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日本のパターンとサイクル
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3.11の東日本大震災は、日本にとってベルリンの壁のような出来事であった。この大災害を機に、戦後日本を支えていたシステムがもはや機能していないことが明らかになったからだ。これからこの国がどうなるのか非常に心配になってくる。
一方、日本は無規則に変化するわけではない。日本が変化する歴史的なパターンとサイクルのようなものが確実に存在している。今回もこのパターンにしたがってこの国は変化する可能性が高い。
日本のリーダーシップ
これまでのこのブログやメルマガでは、ジョージ・リンゼーのカルチャラルサイクル、CIA系シンクタンクのストラトフォーの内向と外向のサイクルなど、日本にはまつわるサイクルをいくつか紹介してきた。これらのサイクルは、サイクルの一般理論の適用や、日本の地政学的な条件に注目したサイクルであった。
こうしたサイクルの認識からは、日本は内発的に徐々に変化する社会ではなく、特定の出来事がきっかけとなり、180度まったく別な方向に突然と変化する社会であることが明白になった。鎖国した封建社会から近代国家へと転換した明治維新、それこそ一夜で軍国主義から民主主義の賛美へと転換した1945年などはその典型であるとされた。
他方、これらとはまったく異なる側面に注目しても同じようなパターンとサイクルが日本に存在することが分かる。それは日本のリーダーシップ、つまり日本の権力構造の特殊性という側面である。
上意下達は成立しない
普通権力構造というと、権力の中枢から組織全体に命令が伝達される上意下達の階層構造を指している。このため、政府であればどのような人物が大統領や首相になるかが決定的に重要になる。たとえばアメリカやフランス、そして韓国では大統領が変わると、経済政策から社会政策、そして外交政策まで含めたすべての政策が大きく変わってしまう。
アメリカでは、各国の大使を含め、各省庁の部長級以上の高級官僚は大統領の交代とともにすべて入れ替わるのが通例だ。現場の事務を担当するスタッフは残るが、幹部クラスの官僚は政権の交代とともに去る。
この結果、既得権益をむさぼる官僚層は存在しにくいくなる。大統領の政策の変更はすべての官僚に徹底され、官僚が政府の政策に抵抗する力を持つことはない。抵抗すれば、命令違反として職を失うのが原則だ。
既得権益を持つ集団のコンセンサスで決定
このように、意思決定が上意下達の階層的な秩序を通して行われる権力構造と比べると、日本のそれはこれとは大きく異なる特徴を持つ。
組織そのものは上意下達の意思決定のシステムでできているように一見見えるが、ほとんどそのようには機能していない。どの組織でも、中枢に近くなればなるほど、既得権益を持つ複数の集団が意思決定を独占し、実際の決定はこれらの集団の内輪の合意によるコンセンサスで行われる。
中枢にいる本来のリーダーの権限はとても弱い。既得権益を持つ集団の決定を覆す力はリーダーにはない。リーダーに期待される役割は、既得権益を持つ異なる集団の間のバランスと調整を取ることだけだ。この調整役に徹すれば徹するほど、リーダーのポストは既得権益を持つ集団によって保証される仕組みだ。
既得権益を損なう決定はなされない
このような特徴を持つ日本型の権力構造では、意思決定を独占している既得権益を持つ集団が、自分たちの権益を手放すような決定をするはずはない。その結果、どのような決定がなされても、理にかなった合理性には基づかない、ただ既得権益の維持を目的にしただけの決定が行われるのが常態化する。各省庁の「省益」などという言葉があるが、これこそ既得権益を持つ集団の存在をよく表している言葉だ。
国民の抵抗運動を背景に台頭する政治家
この日本型権力構造にはまり込んで抜け出せなくなっている典型が、日本政府である。政権がどのような方向に政策の舵を切ろうとも、実質的な権限を持った高級官僚層の既得権益に阻まれ、政策が実行されることはない。
もちろんこのようなことは、日本ほどではないが、他の先進国でも起こり得る。いわゆる官僚層ではないが、金融産業や軍事産業などの特定の利害集団の影響を強く受けた政権ができると、個々の政策はこうした集団の利害によって決定されるようになる。
そのようなとき、他の先進国で起こってくるのが国民による抗議運動である。そのような運動が拡大し盛り上がると、これを支持基盤にした政治家がかならずと言ってよいほど出現する。そして選挙で政権を交代させたり、議会の多数派となることで政策の決定的な変更を実現する。
オバマ大統領の草の根の支持運動の拡大、ティーパーティー運動、フランスの国民運動、ウォール街占拠運動、韓国の反FTA運動などはこうした国民運動の例だ。このように、韓国や台湾などを含めた多くの国々では、国民運動の盛り上がりがきっかけとなり、まったく対極にある政権に交代することは比較的に頻繁に起こる。これは国民運動が、特定の集団の利害関係を排除する役割を果たすということでもある。
