろなものに火がついていたんですね。今、ちょっと考えますと、いったん燃えるものに火がついていたんですけど、爆風でそういう炎はすべて吹き飛ばされていたんですね。そしてしばらく燻っていたわけです。で、燻っていたんですけどまた一斉に燃え始めました。で、気がついたら、自分の周辺は全部火事になっているわけですよね。でも、はじめはちょっと心配するからと母親にそれを言わなかったんですけど、だんだん火が強くなったのでそのことを母親に言ったら、『もう、火事になる前にお前は早く逃げなさい。』と言ってくれたんですけど、でも、なかなか逃げる気にならないで、何時間かがんばっていたんですが、よく記憶、時計がないからわからないですけど、もう、2〜3時間いたんではないかという気もするんですけど、とうとう火事嵐、一斉にまわりが(火の海ですね −岩上氏− )火の勢いが強くなってきて、これはなんともならないなと思ったときに母親が『いますぐ逃げなさい』と、で、彼女からはそういう火が見えないわけですね。潰れた家の下敷きになっているから、でも、そういう命令調で強く言ったもんですから『お母さん、ごめんなさい』と、言ってその場を逃げることを決意をしたんですけど、という体験を持っているんですね。」

岩上氏「辛い・・・体験ですよね・・・。周囲に助けてくれる大人というのはいらっしゃらなかったんでしょうか。」

沢田氏「ときどき、大人をつかまえてやってみたんですけど。これはもうだめだと言ってみんな逃げていってしまったわけですよね。」

岩上氏「お父さんは。・・・」

沢田氏「おやじはね、その朝出張して島根県のほうに行っていたんです。おやじは山の中のほうに入っていたもんですから、広島で原爆があったなんて全然知らなかったんですね。二日後になって知ったもんだから一生懸命帰ってきたわけですが、結局3日後に帰ってくることになったわけですけど、で、おやじが帰ってきたものですから一緒に、あ、いや、僕は山に、広島の市内が見える「うし山?」のてっぺんにずっといたわけですけど、山の上からずーっと燃える広島を眺めていたんですけど、あくる日も心配だから降りて近づこうとしたんですけど、熱くて近づけないんですよね。で、3日目にやっとおやじと一緒にそこに行ったらまだ、上の土を掘ると下に火がまだ残っていました。母親の骨を、ここにあるだろうなと思ったところにすぐに見つけましたけども、骨のすぐそばに磁器とか陶器とかあって触るとぽろっとすぐに壊れるわけですね。こんなすごい熱い中で母親は焼き殺されたんだなとそのとき感じましたけど。ということで骨を集めて持って帰りましたけど。」

岩上氏「・・・。あの、先生ご自身は、そのとき被曝をされているわけですよね。まあ、被曝の影響はいろいろな形で現れるのかもしれませんけど、こうやってお元気で過ごされている・・・、何か、やっぱり、心身に、身体に影響が出るということはなかったんでしょうか。」

沢田氏「まあ、当日病気で休んでいたわけですよね。だけど原爆のあと全然そんな病気なんか『ふっと』という状況になってしまって、それに爆心地から1400mですし、それから、あまり遠くに逃げる気にならなかったものですから、爆心地から1500mくらいのところの河原に夕方までずーっといました。で、後から自分が研究した結果から見ると、放射性降下物の量をかなり受けているはずなんですね。必ず被曝をしているということが自分の計算でもわかるんですけど、ところが、そういう放射線の影響がほとんど現れてないわけです。で、普通の人より元気だという感じで、だから、冗談ですけど、『お前は放射線を浴びたから元気になったんじゃないか』とか、そういうくらい、健康状態をずっと。で。これは放射線の影響は個人差がかなり大きい。」

岩上氏「個人差があるんですか・・・。」

沢田氏「と、いうことですね。で、これは、あとでちょっとお話ししようと思いますけど、被曝の影響、放射線の影響というのは個人差がすごく大きい、ということを意識しないといけないわけですね。」

岩上氏「たまたま先生はもともとの、いろいろな遺伝的な要素を含めて、被曝の影響が表に現れにくかった、けれども、人によっては、もし、その距離で被曝していれば大変な悪影響が出ていた可能性もある。決して、これも、先生のケースは典型的なケースで、みんな、広島ではないということですね。」

沢田氏「はい。僕の弟がその日学校に行っていたんですね。学校でほとんど同じ距離で被曝をしているんですけど、弟は体中傷だらけ、私は、運良く、赤ん坊が寝る「まくらがや?」の中に入って寝ていたんですけど、ガラス戸のすぐそばに寝ていたんですけど、その「まくらがや」が麻で作った「まくらがや」だったものですからガラスの破片が一ヶ所くらい目の下に刺さっていましたけど、ほとんど怪我をしなかったんですね。だからすごく幸運だったんですけど、弟は、三十何箇所怪我をしていましたけども。」

