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運命に挑む!! 前衆議院議員・新党「大地」代表鈴木宗男
2010年12月6日朝、鈴木宗男氏(前衆議院議員)は法務省へ出頭する前に明治神宮に参拝し、無実の訴えが認められなかった無念の思いと同時に日本国家の安寧を祈念した。それから365日、奇しくも同じ12月6日の朝、鈴木氏は喜連川社会復帰促進センター(栃木県さくら市)の門を出た。刑期を約五ケ月残しての仮釈放である。
同日午後、参議院議員会館講堂で行われた「お帰りなさい会」では、小沢一郎元民主党幹事長、伊吹文明元自民党幹事長、鳩山由紀夫元首相、福島みずほ社民党党首、作家・佐藤優氏らが口々にねぎらいと無事の帰還を祝した。
興奮もさめやらぬ12月9日、鈴木氏に心境と今後の抱負をうかがった。
被災地から貰った勇気
── 鈴木氏が収監されているこの一年の間、日本は文字通り激動に見舞われた。
鈴木 社会的には3・11大震災、福島第一原発の事故という災害が起り、政治がこれに対応すべきなのに菅政権は適切な災害対策を打ち出せないままに倒れ、それを継いだ野田政権は国民的議論もないままにTPP、増税という国家の屋台骨に関わる政策を強行に推進しようとしている。
私は獄中で、こうした政治の不甲斐なさ、政治の不在ともいうべき状況を見聞きするにつけ、本当に歯がゆく、いてもたってもいられず、もどかしい思いだった。
だが、21歳で中川一郎先生の秘書として政治の世界に飛び込んで以来43年間、政治の現場で生きてきた私が強制的に政治の世界から身を引くことになり、そのために見えてきたこともある。まさに政治に対して「このままでいいのか」という思いを抱きながらも、その声が永田町には届かないという歯がゆい思いをされている全国の声なき声、寄る辺なく苦しんでいる人々と同じ境遇に身を置くことで、あらためて私は政治人生のスタートに立ち戻った。
3月11日14時46分、私は風呂場で体の不自由な高齢受刑者の方の入浴を手伝っていた。車椅子を押している時に地震が起き、喜連川でも揺れはすさまじいものだった。
私はとにかく車椅子を倒してはいけない、高齢者の方に怪我をさせてはいけないと思って踏ん張っていたのを鮮明に覚えている。
ラジオやテレビニュースで徐々に事態の深刻さが伝わり、被災者の皆さんの窮状を見るにつけ、すぐにでも駆けつけたい思いだったが、私は一歩も外に出ることはできない。せめて自分にできることをと思い、自分の着替え用の新しい靴下を五足、宅下げ(刑務所内の私物を面会者などに引き取ってもらうこと)して被災地に送ってもらった。これが私のできることの精一杯だった。同時に、新党「大地」のみなさんには被災地への支援、毛布の寄付などを呼びかけてもらった。
正直に言うと、3月11日までの私は、喜連川のあまりの寒さに参っていた。北海道足寄町で、吹雪が戸の隙間から入り込んでくるような家で育ったのだから、寒さなんか平気だと思っていたのだが、喜連川の底冷えする寒さは初めてで、気も滅入っていた。 ところが、被災地の方々のニュースを聞くにつけ、私は自分が甘えていたことを思い知らされた。寒さが何だ、自分は日本一安全な場所にいて、三食きちんと食べられて、寝る場所もあるじゃないか。被災地の皆さんはもっと寒い中、食料も十分でなく、雨風をしのぐ場所さえおぼつかないのに、じっと耐えているんだ。これで幸いだの寒いだの言うのは、被災地の方々に失礼じゃないか、と痛感した。
3月16日、天皇陛下のお言葉が流れたのを私は正座して聴いていた。陛下の被災地に寄り添う思い、そして「雄雄しい」と表現された被災地の方々を思い、私は涙を禁じえなかった。その日、私は就寝の時間まで正座して、日本の安寧を祈った。そうせずにはいられなかったのだ。
多くの日本国民が被災地を助けよう、勇気を与えようと行動しており、私は感動を覚えた。だが一方、私は被災民の方々に、むしろ勇気をもらっていた。苦難の中でも力強く生きる姿に、私は教えられたのだ。
疾風に物事を知る
── 毎日をどう過ごしていたか。