日本でも国民の不満を背景にして、利害集団の既得権益を排除する動きがないわけではない。橋下大阪市長の運動や名古屋市の河村市長の運動はこうしたもののひとつだろう。
しかし、目に見える国民運動がめったに起こらない日本では、こうした政治家が諸外国ほどの勢いを持つことができないので、改革が長続きすることは少ない。橋下市長と河村市長の運動にはぜひとも期待したいが、国民運動が欠如した日本では諸外国にはない困難があることも事実である。
失敗した民主党の政治主導
政府の政策の意志決定過程を実質的に支配している官僚集団を排除し、政治家が主導権を握るために開始した改革が政治主導であった。そのようにして民主党は、国民に選ばれた政治家が政策の決定権を握り政策の実行を官僚に指令するという、他の国々では当たり前の本来の上意下達の権力構造を回復しようと試みた。このため政策の立案をすべて政治家の手で行い、官僚の関与を排除しようとした。
しかしその結果は失敗であった。官僚は政策立案の専門集団である。官僚から政策立案の権限を取り上げるためには、官僚に代って政策の立案を行う能力があるスタッフが政治家にはどうしても必要になる。こうしたスタッフを集めるためには、それなりの準備期間と時間がかかる。
民主党は十分な準備がないままに政権を握り、政治主導を実行した。この結果、たしかに官僚集団の関与は一時的には激減した。だが、十分なスタッフがいない状況でこれを行ったため、繁雑な事務作業も含め、政策の立案と実行に必要となるすべての作業を政治家自らが行うことになった。鳩山政権の頃の大臣や副大臣はこうした作業に忙殺され、本来の政治家の仕事がほとんどできない状況に追い込まれた。
次の菅政権の頃になると、このような状況にたまりかねた政治家は、実質的に政治主導を断念せざるを得なくなり、官僚集団の関与を認めるかつての状況に戻ってしまった。むしろこれで、政策の立案と実行が官僚集団にどれだけ依存しているかはっきりしたため、政治家の官僚集団に対する依存を深める結果にすらなった。
いまでは政治主導は実質的に骨抜きにされ、既得権益を持つ官僚支配は、逆に強化される方向に向かっている。
中心が空白の権力構造は日本のどの組織でも同じ
このように、中枢が既得権益を持つ集団に牛耳られ、すべての意思決定がこうした集団の利害のバランスで決定されるという構造は非常に強力である。意思決定を行う立場にいる本来のリーダーの権限はとても弱く、利害集団の決定を受け入れ、これのバランスと調整を取る役割を持つにしかすぎない。いわば日本の権力の中枢は空白なのである。
この構造はとても根深く、政治主導のようなスローガンだけでは簡単には改革できないものがある。それというのも、日本では会社だろうが、公益法人だろうが、また町内会だろうが、どの組織や団体でも基本的には同じ構造が支配しているからだ。
つまり、上意下達でリーダーの決定に一元的にしたがうのではなく、かかわっているメンバーの同意を事前に得て決定するコンセンサス主義である。たとえ組織の中心者と言えども、事前にコンセンサスが得られていない決定は抵抗が強く通らない。最終的にはどんな決定も、関与しているメンバーの利害の調整とバランスを優先させたかたちで行われる。
もちろん現場に近い末端の組織であればあるほど、コンセンサス主義はうまく機能することが多い。上意下達による命令ではなく、メンバーの事前の了解と同意を得ながら意思決定が行われるため、メンバー全員の主体的な協力を容易に得ることができるからだ。
これが工場などの生産現場で発揮されるとき、現場で製品の改良がどんどん進むため、消費者の好みの変化に迅速に対応できる商品開発が進む。これが日本の競争力の強さを支える要因のひとつでもあった。
しかし、同じ原理が組織の中枢で発揮されるとき、現場や末端とはまったく異なった結果となる。コンセンサス主義は、中枢が既得権益を持つ利害集団に独占され、調整役としてだけリーダーが存在するシステムに道を開くのだ。
強いリーダーシップは日本では育ちにくい
いずれにせよ、コンセンサス主義を原則とする日本では、上意下達式の突出した強いリーダーは好まれず、調整役としての役割がリーダーが求められる傾向が強い。
強いリーダーシップを発揮する上意下達式のリーダーが出現した場合でも、「ワンマン」、「独裁者」などとしてとことん叩かれ、ポストから引きずり落とされるのが落ちである。我々がコンセンサス主義に基づく秩序を好む限り、韓国のイ・ミョンバク大統領のようないわゆる強いリーダーはなかなか出現できない状況だ。
またそのような突出したリーダーシップは、たとえばかつてのオバマ大統領がそうであったように、強力な国民運動の支持を背景に出現することが多い。これがこうしたリーダーの支持基盤となる。
だが日本では、そうした国民運動も現れにくいので、これを背景にしたリーダーもやはり現れにくい状況だ。
日本のパターン、既得権からの排除と合理性
このように、意思決定の中枢が既得権益を持つ集団に牛耳られていると、こうした集団の利害と既得権の維持が最優先され、合理的な決定はないがしろにされてしまう。どんな不合理なことであっても、既得権の維持に利する限り、決定されてしまうのだ。これは、戦前と戦後にかかわりなく続く日本型システムの特徴のひとつである。