岩上氏「それは爆風の影響ですよね・・・。」

沢田氏「校舎が倒れて2階にいて、校舎と一緒に潰れたのですから、いろいろな大怪我をしていたのですが、それでも一人でちゃんと母親のふるさとまで逃げ帰っていましたけど。でも、体全体としては被曝の影響もあったとちょっと弱いなと思ってましたけど。でも65歳になって癌を発症して、癌で死んでしまいましたが、僕は被曝の影響だと思ってますけど、だけど、急性症状という形では、起こってないので、これは、だから、両親には感謝しなくてはいけないなというのは、それは、放射線の影響に弟も僕も比較的強かった、だけど、弟のほうは、放射線の影響だと僕は思いますけど、癌で死ぬことになりましたけど。」

岩上氏「同じような年頃のこども、同じような状況で被爆者の人たちにはもっと厳しい形で出られたケースもありますか。」

沢田氏「被曝した距離では多くの人が髪の毛が抜ける脱毛、そういう急性症状を皆発症しているわけですよね。だから・・・、」

岩上氏「先生はフサフサしていますよね。私のほうが抜けていますけど・・・。」

沢田氏「僕はずっと、そうですね。だから皆冗談で僕は放射線でかえってそうなったというくらいですけど。だから個人差が大きいということを考えなければいけないですね。」

岩上氏「そうですね。生き残った人、元気な人を基準にして判断していると大間違いをしてしまうということですね。あのう、こういう影響、原体験があって、研究の道に入られたんでしょうか。」

<研究者への道> 00:12:36

沢田氏「いや、そうじゃないです。子供の頃から理科とかそういうのが大好きで、だから原爆落ちる前にですね、『子供の科学』という雑誌を講読していたんですけど、国民学校の6年生のときに1943年なんですけど、その雑誌に小さな記事で、アメリカでは原子爆弾を作っているらしいという記事があったんですよ。それを読んでたわけですけど、実際、自分の上に落っこちたのがそれとは、その時はすぐには結びつかなかったんですけど。て、ことで、子供の頃から、科学をやりたいな、そういういろんな科学の本を読んだりしていたんですね。それで大学も物理学を研究することになったんですけど、もう、中学生の頃から『自然』という雑誌があったんですけど、そういう科学雑誌を自分で購読して一生懸命難しいのをわかってはいなかったんだと思いますけど、読んだりして、そうして、素粒子物理学の分野が興味があるということで、湯川英樹先生がノーベル賞もらったり、朝永先生がノーベル賞もらったり、そういうことも、そういう雑誌なんかで、先生が書かれた核物理学とか素粒子物理学の記事を読んだりしていたわけですね。で、大学に入って、大学でもそういう分野をやろうというふうに繋がっていったわけですね。僕の専門は放射線の影響ではなくて、素粒子物理学が専門なんです。で、素粒子物理学の研究分野というのはね、すごく民主的なんですよ。湯川先生や朝永先生や、・・・の坂田昌一先生というのが、第一人者というか一番最先端で研究を、1930年代からやられているわけですよね。で、戦争が終わった後、そういう素粒子論グループという研究分野を日本に作ったときに全国の研究者が対等に議論できるような、そういう研究グループを作ったわけです。京都大学の湯川先生がノーベル賞もらったということで、基礎物理学研究所というのが作られたわけです。普通、そういう大学に作った研究所は、大学のものというふうになっているのに、全国の研究者たちが、基礎物理学研究所を全国の研究者の共通のものにしていこう、ということで湯川先生もそれを納得して、そこの運営をやるのに、全国の研究者から選挙で選ばれた人たちが運営する、それから、私たちのように若い、まだ、大学院生だった頃にですね、も、選挙で選んで、そこの研究所のいろいろな研究計画をたてる研究部員会というのがあるんですけど、僕もそれに選ばれたりして、広島大学にいたんですけど、若手の代表として選ばれて、そしてそういう研究部員ですから一緒に湯川先生や朝永先生や坂田先生と議論できるわけですよね。どこの大学の大学院生とまったく区別しないで対等に議論してくださるわけです、という研究分野なんですね。と、いうことで若い頃から第一人者たちと一緒にやる、で、同時に、そういう先生方は核兵器をなくすということでも、すごく科学者としての取り組みをされたわけです。そういうことを大学院生の頃からお手伝いをする、ということができたわけですね。そして、一緒に、科学者京都会議を作られてその事務局などをやったり、それからラッセル・アインシュタイン宣言があって、それによってパグウォッシュ会議という世界中の科学者が集まって核兵器廃絶・・・。」

岩上氏「おそらくラッセル・アインシュタイン宣言というのがわからないと・・・。バートランド・ラッセルと、アインシュタインが一緒に書いた、宣言ですよね。それは、どういう内容で・・・。」

