★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK123 > 901.html
 ★阿修羅♪  
▲コメTop ▼コメBtm 次へ 前へ
科学的社会主義・日本共産党批判――マルクス主義の反人間(労働者)的・抑圧的本質を批判する。(その11)
http://www.asyura2.com/11/senkyo123/msg/901.html
投稿者 Y. Kakasi 日時 2011 年 12 月 24 日 23:19:12: BW32mpuE76J86
 

 今日の自称マルクス主義政党(中国、日本、北朝鮮等)は、真のマルクス主義ではないし、日本の共産党員でさえ古典を読むことは少ないのに、今さらマルクス主義の批判をしても意味ないだろう、と考える人もあるかと思います。また、『資本論』は難解なのでまともに読み通した人はあまりいないでしょう。なのでとりあえず、共産党の不破さんと志位さんが分かりやすく解説している「綱領・古典教室」を読まれることをお奨めします。
 →http://www.jcp.or.jp/kk_kyousitu/

 欧米や日本など先進国では、マルクス主義の現実的な力は弱まっていますが、中国共産党規約、朝鮮労働党規約は明確にマルクス・レーニン主義を党是とした一党支配が行われています。
 http://jpn_cpc.people.com.cn/69716/4726318.html
 http://infoseek_rip.g.ribbon.to/chorea.hp.infoseek.co.jp/dprk/kwp/kwpchar.htm

 マルクス主義について正しい認識を持つことは、東アジアの国際政治を考える上できわめて重要です。マルクス主義者たちは、自らを解放する理論をもたない(前回参照)ので、その負担・犠牲は人民に押しつけられます。具体例をあげる必要はないでしょうが、党の方針・理論をめくる権力闘争は、今まで述べてきたように避けられません。一党独裁を、発展途上国に見られる開発独裁の必要悪と捉え、経済成長が可能な限り問題は潜在化するでしょう。しかし、現実には党組織は民衆抑圧の手段となり、もはや悲劇的な段階として顕在化しています。中国が和諧社会、朝鮮が主体思想、ベトナムがドイモイ(刷新)のように国情に合わせて体制を維持しようとしても、マルクス主義に依拠する限り、共産主義は空想的であるばかりでなく人間抑圧の理論とならざるを得ないのです。残された道は、対立政党(理論)の容認またはマルクス主義との決別以外にはありません。 

 さて前回の続き「市場と不等価交換と社会契約」についてです。まず「不等価交換による剰余価値の搾取」と言う見方は、近代経済学の主観的価値論とされる「限界効用理論」の似非科学性を批判します。というのも、資本主義市場では、効用(要望充足)は単なる生活消費的効用だけでなく、商品交換を通じて(利用して)利潤を追求するという強力な効用(致富欲望)を実現する目的で競争的取引が行われます。これは労働力商品(人間力)を最大限活用(搾取)し、また商品市場の独占的利益を目ざして不等価交換(売り手と買い手の非対称性=格差)を最大化しようとするものです。資本主義市場は、近代経済学が考えるような市場需給の均衡が常態なのではなく、またマルクス経済学の想定するような等価交換が常態なのでもありません。ともに欧米の合理主義的(自然法的)思考様式の偏見がもたらした、商品市場に対する歪んだ法則的理解にすぎないのです。(インド人A.センはこの問題の解明に尽くしました。Kakasi達の見解も西洋的思考様式の批判を前提にしています。)

 そこで、彼ら経済学者には見ることができなかった市場の交換過程における「不等価性」の洞察が、資本主義社会の諸問題・諸矛盾に対してどのような処方箋があるのかを考えてみましょう。
 マルクスは、社会主義社会では、生産手段を社会化することによって「分配的正義」を実現しようとしました。その精神の一部は、社会民主党の政権による「福祉国家」に実現しています。しかし、福祉国家における資本主義市場経済のもとでの分配的正義は、成長経済(好況)のもとで税収が豊かな場合には公的支出も豊かでうまく機能しますが、景気低迷(不況)になると人件費等の諸経費が捻出できずサービス低下が起こります。
 また景気循環における産業構造の変化や、競争力をなくした企業が撤退ないし倒産すれば失業者を出します。安直な企業買収や倒産回避は、商品交換の不正を招きます。例えば、商品生産で利益を上げるには、安価(低コスト)で良質な商品ではなく、安直な商品模倣や宣伝、賃金削減が行われます。つまり、一般商品や労働力商品の「交換的正義」が失われモラルが低下します。資本主義競争社会のモラルの低下は、法則経済学が忌避した「不等価交換」にその根源があるのです。