こうしたシステムでは、既得権益を持たない集団は意思決定過程から排除される。日本型の権力構造は、このような抵抗集団をいつも生み出すのが常であった。
排除された集団は、決定された内容には何の合理性もなく、既得権の維持だけが目的だとして中枢の集団を批判し攻撃する。つまり、合理性に訴えた批判を展開するわけである。「国民の利益がないがしろにされている」、「省益が国民の利益よりも優先されている」というような、いまよく耳にする批判はこうしたものの一例だ。日本の近・現代史のどの局面でも、既得権から排除され、その結果合理性を標榜して抵抗するこうした集団はいつも存在していた。
排除された集団に働きかける外国勢力
合理性を標榜する集団の論理は一見するとまったく正しい。彼らの既得権を持つ集団への攻撃は説得的だ。最近では、元高級官僚であった人々がマスコミに登場し、批判を行うのを目にすることが多い。
だがこうした集団の存在は、日本型の権力構造の弱点をも表してもいる。こうした集団に積極的にアプローチするのが外国の勢力、特にアメリカである。
1994年以来、日本政府に対する米国の要望書である「年次改革要望書」が送られており、その要望のかなり部分が政策として実現している。だがこれは、米国の圧力だけで実現したわけではないことがいまはよく知られている。「年次改革要望書」を強くし支持し、この実現に動いた日本の官僚層が存在していた。こうした集団こそ、合理性を根拠に既得権益をむさぼる集団を批判していたグループである。
米国はこうしたグループにうまく働きかけ、彼らを自分たちの側につかせる。一方、こうしたグループも、これまで実現が阻まれてきた自分たちの政策を、米国の圧力と力を借りて実現できる機会ができるため、米国と積極的に協力する。
こうしてさまざまな政策が実現する。だが結果的には、意図した政策をはるかに越えた制度改革を実行するはめになり、日本の制度の根幹部分が米国の国益に合致するように改革されてしまう。
特にこの20年近く、このようなことが繰り返されてきた。
合理性を標榜して既得権を厳しく批判するグループは貴重な存在ではある。他方、このような排除されたグループがいつも存在しているため、アメリカのような国外の勢力に利用される弱点を、作り出してきたこともたしかなのだ。
これが日本に存在する権力構造の力学、つまり歴史のパターンのひとつである。
日本の歴史のパターン、破滅と再生のサイクル
しかし、これが存在する唯一のパターンではない。この他に、日本型の権力構造にはさらに強力なパターンが存在しており、このパターンの作用よって日本の歴史を主導するあるサイクルが生まれる。それは、破滅と再生のサイクルである。
上意下達の命令系統に基づく強力なリーダーシップが存在できないことは、日本の制度が必要に応じた改革を内部から行うことが非常に難しいということを表している。現状に合わなくなった制度や政策を改革しようとしても、既得権益を握る集団が意思決定をコントローしているため、最終的には彼らの既得権に反する政策はすべて骨抜きにされうまく進まなくなってしまう。
このため日本では、現状に合わなくなった制度やシステムが長期間残存してしまう。だが、残存した制度やシステムはほとんどなんの機能も果たしていないどころか、こうしたものの存在は、新しい環境に組織が適応することを阻み、停滞させる大きな原因となる。この停滞のため、いわば日本は失われた20年を経過せざるを得なかったとも言える。
では制度やシステムが内部から改革できないとどうなるのだろうか?結果ははっきりしている。既得権益を持つ集団が権益の維持すらできない程度まで制度とシステムが疲弊してしまい、破綻する以外に道がなくなってしまうということだ。
この段階にまで至ってしまうと、制度とシステムの全面的な再設計が必要となる。再設計が行われる過程で、これまで既得権益をむさぼんでいた集団も一掃され、新しい出発点から日本は再度歩み出す。
この視点から1868年の明治維新や1945年の終戦などを見ると、これらの出来事は、日本の制度とシステムが実質的に破綻し、既得権益をむさぼる層が一掃され、制度とシステムがリセットされた転換点であったと見ることができる。
コンセンサス主義で組織が維持される日本では、制度や組織が徐々に内発的に改革されることはめったにない。なんらかの出来事をきっかけにして制度が破綻し、まったく新しいものに再生するというサイクルを繰り返す傾向にある。過去の歴史同様、今回の3.11も、まさにそのようなきっかけとなる出来事だ。
リセットと再生の時期は近いか?
昨年の東日本大震災は、日本にとってはまさにベルリンの壁の崩壊だった。壁の崩壊で、ベルリンの壁の内側に存在した東ドイツが、国として機能していないことがはっきりしたように、東日本大震災では、現在の政府やさまざまな組織が機能していないことがはっきりした。
おそらくまだ我々は、システムが破綻する過程のさなかにある。だがひとつのシステムの破綻は、再生への大いなる希望を見いだすきっかけとなることは間違いないだろう。
あと何年かかかるだろうが、その時期はすぐそこまで来ているのではないだろうか?破綻は希望でもあるのだ。
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