<原水爆禁止運動とラッセル・アインシュタイン宣言> 00:16:40

沢田氏「それはですね。1954年に、アメリカがビキニ島で水爆実験をやったんですね。その実験の結果を、日本はそれから原水爆禁止運動が起こって、国民的な規模で原水爆禁止運動が起こったんですね。ちょうど私も広島大学の学生だったんですけど、自分が体験した原爆よりも1000倍も破壊力が大きい水爆ができてしまったということに、凄く大きな衝撃を受けました。」

岩上氏「はぁ・・・。広島型原爆の1000倍の破壊力をビキニの一発の水爆で・・・。これは、大衆娯楽の世界で言うとビキニの影響でゴジラが誕生した話になるのですが、あのゴジラという物語はこの水爆の影響下で生まれた物語だと思いますけども、」

沢田氏「広島の原爆は、一瞬で、火薬を、一万五千トンの火薬を一気に爆発させる、一万五千トンというと大きな船いっぱいに積んでいるものを、一瞬で爆発させたというのが広島型原爆、だから15キロトンぐらい、というわけですけど、水爆の場合はメガトンですね。15メガトン。キロトンというのが1000トンですね。メガトンですから1000000倍なわけで、ということは広島原爆の1000倍の破壊力、だから船なんかに積むなんてとても考えられない、桁違いですよね。で、自分が今から専門にしようとしている物理学がとうとう水爆という、これをどんどん作っていったら人類は核戦争で絶滅してしまう、ということを考えたものですから、クラスの人たちと議論して、大学のいろんな学生自治会でも議論して、そして原水爆禁止広島学生協議会というのを組織したわけです。そして、僕はその実行委員長になったんですけど、署名運動とかいろいろな取り組みをしました。だけど、僕は何を主にやったかというとこれは今はとても考えられないと思うんですけど、広島市と広島県から、5000円ずつの助成金をもらって原水爆展の展示を作るということをやったんですね。要するに勉強しているわけだから、原爆の影響なんかの深刻さ、水爆の恐ろしさ、放射線の恐ろしさということを、一般の人たちに、自分たちで勉強して、伝える責任があると考えたわけですね。5000円というと当時の一ヶ月の給料なわけです。」

岩上氏「50万くらいの価値ですかね。」

沢田氏「ええ、そうですね。それを両方からもらったわけですから、まあ、百万円近いお金をもらった感じになるわけですね。40数枚の大きなパネルを作って、それを広島の平和公園で8月6日で展示したら、もう、黒山の人だかりで、まだ、広島の原爆資料館がない・・・。」

(若干中断 冷房温度設定変更)

沢田氏「それで、広島の平和公園で展示をやって、いろんな新聞社に協力して、新聞社のホールで展示をするとか。いまはJRですが当時は国鉄の労働組合が協力してくださって、中国地方、四国地方の都市を巡回するということをやってくださった。今の原水爆禁止運動の始まりなんですよ。」

岩上氏「今の空気とほんとにちょっと空気が違いますね。」

沢田氏「まあ、学生でちょっと生意気だったんだと思いますけど。」

岩上氏「ああ、いやいや、でも、学生の自主性を行政も認め、労働組合やその他の様々な機関が一緒に手を携えて、いったい我々の身に何が起きているのかということを自由に考える・・・。」

沢田氏「そういう時代。」

岩上氏「空気があったんですね。それは何年ごろなんですか。」

沢田氏「1954年頃です。」

岩上氏「まさに、ビキニの直後の話なんですね。」

沢田氏「国民的に大きな運動が起こった。行政も学生も一緒になってやる。当時そういう雰囲気があったんだと思います。」

岩上氏「まあ、なんというか、今は行政がそういうことをすることは考えられないですね。」

沢田氏「ちょっと考えにくいと思いますね。学生の意識も、国によってずいぶん違うと思いますけど、学生が一般社会の人たちにどういう、自分たちがやるかということを、そういう発想なかなかできないんじゃないかなと思うんですけど、その当時の学生はそういう意識、で、僕たちが最初に原爆展をつくったのかと思ったら、その2〜3年前に京都大学の学生が、やっぱり、すでに原爆展を作っていたということがわかるんですけど、という時代なんですよ。」

岩上氏「やはり、世の中が右と左に分かれていくとか、だんだん内向きになっていくとか左右もそれぞれ制度化していってしまうとか、それは60年代70年代にかけて起こってくることなんですが、80年代以降は完全に様式化してしまうんですが、それ以前の段階では、もっともっとなんというか、風通しのいいもの、その運動、どちらの立場にいようが、皆さん、まさに、黒山の人だかりですから、情報が不足していたというせいもあるんでしょうけど、目を皿のようにして見るという・・・。」