鈴木 私はこの一年を、天の配剤、天が与えた修練だと受け止めていた。毎日が「修行」であり、毎日が、万物への感謝の思いを新たにする日々だった。私は病棟で介護、食事の配膳、洗濯物、高齢者介助の仕事を与えられていた。他の刑務作業と違ってこれには土日の休みというものがない。だから毎日、与えられた仕事をきちんと丁寧にこなすことで日中はすぐに過ぎてゆく。
朝7時10分から11時30分まで、間に昼休みを挟んで12時30分から16時30分までが刑務作業だ。18時から21時まで房で自由時間が与えられるが、手紙のチェック、19時のNHKラジオニュースのチェック、そして手紙の返信と読書をするとあっという間に就寝時間となる。寝る直前に般若心経を唱えて、今日一日が無事に過ぎたことに感謝して就寝して、翌朝から同じことの繰り返しとなる。
収監中、比叡山の酒井雄哉大阿閣梨から自宅に一幅の書を頂いた。そこには「行」と書いてあった。一日一日、すべては行だ、修行だ。刑務所というのは好き好んで来られる場所じゃない、来たからには何かを掴んでから帰らなければ。確かに私は国策捜査で無実の罪に陥れられた。だが、それを恨むのではなく、二度とこのような被害者が出ないような国にしていくのが私の努めだ。真実を明らかにすべく私は囲っていく。日々の作業の中でそう考え、そう考えているうちにあっという間に一年が過ぎた。
人間は与えられた場所で、与えられた役目を一生懸命果たさなければならない。いかに苦しい境遇にあろうと、それは同じだ。むしろ、政治家は率先して山中鹿之助のように「我に救難辛苦を与えよ」と願うべきかも知れない。
獄中でよく思い出したのは西郷南洲翁のことだ。今でこそ上野公園に立っていらっしゃるが、かつては三度も流刑にあっており、最後は逆軍の将の汚名を着せられて自裁した。それに比べればわたしはまだまだ修行が足りない身だ。このような修行期間が与えられたのは、天がまだ私に「もう少し修行して、日本国家のお役に立て」と命じているのだと思う。
── 獄中で得たものとは何か。一言では言い表しきれないだろうが、いくつかお話いただきたい。
鈴木 大きく三つを挙げたい。一つ目は、信念を貫くということ。困難を乗り越えるのには、決してプレてはいけない。スジを通さなければならない。だが人間は一人ばっちではスジを通すのは難しい。心には常に支えが必要なのだ。
だから二つ目は、人間は一人では生きていけないということ。時に支え、時に叱咤激励してくれる家族、友人、仲間がいなければ人間は生きていけるものではない。私は幸い、家族、友人、仲間に恵まれた。そのありがたさを身に染みて感じた。
家族からは300通以上の手紙をもらった。まだ三歳の孫から「じじたん」と書かれた手紙を見たときは、涙もろいものだからぼろぼろと泣いてしまった。
12月6日に喜連川を出た時、妻も娘も「私達が行くとお父さん泣いてしまうでしょう」と言って、あえて迎えに来なかった。出所後すぐに電話したが、そこでも言われたのは「泣くな!」だった。思い返せば、私は家族に、父親らしいことはほとんど何もしてこれなかった。むしろ、選挙や一連の事件などで、迷惑をかけどおしだった。
だが、家族は文句を言わないどころか、私を支え続けてくれた。事件の時、妻は「お父さん、お父さんが悪いことをしたのならバッジを外しなさい。でも、悪いことをしていないのなら、戦い続けなさい」と言った。あの時、バッジを外して検察と手打ちをしていれば、執行猶予ぐらいついて、状況はずいぶんと変わっていたかもしれない。だがそうしていれば鈴木宗男としてのスジは通らなくなり、私はもはや政治家・鈴木宗男ではなくなっていただろう。私はスジを通したために実刑判決、九一年の収監となったのだが、それを耐えることができたのも、家族の支えのおかげだ。
友人・仲間たちからも多くの激励を頂いた。心友・松山千春氏からは、政局が混迷している中で「こんなときにムネオがいたら」という残念な思いと同時に、早く政治に帰ってこいという熱い思いをいただいた。さらに、収監中の一年で、日本全国から1500通以上のお手紙を頂いた。いずれも、鈴木宗男を叱咤激励し、政治家として活動し続けることを促すものだった。
私は地域政党である新党「大地」の代表だが、鈴木宗男という政治家を必要としている人が、日本全国にこんなにもたくさんいることに驚くと同時に、感謝した。
