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http://fusenmei.cocolog-nifty.com/top/2012/01/post-4a15.html
2012/01/14
まずは植草一秀氏のエントリーで紹介されていた動画をご覧いただきたい。
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-6ddc.html
国会 野田佳彦 ノー原稿討論 内閣不信任案 (2/2)
http://fusenmei.cocolog-nifty.com/top/2012/01/post-4a15.html
(注)この動画の2分25秒から4分25秒の部分をじっくりと見ていただきたい。
野田改造“増税一直線”内閣が発足した。
私の感想はただ一つ、この政権は2009年の政権交代の意義を叩き潰す霞が関独裁の総仕上げ、到達点だなということだった。
私の考えでは、長らく自民党とタッグを組んできた霞が関独裁は、ある時期から「政権交代止むなし」と考えるようになった。といって、その政権がコントロール不能であっては困る。そこで、民主党内に第二自民党勢力を育てることにした。
それはそれでうまくいったが、彼らは自民党の手錬れ議員とは比較にならないほど“お子ちゃま”で、前原なんぞは偽メール事件で大ズッコケしてしまった。
まあ、民主党がズッコケたままであれば自民党政権が続くわけだから問題ないのだが、ここで小沢一郎が登場して代表に就任、民主党をまたたく間に立て直す。
これに驚愕したのが、霞が関独裁を中心とした既得権益勢力だ(もちろんマスメディアもそのコアメンバー)。
民主の“お子ちゃま”たちが主導する政権交代であれば、赤子の手をひねるようなもので、それこそかつての自民党よりもコントロールしやすいが、小沢は違う。
なにしろ、自民党にいれば確実に総理大臣になれたにもかかわらず(というかその前の時点でチャンスがあった)、既得権益勢力に担がれることを潔しとせずに野に下ったのである。
そして紆余曲折の末、民主党に合流、政権交代を目指して打ち出したキャッチフレーズが「国民の生活が第一」。
かつて田中康夫が長野県知事時代に「官は民のパブリックサーバントでなければならない」と演説して県職員の反発を食らったが、およそ官僚というのは国民の生活など知ったことではない(その象徴が現在の福島県であろう)。
そういう連中から見ると、小沢一郎というのは第一級の危険思想の持ち主であり、たとえ民主党が政権をとったとしても、なんとしても小沢総理だけは避けたい。
そうして2009年3月、まさに政権交代を賭けた衆議院選挙の直前に浮上したのが、小沢の「政治とカネ」に関する(ねつ造)疑惑であった。
ま、ここらあたりをクドクドと書いても仕方がないので端折ると、結果として小沢は民主党代表の座を下り、総理大臣の座は鳩山→菅→野田の順となる。。
この間、小沢を幹事長に起用した鳩山は普天間で激しいバッシング(メディア・ファシズム)を受け辞任。あとはもう、小沢から離れることだけがテーマであるかのごとくマスメディアが風を吹かせ、「国民の生活が第一」どころか消費税増税路線をひた走る。
そして、今回の改造内閣。
「国民の生活が第一」を実現するべく小沢一郎が目指した「政治主導」は雲散霧消し、完璧に霞が関が権力を再掌握したと私は思う。それを実感したのが、法務大臣人事である。
今回法相に就任したのは小川敏夫。以下、東京新聞の記事を引用してみよう。
*****
死刑 執行再開の可能性
平岡秀夫法相が在任四カ月で退任し、後任の小川敏夫氏の動向が早くも注目を集めている。民主党政権では死刑反対の法相などが続き、死刑執行はこの一年半停止状態。前任者は死刑に慎重姿勢だったが、新法相は就任早々「しっかりと職責を果たしたい」と宣言、執行再開の可能性が出てきた。
国内の最後の死刑執行は死刑反対を公言していた千葉景子法相が一転して命令し、確定囚二人が執行されたが、後任の柳田稔氏、仙谷由人氏はともに約ニカ月で交代。続く江田五月氏は「(死刑には)より深い議論が必要」として約九カ月間の任期中、執行を見送った。
執行慎重派として知られた平岡氏も最後まで命令を出さず、昨年は一九九二年以来十九年ぶりに執行ゼロの一年に。確定死刑囚は戦後最多の百三十人に膨れ上がる事態となり、法務省幹部は「後任の法相は執行できる人が条件となっていたはず」とみる。(以下略)
*****
私は死刑という制度は霞が関独裁の根幹をなすものだと思う。というのも、死刑というのは法務行政(ひいては霞が関全体)の無謬性を前提としているからだ。
対して、たとえば亀井静香が死刑に反対するのは「自分は警察官僚だったからわかるが、冤罪が起きる可能性は否定できない」という理由だ。
私もそうだと思う。したがって死刑制度は廃止した方がいい(ちなみに私は終身刑論者であり、その方が犯罪の抑止になると思っている)。だが、現に死刑制度はある。
その場合、官僚の無謬性に疑問を投げかけ死刑執行を止めることができるのは政治家だけである。つまり死刑の執行停止は政治主導の象徴となりうるのだ。
が、これは霞が関の独裁権力者たちにとってはあってはならない、かつ我慢のならないことだろう。
私は菅政権で死刑反対論者だった千葉景子が法務大臣として死刑を執行した時、「千葉景子、死刑を執行 〜 霞が関の高笑いが聴こえる」というエントリーを書いた。
死刑反対論者だった千葉は霞が関に屈服したわけだが(というより、最初からその程度の思想の持ち主でしかなかった)、しかしその後、少なくとも死刑についてはそれなりに民主党政権は頑張っていた(まあ仙谷なんぞは臨時の法相だから評価できないが)。
ところが、それがここへきてついに崩れるのならば、それは霞が関独裁の正真正銘の完全復活であり、しかも自民党時代よりもさらに悪い、なんの歯止めもきかない恐るべき政権になるのだと思う。
ただし死刑の執行権を取り戻した(であろう)官僚が、唯一気になるのは、いわゆる陸山会裁判の行方だろう。
健全な法治国家のために声を上げる市民の会が1月12日に最高検察庁に提出した告発内容は、法務行政が無謬とはほど遠いどころか、恐るべきねつ造をする可能性を示唆している。
この告発の行方がどうなるかはわからないが、霞が関は今後、マスメディアを総動員して「たかが市民団体の告発とは関係なく、小沢一郎は悪である」という大キャンペーンを張ることで、この疑惑の払拭にかかるだろう。
と、こう考えるとはまだまだ霞が関独裁との闘いは終っていない。
「国民の生活が第一」を取り戻せるかどうかの、まさに正念場にさしかかっている。
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