沢田氏「日本中、津々浦々といっていいほどの皆が関心をもってやりはじめたんですね。。日本国憲法というのができていましたけども、私は、この原水爆禁止運動が起こったということが、日本の国中、ずっと広い範囲で、こういう問題を自分の頭で考えていく、そういう民主主義とか平和とかそういうものがずっと日本国民に浸透するのが、この原水爆禁止運動だと思うんですね。それまで、憲法作るときに、大きな大衆運動があってできたわけではないですからね。大きな国民的運動が起きたのはこの原水爆禁止運動が初めてなんです。だから、1954年から始まった、この原水爆禁止運動というのは日本の国民が民主主義とか平和とか、そういうことを考える上ですごく大きな役割を果たしたなと、それがそのあとの安保条約の反対闘争にも繋がっていくわけですね。だけど、それをアメリカなんかは恐れたわけです。それでCIAとかいろんなものを使ってそれを何とか抑える工作を始めたのも、その頃からなわけです。」

岩上氏「そうですね。まさに54年ということは、その翌年に55年体制が出来上がる、その前夜ですよね。まあ、社会党の合同もあり、保守の合同もあり、保革が分かれていて、二つ両極になりながら、かつ、実は補い合っているという政治構造ができ上がる。」

沢田氏「原発の問題もそのころからちょうどスタートしているわけです。核兵器廃絶の運動の問題と原発の問題と、日本社会のそういう体制化していく、というのが、ちょうどその頃が一番大きな瀬戸際だったと思いますね。だからそのころ学生だったということが僕にとってもすごく大きな影響を与えたかなと思いますけど。だから、その後ずーっと原水爆禁止運動を今日まで続けてきているわけです。で、そういう日本国民的な運動が起こったもんですから、日本の科学者たちも一緒に運動したわけです。諸外国の科学者の運動というのは、必ずしも民衆と結びついた運動ではないんですけど、日本の科学者の場合は、そういう国民的大きな運動が起こっている中で一緒に取り組んできた、というのが特徴だと思いますよね。それで、放射線の影響が深刻だということがわかったものですから、日本政府に要求してビキニの周辺の太平洋の、特に、日本はその頃、魚でたんぱく質を補うということでしたから、魚が、持って帰るマグロが全部汚染されているということで、やっぱり汚染を、ちゃんと、調べなければいけないということで、政府に要求して俊鶻丸という調査船に科学者を沢山乗せて送ったわけですよね。そして、ビキニ海域がすごく汚染されている、という事実を掴んできたわけです。で、それを世界の科学者に伝えたわけです。そして、その伝えたことを聞いたのが、ラッセルだったわけです。ラッセルはイギリスのBBC放送の討論会の中でも、その深刻さをちゃんと彼は訴えて、もっとこれを世界中の科学者にもちゃんと共有しないといけないということでアインシュタインを説き伏せて、このまま水爆をどんどん開発していって、人類が核戦争で滅亡する可能性が出てきた、ということで、『ラッセル・アインシュタイン宣言』を出してくださったんですね。そして彼らの発想は、当時は米ソは、政府間は、水爆の開発競争をやっていて、お互いにどんどん険悪な状況になっていたわけですから、政府間で話し合うというそういう条件はなかったんです。だけど科学者なら、国際会議で物理なら物理の議論をしている。そういう条件がありますから、アメリカの科学者も、ソ連の科学者も世界中の科学者が集まって、この核兵器の問題を議論して欲しい。核兵器をなくす問題を議論してほしい。という訴えがラッセル・アインシュタイン宣言なんですね。で、その中にビキニ(げん?)で第五福竜丸が被曝したことなんかも全部その中に入っているわけです。と、いうことで日本の原水爆禁止運動があって、日本の科学者が汚染状況を調査して、その情報がラッセルに伝わったことが、ラッセル・アインシュタイン宣言に繋がっているわけです。で、そのラッセル・アインシュタイン宣言に答えて、科学者たちの集まりができたのが、1955年にラッセル・アインシュタイン宣言が発表されたんですけど、アメリカの科学者も、ソ連の科学者も、政府とは違う立場で会議を開こうとするわけですから、政府は旅費なんか出してくれないですよね。自分たちでやらなければいけない。でも、科学者はお金を持っていませんから、なかなか、会議を開けなかったんですけど、2年後にやっと、カナダの漁村のパグウォッシュというところの金持ちの別荘をお借りして会議を開いたのが、バグウォッシュという村があったものですから、『パグウォッシュ会議』という名前がついたんですね。それは今日までずっと続いているわけです。という経過なんですね。」

<ICRPについて> 00:28:00

岩上氏「先生はこういう時代背景と、そして原水禁運動に関わる中で、一学生としては、素粒子物理学を勉強されていった、で、こういう大きな事件も起こる、そんな中で放射線の影響というものは、当初は詳しく、その作用機序とかメカニズムとかわかってなかったんですよね。たとえば遺伝子にどのような影響があるとか、それは学問の発達と共にわかってきたんだろうと思うんですけど。」