思うに、3・11という災害は、我々日本人全てに、今の我々の生き方は正しいのか、という難問を突きつけたのだ。エネルギーを放漫に消費し、金融資本主義という熱に浮かされた生き方が正しいのか。私は違うと思い、新党「大地」を立ち上げた。その理念は、「大地に学び、大地に還る」ことだ。この理念が、今、日本全国で必要とされていると痛感する。
新党「大地」の仲間、後援者の皆さんには感謝してもしきれない。9月21日、私は獄中だったが定例の「鈴木宗男を叱咤激励する会」をホテルニューオータニで開催したが、この日は紀伊半島に大きな被害をもたらしたあの台風15号が首都圏を直撃した、暴風雨の日だった。
にもかかわらず、800人以上の方々が文字通り万難を排して集まってくれた。私はこの知らせを開いて、「疾風に勁草を知る」という言葉を思い出した。
漠の劉秀のもとに王覇という武将がいた。劉秀が上り調子の時には多くの武将が仕えていたが、劉秀の調子が悪くなると、武将たちは次々に逃げ出し、忠義を尽くして残ったのは王覇だけとなった。劉秀はこれを見て「疾風に勁草を知る」、すなわち、苦境の中で初めて人間の強さ、本質というものは現れるものだ、と評した。
私は新党「大地」の仲間・後援会の皆さんに感謝すると同時に、誇りに思う。疾風勁草、こんなに動い仲間がいるのだ。皆さんの熱い思いに応えるのが鈴木宗男の生き方であり、責務だ。
── 三つ目は。
鈴木 目に見えない力の大切さだ。我々は日には見えない力のおかげで生きている、生かされているということを忘れてはならない。檜念、家族の愛情、仲間との信頼、これらは目には見えないが、これらがなければ人間は生きてはいけない。また、今の私を生み出してくれたのは両親、祖先のおかげだという感謝の心がなければ人間は人間としての大事な基本を失ってしまう。我々は万物に支えられて生かされている、その想いを突き詰めれば、大地への感謝、神仏への感謝ということだ。
この一年のうちにも、私を支え続けてきてくださった方が数名、亡くなられてしまった。生きておられるうちに感謝を伝えることができずに、残念でならない。今後しばらくは、そういった方々の回向をして、菩提を弔い、鈴木宗男はこれからも走り続けることをご報告したいと思っている。
生涯政治家!
── 国政復帰への待望は大きいものの、満期から五年間、公民権が停止される。
鈴木 私は生涯政治家だ。政治経験も短いなら「生涯政治家」と言うのはおこがましいかもしれないが、21歳で政治の世界に飛び込んで以来40年以上この世界で生きてきて、衆議院議員を25年努め、永年表彰も受けた。さらに、あれだけ世間を騒がせて政治の焦点になったのだから、「生涯政治家」と言わせてもらってむいいでしょう。
バッジがなくても政治はできる。私には新党「大地」というステージがあるし、私の知恵を借りたいという現職の政治家の方々もいる。鈴木宗男の賞味期限は切れたかもしれないが、消費期限は切れてはいない。活動の場が与えられている以上、そこで走り、汗をかくのが私の使命だ。
とくに、北方領土問題は私のライフワークだ。ライフワークとは、英語の原義では「命がけの仕事」という意味で、私はこの意味で使っている。北方領土の元島民のみなさんも、平均年齢が80歳近くになっている。現職の政治家には、島民の皆さんが元気なうちに解決への道筋をつけていただきたいと思っているし、私は私なりに、経験や人脈も最大限に活かして、協力できることは協力していきたい。
── 政治の現状について言いたいことは。
鈴木 とにかく、政治を覆う閉塞感をなんとかしなければならない。政治からは節度、道義、信義というものが失われている。増税の議論が起きているが、国民に痛みを強いるならば、まず国会議員が痛みを味わわなければならない。衆議院も参議院も、100人までに削減すべきだ。また、議員の給料も三分の一はカットすべきだし、ボーナスも復興が明らかになるまで返上すべきだ。今、国会議員には500万円のボーナスがあるが、これを返上すれば35億円が浮く。給料カットとあわせれば、10年で700億円という財源ができる。
公務員についても、生活があるから給料は担保したほうがいいが、ボーナスは減らすことができる。国家公務員のボーナスはだいたい8500億円だが、これを三分の一カットしただけでも、3000億円近くが浮く。10年間で3兆円になる。公務員宿舎も、全部なくすべきだ。
