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(前ふり)この投稿には反発される方が多いのですが、Kakasiは「案山子」「鹿驚」なので目障りでしょうが我慢してください。
投稿のきっかけは、この「阿修羅」掲示板に、日本共産党の機関誌「赤旗」の記事が目立ってきたのでそのHPを見たことです(検察批判ではなく小沢批判をしている!)。HP中に「綱領・古典教室」があり、今でもマルクスの古典が、共産党の理論的背景になっていたことに驚きました。日本共産党はすでにマルクス主義を卒業していると思っていたからです。これは党員にとっても日本の国民にとっても不幸なことです。
共産主義という理想をめざす政党があるのは問題ないのですが、その理念がマルクス主義に支配されているのは時代錯誤であり、ましてこれを科学的真理とみなすことは、人類にとっては知的怠慢に他ならないと思うのです。そればかりか21世紀の時代に19世紀の自由競争万能の市場原理主義(マルクス主義も結論は真逆ですが、自然経済法則優先の思想です)がまかり通ることは、地球上の生命と人類の持続的生存を脅かすことになると考えるからです。
(本論)前回「生産手段の社会化」だけで社会主義を論じることはできない、ということを述べました。マルクス主義は、生産手段の社会化が生産過程の社会的管理につながり、社会主義の実現の基礎が作られると考えています。しかし、以前にも指摘しているように、Kakasiたちの考えである剰余価値が交換過程(労働力商品の売買)から生じるのであれば、社会化にも契約関係の透明化が必要になります。社会主義社会は生産手段の社会化だけでなく、社会主義的契約が必要になるのです。そうでなければ理論的に考えて、管理・経営する党組織(前衛・官僚)の労働者支配が生じてくるのです。
このような見方は、資本主義市場の捉え方とも関わってきます。というのも、マルクスは市場の商品交換(等置)を「等価交換」と見なしましたが、これでは商品交換の多様性の問題点(非対称性=不等価性=格差性)を見逃すことになります。利潤を追求する資本主義市場では、商品交換の非対称性を利用することによって、他人の所有する価値(商品=富)からより多くの価値を取り出し、自己の財産(価値)を増大させようとします。だから、表面的には「等置(交換契約)」によって相互利益(互酬性、win win)が成立しているように見えても、労働者のように弱い立場の商品所有者は、交渉(取引契約)によっては、あからさまな損失(loss)を受けていることもあるのです。
マルクスを含む経済学者たちが、資本主義市場の不等価性(価値の不等移動性)を見逃すことは、同時に社会主義市場においても交換価値の不等価性を見逃すことになります。すなわち商品交換市場では、表面的・形式的に自由で平等とされる商品交換の等価性(合意・納得・互酬性)が、実質的には不平等・不公正な社会契約の可能性(現実性)になるのです。つまり、過剰な利益(損失・格差)の生じるようなリスクのある取引契約(特に労働力商品や金融商品、独占商品、貿易商品等)が、自己労働(犠牲)によるのではなく、他者を犠牲にして欺瞞的に成立できることが、利己的利潤追求を目的とする資本主義社会の活力源になっているのです。
だから、戦前のファシズムにおいて、資本主義と国家社会(全体)主義が反撥しながらも、しばしば結合して海外侵略や諸個人の自由を奪い抑圧することになったのは、商品交換という契約関係を、国家による形式的な自由平等で捉え、実質的には欺瞞的全体主義によって運用しているためなのです(独占資本主義)。全体主義は、今日のような大衆民主主義においても、欲望を拡大し営利を追求しようとするメディアの大衆支配という姿をとって現実のものとなるのです。
しかし、民主国家のあるべき「社会契約」は、単に人権保障を基本にした(分配的正義の実現を含む)国家との社会契約だけではなく、個人と個人の公正公平で互助的な交換関係――「実質的な等価関係」、利己的かつ利他的な「交換的正義」を市場的に実現する関係――を必要としているのです。なぜなら、今までの資本主義的社会契約は、人権の保障、権利の保護を国家に要求することが中心の社会契約でしたが、これからの社会契約は、国家や社会を構成し参加するものとしての「社会的責任」が、すべての構成員に求められるべきと考えるからです。
また社会契約の基本にある「財産権」は、社会的・法的に守られてこそ、その保全と拡大を保障されるのですが、それが一部の人間にのみ集中的に利益をもたらしてしまうということが問題なのです。私有財産は、国家・社会によって保全されているのだから、それ(私有財産の保全)に対して「社会的対価が払われてこそ社会的責任が果たされる」はずです。だから近代国家においては、その収入(所得・財産)に応じた社会的対価が税金によって徴収され、社会的責任が果たされているのです。
しかし、「交換的正義(不等価交換の是正)」を強調する我々の立場からは、商品交換(市場)を通じて得られる資本家優先の所得・財産について、不等価性を是正する道徳的要請(公正・公平性)を、社会的責任(交換的正義)に加えることが必要と考えます。具体的には、すべての個人の所得・財産の透明化と格差の是正を、課税を通じた再分配だけでなく、金銭と商品交換のあらゆる場面で行うことです。そのような動きは、前回紹介したように「国際標準化機構/社会的責任作業部会(ISO/SR)」のISO2600等で始められています。
今まで経済学において、「分配的正義」はアリストテレス以来、盛んに議論され、社会民主主義的福祉国家政策として実現されてきました。しかし、合意にもとづく売買契約を前提とする「交換的正義」については、十分配慮されてきませんでした。合法的な契約は、明白な詐欺でない限り正義であり、当事者の貧富の差や力関係、有利不利の売買条件は、偶然や交渉能力の違いであって、不正ではない(等価交換)と考えられてきたのです。
今回の結論としては、@社会主義は「生産手段の社会化(共有)」という「等価交換(労働価値説)」を前提とした「分配的正義」の実現だけでは不可能であり、A分配的正義だけでなく、市場経済の永遠性を前提に、不等価な交換関係を透明化し、公正・公平な「交換的正義」を不断に追求する「社会的責任」が要請される、ということになります。この考えは、単にマルクス主義的社会主義の批判だけでなく、今日の厚生経済学や福祉国家理論の限界を克服するためにも有効です。
今回理屈に片寄りました。次回は政治板にふさわしく、志位委員長の「綱領教室」第10回(1/10予定)を、表題のように述べる予定です。
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