沢田氏「DNAがわかったのが1960年なんですよね、DNAが2重螺旋構造を持っているというのは。それで、いろんな人間に対する放射線の影響も、そういうDNAなんかが損傷を受けて、それが細胞分裂したときに、それが、次の細胞にもちゃんと継承される。」

岩上氏「傷を受ける。螺旋というのは、鎖が切断されてしまうと、そういうことがだんだんわかってきたと、それ以前は、放射線の影響というものは非常に表面的なもの、たとえば火傷だけだとか。」

沢田氏「臨床的な。」

岩上氏「臨床的な・・・。」

沢田氏「だから、放射線の影響は深刻だとわかったのが、だんだん、1950頃からなんですね。それ以前も、だから、研究者たちがいろいろ研究しているんだけど、自分も、被曝をしているわけですよね。だから、キュリー夫人なんかは結局、白血病で亡くなる。実験やってて、自分が被曝をしているということに気がつかないで、やったためにそんなになっちゃったんですね。その辺の影響が深刻だと、だんだん、わかってきたのが1950年頃から、そして、DNAがはっきりわかったのが60年ですから、だから、50年というのはそういうことが、まだ、わかる前ですけど、放射線の影響は深刻だというのはわかっていて、広島・長崎の被爆者の研究が非常に重要な役割を果たしていたわけですけど。」

岩上氏「ここが非常に重要なところですね。今日お話を伺いたいところの大きな柱の一つだと思うんですけど、今、ICRPという団体、多くの一般の日本国民はよく知らなかった、そういう団体、そういう国際機関の基準が唯一絶対であるかのように、今、言われているんですね。そのICRPの基準によればこうだこうだと、ICRPが言っているものの解釈を巡って、たとえば1ミリシーベルトと、これは、基準範囲内だと、これを20ミリシーベルトにしたと、これはICRPのどこそこのこれによれば、などという話が、議論が展開されている。毎日のように統合会見というものが行われ、毎日のように我々もずーっと中継しているんですけど、そこで記者と政府のですね、細野さん、あるいは東電、保安院の方々との間のやりとり・問答・質疑というものも、このICRPの基準を巡って、どのように解釈するかという点に集中しがちなんですね。共有されている前提は、ICRPが唯一絶対の基準である、でも、どうも、そうでもないらしいという話を他の先生がたからも聞いている。このICRPというのは、もともと、マンハッタン計画がスタート点にあるということも・・・。」

沢田氏「1940年代の終わりごろに、それまであった委員会を改組して国際放射線防護委員会が作られたんですけど、特にアメリカも同じように全米放射線防護委員会を1940年代の最後に作ったんですよね。そして、もともとの狙いは、そういう放射線防護の問題をアメリカがイニシャティブをとってやろうとしたわけですけど、その全米放射線防護委員会も、国際放射線防護委員会も、パラレルにいろんな分科会を作ったわけです。そして、外部被曝の分科会、内部被曝の分科会といくつかの分科会を作って、そのアメリカの全米放射線防護委員会の委員長がそのまま国際放射線防護委員会の委員長を兼ねるとか、委員を兼ねるとか、重なり合っているわけですね。」

岩上氏「国際放射線防護委員会というのはICRPということですね。そして全米というのは・・・。」

沢田氏「ナショナルだから、N。 “I”は“N”に換えてやるだけだと思います。」

岩上氏「NCRPと・・・。」

沢田氏「はい、で、外部被曝のほうは、アメリカの研究した結果をそのまま、国際放射線防護委員会がそのまま見つめることになったんですけど、内部被曝の分科会のカール・モーガンという人が、委員長をやっていたんですけど、彼は放射線の研究の第一人者なんですけど。彼がやっている内部被曝の研究の結果は全部発表を禁止されたんです。これは、カール・モーガン自身が自分のやってきたことを本に書いていますけど、その中にかなり克明に書いていますけど、内部被曝の影響は禁止されたんです。それは結局、広島・長崎の被爆者の内部被曝の影響も考えない、ていうのは、核兵器を使うということによると、ピカっと光った瞬間の、これを『初期放射線』というんですが、一応、便宜的に、1分以内にやってきた放射線を、初期放射線といいますが、実質上はピカっと光った瞬間までに、ほとんど、被爆者を貫いているのが初期放射線です。これは距離と共に急速に減少するんわけですよね。広島の原爆の場合は、2kmから2.5kmくらいになると、ほとんどゼロになっちゃうんです。だけど、トルーマン大統領が、1947年に、ソ連も原爆を作るということになると、将来、核戦争を起こしたときに、自分たちの軍隊や相手側の軍隊に、どれだけ放射線の影響が起きるか調べなければいけない。というのがたぶん基本的な狙いだったと思うんですけど、その、影響を調べるためには広島・長崎の被爆者に、その初期放射線の影響を調べる。ですが、初期放射線の影響に絞ったのは、原子雲がずっと上がっていって、それが広がっていって、降りてきた放射性降下物の影響というのはすごく広い範囲。」