緊急事態のために都心に近い場所を、ということになっているが、緊急な時にはそれなりの手のうちようがある。
官邸もあれば衆議院の宿舎もあるんだから、緊急時にはそれらを活用すればいいだけのことだ。霞ヶ関の職員全員が都内の一等地に格安で住む必要は全くない。
こうした、自らの身を切る姿勢も示さないで増税を迫るから、国民は政治に愛想を尽かしていく。大阪の府知事選、市長選のダブル選挙で橋下氏らが大勝したのは、実際に橋下氏が府議会議員の給料を三分の一カットし、市議会議員は四分の一カットして、政治に携わる人間が率先して痛みをわかちあったからでしょう。私は橋下氏の政治手法自体については同意できないところもあるが、この政治がまず我が身を切るという姿勢は評価する。
問題は、なぜ地方でできたことが中央でできないのか、だ。
野田線理も、国会議員の定数削減、給料カット、公務員の給料カットについて、与野党協議に任せるのではなく、自ら国民に訴えるべきです。私はこう考える、国民の皆さん、いかがですか、と。議員も選挙区を抱えているのだから、国民の声が強くなれば、抵抗はできない。
リーダーシップを発揮すれば、すぐにでもできることだ。
それが本当の政治主導ということだ。
── 痛みという点では、沖縄に負担を強いる米軍普天間飛行場移設問題にも、かつて北海道・沖縄開発庁長官として取り組まれた。
鈴木 これも信義の問題であり、痛みを分かち合うという問題だ。自民党政権時代、橋本内閣で私が沖縄開発庁長官であったときに名護移設を決めた。その時の名護市長の比嘉氏は、職を賭して受け入れを決めてくれた。名護市にはキャンプ・ハンセン、キャンプ・シユワプがあるから、なんとかその基地の中で対応できないかという思いがあり、まずは名護市に移設を打診した。ところが小泉政権下で、それがだんだんと辺野古という話になってしまい、同時に、橋本、小渕、森政権では維持していた沖縄の人々との人間関係も希薄になっていった。
私が交渉に当たっていた平成8年、沖縄県道104号線での米軍実射訓練を、私の選挙区の矢臼別で受け入れた。155ミリ砲の実弾が県道の上を飛ぶ。これが沖縄の人々の反発が一番強かった。そもそもこの実射訓練を沖縄県外に移すという約束は、村山政権がクリントン大統領と約束したものだ。私は当然、村山首相が地元・大分県に持っていくのだろうと思っていたら、何もやらなかった。橋本政権下で当時、自民党副幹事長として、私は別海町の町長を口説き落として、実射訓練を私の地元で引き受けた。交渉に当たる私自身が痛みを引き受けたからこそ、信頼ができ、理解が生まれ、そこで名護移設が決まった。
今の交渉を見ていると、そこには誰も痛みを分かち合おう、責任を引き受けようという態度がない。とにかく基地を沖縄に押し付けようという姿勢だけが透けて見える。信義、道義というものがない所で政治が動くわけがない。
逆に、信義があり、道義があれば、政治は動く。すぐにでもやれることはたくさんある。このことを現職政治家だけではなく、国民の皆さんに広く訴えていきたい。
ムネオ、再起働
鈴木 宿命に生まれ、運命に挑み、使命に燃える。それが鈴木宗男という生き方です。かつては日本国中からバッシングを受けた。ガンになり、死の絶望も味わった。
無実の訴えも棄却されて、獄に下りもした。しかし、それでもムネオは負けないで生きている。使命を果たすべく、走り回っている。今、辛く苦しい目に合っている人は、私を見て欲しい。私に負けないよう、強くたくましく生きて欲しい。私は被災者の皆さんに勇気をもらった。
今度は私が、全国の声なき声に耳を傾け、勇気を与える番だ。
ムネオ、再起働です。「動」ではなく、にんべんのついた「働」です。私は人様に助けられて生きている。だからこれからも、人様のために、与えられた命を燃焼させていく。(聞き手・構成 副編集長 尾崎秀英)
※月刊日本編集部ブログ
http://gekkan-nippon.at.webry.info/
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