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選挙を忘れた政治家たち 民主幹部は選挙の民意を愚弄、まるでコメンテータ
2011年12月25日 :(世相を斬る あいば達也)
「歌を忘れたカナリアは後ろの山に棄てましょか いえいえ それはかわいそう♪」と云う懐かしい童謡があるが、民主国家の与党政治家が「選挙を忘れた政治家は後ろの山にすてましょか いえいえ それはかわいそう 柳腰の枝切りムチ打ちましょう いえいえ それでは足りませぬ 約束見捨てた政治家は寒波の庭で燃やしましょ 焼却灰を原発石棺のセメント剤に捧げれば 忘れた国民思い出す」上記は民主党の菅・野田・仙谷・前原・岡田のような政治家を眺め、感じた遊び狂歌である。勿論無視して結構。(笑)産経によると、以下のように仙谷が嘯いたようである。
≪ 仙谷節健在! 小沢氏の「無駄削減」主張は「選挙目当て」 民主党の仙谷由人政調会長代行は24日午前、BS朝日の番組に出演し、小沢一郎元代表が消費税増税に反対し、無駄の削減や行政改革を優先するべきだと主張していることについて「行革を今からいくらやっても2兆円、3兆円は出てこない」と一蹴した。
また、「選挙は単純化してスローガ ン的にやった方が勝つという経験値があるのではないか」とも語り、小沢氏の主張を「選挙目当て」と指摘した。
先の臨時国会国で国家公務員給与を平均7・8%削減する臨時特例法案が成立しなかったことに対しては「自民党が反対するから通らない。公明党も反対だ。野党にも責任をかぶってもらわないといけない」と述べた。
番組出演者から「何もやっていないのではないか」と民主党の責任を指摘されると、「何もやっていないという話にはならない。法案は出している!」と激高した。
消費税増税を含む税と社会保障の一体改革大綱の「素案」取りまとめの時期に関しては「年内に素案を決定しケジメをつけておく」と明言した。≫(産経新聞)
小沢が主張する“行財政改革”は「無駄の削減や行政改革」などと仙谷が矮小化する“無駄削減”とは次元が違う。事業仕分けのような茶番劇を持って、小沢一郎の無駄削減と云う主張を矮小化する魂胆が最悪だ。産経も同様な視点で、小沢一郎の“行財政改革”を考えているようだ。否、マスメディアの悉くが、似たりよったりの認識しかないように思われる。小沢一郎に興味のある人々であれば、小沢の“行財政改革”のコアは、中央集権の弊害を根本的に見直すことであり、中間搾取利益集団の解体と地方主権に向かう革命的官僚支配体制の打破が語られているのだ。当然、予算編成の哲学を根本から変えようとしているのだ。
故に、官僚支配体制を維持したい霞が関官僚全体の利益代表として東京地検特捜部の一部勢力が跋扈し、小沢の人格破壊工作を行ったのである。そのきっかけに一部自民党勢力が行動し、地検特捜部が動きやすい環境整備をしたのだろう。このような国策捜査は、何かしめし合わせると云うより、利害の一致が誘発連鎖的に起きるのが世の中と云うものである。マスメディアも同様の空気において追随したと云う事だ。日本人の“空気社会”とは、かくも怖ろしき事態を惹き起こすのだが、日本社会の伝統的共生の一部なので、必ずしも全否定する事も出来ない。小沢事件は、日本のような社会では、時に起こり得る出来事なのだ。
民主主義、三権分立、法治主義等々は、人間社会において、必ずしも有効に機能するとは限らず、それに携わる人々によって、その過程で如何様にも歪曲可能な原理原則だと認識しておく必要がある。それは阻止する最も穏便な方法が国民による選挙である。ヨーロッパにおいては、ワンイシューの国民投票制度が確立されているが、おそらく民主主義、三権分立、法治主義等々が必ずしも、適時適切に国民の意思を反映しきれない重大な欠点を補うべきだと、民主主義の歴史において経験則的補完制度として定着したのだろう。
しかし、国民投票制度がない日本においては、唯一の“民意”が選挙である事は明白だ。しかし、マスメディアは選挙による“民意”を民意と思っていない傾向がある。マスメディアにとっての民意は、自社や他マスメディアの“世論調査”の結果をもって、“これが民意だ”と本気で思っている。彼等にとって、数年前の選挙による結果から導き出された民意よりも、自社のフレッシュな調査の方が“正しく民意が反映している”と言いたげである。その点では、仙谷も同様の思考の持ち主と云う事だ。世論調査で、“国民の大半が増税に理解を示している”を逆手に取っているのだ。
仙谷が特別卑怯者と云うわけではなく、鳩山も菅、野田、前原、岡田等が我々の等身大である事実から目を背けても問題は解決しない。霞が関官僚だけが悪者なわけでもない。マスメディアの幹部連中だけが悪いのでもない。そのような人種がぬけぬけと生きていける世間を作り出したのは、我々国民である事を忘れてはイケないのだろう。勿論、今まで政治の世界の中心にいた小沢一郎にも、それ相当の責任がある。
それゆえに、小沢はその責任範囲の実行の為に、孤軍奮闘している。筆者が小沢一郎に、一度政治をさせてみたい願望は、その責任範囲を何処まで処理出来るか、この眼で確かめてみたいからに相違ない。現状の日本の政治家で、或る程度期待が持てる政治家が小沢一郎一人と云うのも情けないのだが、無い袖を無闇に探すより、ある袖を降る方が合理的。少なくとも、我が国の民主主義においては、選挙が“民意”である。間違っても、設問やプロパガンダに誘導された“世論調査”は紛いモノ。最近の新聞社は、この紛いモノ準拠で社説を平気で書くようになった。自らの論調に自信がないので、紛いモノに縋るのだろう。
菅・野田・仙谷・前原・岡田らを代表して仙谷が語っているのだが、「選挙目当て」どころか「国民と云う天に、唾する政策」をもって「選挙目当て」に対抗する姿勢を見ていると、彼らは政治家ではなく、テレビのコメンテータとかと同質の人間なのだろう。正しいことさえすれば、選挙に負けて野党になっても、人生に悔いなし。処世訓を哲学と履き違え、行動美学にしてしまう政治家には、国民に寄り添う政治など、絶対に出来ないのだろう。でも、このような政治家は国民の鏡だからね、こちらとしても、偉そうなことは言い難い。
元記事リンク:http://blog.goo.ne.jp/aibatatuya/e/f7da06f5ae64bf37c8f1118264524ef6
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