岩上氏「原子雲ですね。いわゆるきのこ雲」

沢田氏「すごく広い範囲に放射線の影響を与えるわけです。アメリカでも、ネバダの核実験場で実験したのがありまして、風下まで、ずーっと100km、200kmと、放射性物質が流れていくのを彼らは測定してわかっているわけですね。初期放射線だけに限定すれば、核兵器を使っても、その影響をせいぜい2kmくらいで限定できる。だけど、放射性降下物の影響は、内部被曝の影響ですけど、そういうこともちゃんと考慮に入れると、核兵器を使った影響というのはすごく広い範囲に広がる。そうすると、核兵器を使うということがすごく非人道的だ。これは国際人道法で、無限定で広い範囲に影響を与えるものは使ってはならない。ということで、核兵器はもろにそれにあたる。ということで世界中から非難を受ける。ということなものですから、そういう残量放射線の影響とか、すごい広い範囲で影響を与えるような降下物の影響は無視するとい基本法則を取ったわけです。で、日本を占領した直後から、アメリカのマンハッタン計画で人体影響を調べていた責任者、ファーレル准将というのが、『もう、広島・長崎では放射線によって苦しんでいる者はいない』という記者会見をやったりしたわけですね。それは、後に残るいろいろな影響とか、広い範囲の影響は無視するという基本法則を取ったわけです。

岩上氏「きわめてそれは、『科学的』ではない、『非科学的』な、『政治的』なプロパガンダ、かつ、軍事戦術的なプロパガンダだったわけですね。

沢田氏「で、広島・長崎にトルーマン大統領の命令で原爆障害調査委員会、ま、ABCCと言われているわけですけど、そこで、被爆者を対象に調べるということですけど、1950年に日本は、初めて国勢調査をやって、それで、被爆者かどうか、をチェックするのをやって、被爆者を掴んだんですね、日本政府は。だけどその被爆者のリストを、ABCCに全部渡してしまって、日本政府は、何も、被爆者に対する対策は何もとらなかった。ということは、その調査というのは、アメリカの要請で調査したんじゃないかなと思うんですね。で、ABCCに渡したんですけど、ABCCは、広島市に住んでいる被爆者と、長崎市に住んでいる被爆者を調査対象にするということで、『寿命調査集団』というのを作ったわけです。そして、その被爆者の中から初期放射線の影響を引き出す、という研究を始めたわけです。そのためには、広い範囲で放射性降下物の影響を受けた人たちは被曝をしていない、で、近い距離で初期放射線の影響をうけた人の影響を引き出す、という研究をやったわけですね。ということで、結局、遠距離の被爆者は被曝をしていない、彼らの被曝影響は無視できる、という方針をとった。それは今日まで、1975年に日米共同運営になりました。」

<放射線影響研究所について>  00:38:06

岩上氏「これが、今の『放射線影響研究所』。『放影研』。」

沢田氏「はい、で、日米共同運営になったんですけど、結局、初期放射線の影響だけ明らかにする研究方針は変わらなかったんですね。

岩上氏「この75年の段階においても。まだ、50年代の占領下における、言ってみれば、日本に全く主権がないような状態、そういう状態で、しかも、米ソ冷戦が始まりかけていた時代の極めて軍事戦略上の要請から作られた政治プロパガンダ、それが1975年になっても引きずって、まるで、科学の装いを施して、放射性降下物の影響は無視できると、いう立場をとったわけですね。それ、今でもですか。

沢田氏「今でも、まだ、続いていますね。基本的には。

岩上氏「うーん(溜息)。なるほど。」

沢田氏「放射線影響研究所の、『降下物の影響は無視できる』という基本姿勢は変わっていないんです。それは、裁判をやると凄くよくわかるんですね。」

岩上氏「先生はあちらこちらでの、いわゆる原爆証明裁判、原告は被爆者、被爆者の方々が国に損害賠償請求等を求める、そうした裁判の、原告側に立つ、非常に数少ない学者のお一人ということで、いろんな法律家の方々からも、敬意の念をもって見られているわけですけども、そうした裁判の中でも、やはり、こういう放影研の姿勢というのは現れてくるのですか。出てくるという・・・。」

沢田氏「はい。実は私自身もですね、放射性降下物の影響は、すごく深刻だと気がついたのは、1990年代の終わり頃なんですよ。というのは、それまでは、放射性降下物の影響は少ない少ないと言われてきたわけですから、それをある程度信じていたわけです。」

岩上氏「ある意味、そういう意味では文学者の方が、鋭く直感的には言い当てていた。たとえば『黒い雨』のような・・・。」

沢田氏「いや、『黒い雨』というのは有名なんですが、それは、それほど深刻な影響を与えたとは必ずしも考えられていないんですね。要するに黒い雨が降った地域は、かなり、限定されている。で、その黒い雨も、実は、これまでの放射線影響研究所とか日本政府とか、なんかの、放射性降下物による影響は、雨が、黒い雨が降って、その黒い雨がもたらした放射性物質が、地面の中に残っていますよね。その地面の中に残っているのが台風なんかで流されてしまったんですが、それでも残っている。それで、地面の中に残っている放射性物質を引っ張り出して、そしてそこから出てきた放射線を計って、どれくらい影響があるかというのをやっているわけです。ですけど、これは、被爆者が、受けた影響からすると、もう、2桁、3桁も少ない。で、被爆者はどういう被曝をしたかというとですね、あと、わかったんですけど、放射性の雨よりも、放射性の微粒子、雨粒になったものじゃないもの、で被曝をしているというのがわかったわけです。それに気がついたのは1990年代の終わりに、原爆手帳をもらっている被爆者は、いろんな検診とかできるわけですけど、だけど、その被爆者が、放射線の影響で病気になったということを国が認定してくれれば、原爆症認定特別手当、その人の治療費だけじゃなくて、治療を取り巻くいろいろな生活費も含めて支援するというのがあるわけですね。だけど、それは、厚生労働大臣が認めないと認可されないわけです。だけど、その認定基準がだんだん厳しくなってきた。それで被爆者が裁判をするというのが1990年代の最後で相次いで起こって、長崎の被爆者の松谷英子さん、と、京都の小西健男さんという方が、裁判を10年くらい取り組んでいたんですけど、その最後の段階で、ピカっと光った段階でやってくる初期放射線が、遠距離では過小評価になっているんじゃないかということが、裁判で問題になったわけです。で、私は広島・長崎で測定しているグループに入れていただいて、彼らの測定結果を解析すると、遠距離で系統的に過小評価になっていることがわかったものですから、それを裁判で控訴審の段階でそれを出したんですね。それから、小西さんの場合は、地裁の段階で、はじめて裁判所の門をくぐって証人になるということをやったのが1990年代の終わりです。で、その、裁判は小西さんの場合は、高裁で勝訴して終わり、松谷さんのほうは最高裁まで行って勝訴したわけです。勝訴して全部勝ったわけですけど、でも、厚生労働省は、彼らの影響が何であったかを認めないわけです。そのとき松谷さんの証人になってくださった、渡辺千恵子さんという有名な被爆者がいるんですけど、彼女は2800mのところで被曝しているんですけど、髪の毛が抜けた。松谷英子さん自身も2450mで被曝したんですけど、髪の毛が抜けた。そのほかの沢山の証人になった人たちも、たくさん、その距離で脱毛しているわけです。初期放射線は2.5kmくらいしか届かないですから、そこのところを、実験率にあわせて過小評価を是正したとしても、説明できないわけです。それで、裁判には勝ったんですけど、その、彼女たちの髪の毛が抜けるということは、放射性降下物をおいて考えられない、ところが長崎では放射性降下物の影響というのは、東側の3kmくらい離れた西山地域しかない、というのが国の基準になっているわけですね。だけど、彼女たちが被曝したのは南側なわけです。と、すると長崎でも、南のほうでも放射性降下物の影響があった、けど、雨はあまり降っていない地域です。とすると、放射性の微粒子が充満してて、それを吸い込んで病気になったと考えざるをえない。」

岩上氏「大気中の微粒子ですね。」

沢田氏「で、アメリカのネバダの核実験なんかでは、黒い雨は降っていないわけです。乾燥した砂漠では、雨粒が小さいですから、10数分くらい上空に上がるんですけど、消えちゃうわけです。後は全部、風下に遺伝子、放射性微粒子、目に見えない微粒子として風下に流れていくんですけど、それは実験ですから予め測定装置を置いていて、どれだけやってきたかというのを測定しているわけです。で、日本で、広島・長崎で原爆を投下されても、そういう微粒子は当然できるわけですよね。と、考えますと、結局、原爆が爆発して、火の玉というのができるわけです。すごく小さな太陽、だけどその中央部分に核分裂でできた放射性の微粒子が大量にたまっているわけです。それが上空に上がっていくと冷えて、それが周りの大気の中から水分を付着させて、水滴ができるわけです。水滴ができるから原子雲として認識できるわけですね。だから、原子雲を作った一番元になるものは原爆が核分裂してつくられた放射線の微粒子なんです。真ん中の部分は凄い勢いで上空に上がっていきまして、もう、10分もしない間に、1万数千メートルの高さまで上がっていくわけです。そうすると急速に上がっていきますから、水滴が急速に成長します。すると重くなりますから落ちてくるわけですね。これが『黒い雨』なんです。ところがですね、対流圏というのがだいたい1万メートルくらいの高さで対流圏が終わって、そこから先は成層圏になるのですね。そうすると温度が逆に上がったりするくらいで、上昇する勢いがないわけです。だけど、下のほうからものすごい勢いで押されますから、横に広がらざるを得ないんですね。(手を横に広げるポーズ)とくに長崎のはスケッチがあってわかるんですけど、30分もたたないうちに20kmくらい水平にわーっと、円形に広がっているわけですです。原子雲が。そこら辺の水滴は小さいですから、下に落ちてくる途中で蒸発して、また、元の放射性微粒子に戻っているわけです。」

岩上氏「あ、そういうメカニズムなんですか。雨雲になったのとはまた別途微粒子が存在するのではなく、いったん上昇し水滴を帯びて、黒い雨の元となって、だけれども、遠くに広がっていって・・・(手を横に広げるポーズ)」

沢田氏「(手を横に広げながら)それは水滴が小さいですから落ちてくる途中で蒸発してしまう。これは長崎でも沢山証言がありまして、『真っ黒い空に、真っ赤な太陽が動いていた』『火の玉』で、『怖いから逃げたんだけどついてきた』と、そういう証言がたくさんあります。『真っ黒い空』というのは放射性微粒子が大気の中に充満していたから真っ黒になって見えたのです。だけど、被爆者は雨のほうは気がつきますけどそういう微粒子は気がつかないから、呼吸なんかで取り込んでいるけど、被爆者はそういうの取り込んだのを全然意識していないわけです。ですけど、葉っぱの上に白い粉があったとか、いろいろ水とか飲んでいるんだけど気がつかない。ときどき、そういう煤がくっついて、目に見えるくらいの黒い煤になって降ってきた、だから、『黒い雪』が降ってきた、という証言もあるわけです。ということで、放射性微粒子が充満していたというのは物理的に考えて当然なわけです。で、それを被爆者は吸い込んだんですけど、風で流されていって後で計れないわけですよね。雨のほうは、雨粒に含まれていたものが地面の中に染み込んで残ったものを計るわけですよね、だけど、大部分は、大気中に充満していたものが風で流されていって、見えなくなっているわけです。」

岩上氏「たとえば地表に落ちた、そうした微粒子、放射性物質というものは、地表に、表土に降り積もっているから、これは測定可能なんじゃないですか。」

沢田氏「しばらくは、あったと思うんです。・・・は2度も、枕崎台風とか、大きな台風で大洪水で流されてしまった。長崎も流されてしまって、流された後は、いろいろな放射線による病気は急速に起こらなくなったというのをお医者さんが証言しています。『長崎の鐘』というアニメがありますけど、これに秋月さんというお医者さんが出てきますけど、彼も、台風なんかがやってきて、雨が降った後は、そういう急性のいろいろな症状は起こらなくなった、と証言されてます。環境でいうと流された。当初は広島・長崎は、もう何十年も人が住めない、と、いわれていたわけですよね。だけど、幸い、そうやって流されたものだから、被曝影響は少なくて済んだ。」

岩上氏「なるほど。この台風が来て雨で流されたということは、二つの側面があって、良い方の側面としては、そこに暮らしている人にとっては、表土に降り積もった放射性物質を流すことによって、ずーっと地表から放射線の影響を受ける、ということが少なくなった、なので、被曝の程度は軽くなった、それは良いことなんだけども、まあ、悪しき面といいますかね、裏面としては、先ほど言った、アメリカの調査、アメリカの思惑を持った調査によれば、その、この内部被曝の元にもなるんでしょうし、また、その後の、残留放射の影響というものを軽く見積もる、一つの科学的、まあ、カッコ科学なんでしょうけど、的根拠になってしまったという、実際には本当は濃厚に残っていたかもしれないものが流されたあとの数値をベースに研究が積まれたために、こうした残留放射線の影響が軽く見積もられてしまったという、こういうことになるわけですね。」

沢田氏「で、それで私はどういう方法をやったかというと、急性症状、被曝すると起こるわけですね。そういう急性症状がどれくらい起こったかという調査がもう沢山あるんです。本当は日本の放射線影響研究者たちはそういう急性症状の発症率から逆算して放射性降下物の影響なんかを調べる必要があったと思うんですけど、だけど、不思議なことに誰もそういう研究をやってこなかった。さきほどの放射線影響研究所なんかが、放射性降下物の影響は少ないと、無視できると言って来たわけですね。だから、そういうところで育った研究者たち、そういうところで影響された研究者たちが日本の放射線影響学会の中の大部分なわけです。」

岩上氏「そういうところ出身の人たちというのは、まあ学会でいうと何学会というのですか。」

沢田氏「放射線影響学会です。」

岩上氏「放射線影響学会。なるほど。」

 

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