 マルクス主義(空想的共産主義)と市場原理主義(新自由主義)に共通するのは人間的モラルの崩壊です。前者に、階級的連帯のモラルがあるとしても、自らを労働から人間に高めるモラルはありません。人間や社会に対する認識が誤っている(弁証法)かまたは欠如している(言語論)からです。また後者に、自由主義的モラルがあるとしても、それは敗者の困窮に自己責任を求める 利己的勝者のモラルであって、やはり人類社会の未来に禍根をもたらす(私的利益優先)ものです。

 結論として、共産主義自体は一つの理想社会の建設を目ざすものとして容認できても、マルクス主義を前提とする限り、「交換的正義」の検討の余地がない(多くの経済学に共通の欠陥ですが)ため、市場経済を通じて社会主義を実現することはありえないのです。社会的抑圧や支配、搾取や格差、差別や偏見、一般に道徳的腐敗や社会的混乱は、市場(市民社会)における交換過程(社会契約)の中にこそ、その根源をもっているからです。
 この点はKakasi達の主張する「道徳(倫理)的社会主義」の考え方の根本になりますが、長くなるので次回に投稿します。

 次回は、志位委員長の第9回教室(12/20)と、「社会契約」を資本主義と社会主義に関連づけて述べてみます。前回までは<BW32mpuE76J86> を検索してください。

「もうゴマカシはうんざり、本当のことを探す ★阿修羅♪」  

  拍手はせず、拍手一覧を見る

コメント
 
01. 2011年12月25日 00:09:16 : ys9TYjHKqY
マルクスが憎んだものは強欲な資本家が搾取する一方で愛だの博愛だの善だの美などとはやし立て欺くその品性ではないでしょうか。虚構、虚偽を憎む文言がいたるところにみられます・今でもその構造はかわっていません。さらに加速されています。たとえば普通選挙になったところで、はなから人民は生まれた時から洗脳され続けています。自分の意思で選ぶことはないのです・

02. 2011年12月25日 01:00:52 : ayWHhcAkAY
>階級的連帯のモラルがあるとしても、自らを労働から人間に高めるモラルはありません。人間や社会に対する認識が誤っている(弁証法)かまたは欠如している(言語論)からです。

何度も指摘してますが、言語論では答えになっていませんね。
長文HPのリンクは結構です。簡潔に述べられないんでしょうか?
(それともHPの宣伝で投稿してるんでしょうか。)
「科学の視座」から救済など無理なんですよ。
マルクスは人間や社会に対する感受性は鋭かったでしょう。しかし
彼の理論より、自らのルーツであるユダヤ思想の方が救済により近い。


03. 2011年12月25日 01:24:12 : DYgZcAEmBU
難しくてついて行けない。
もっとかみくだいてくれないと、読むのが面倒で、スルーする。
文章中の漢字の量は、せいぜい半分位で。
ですます調はいいです。
前置きは不要。「結論として」以降も半分くらい不要かな。
本とは違う書き方でお願いします

04. Y.Kakasi 2011年12月25日 11:47:47 : hV0b9k4tYxh0. : fXOQhCwWGs
コメントありがとうございます。

指摘されていることは、きちんと答えたいと思っています。

単なる自己主張、自己満足、思い込み、宣伝でないのか。

言語を論じるならもっと分かりやすい言葉で語れ等々・・・・。

情報が氾濫する中、多少とも関心を持っていただいたことに、感謝。


05. 2011年12月25日 16:00:44 : BvRwEG5pHk
共産主義のイロハも理解していない人の投稿文ですね。
kakasiさんは、マルクス、エンゲルス、レーニンの文献の1冊も読んだことがない人のようです。もし違うなら、その文献と内容で解説してみて下さい。

レーニンは「青年同盟の任務」の中で、共産主義とは何かについて述べています。

そこでは、資本主義社会の学校では雑多な知識を教える――東大の原発御用学者のように物を知っていればいいというものではないということ――共産主義の理論は人類の知識の価値ある科学や知識の総和の上に成り立つものであり故に発展させるものである――雑多な知識の中から社会に有益な価値ある知識のみをより分ける能力を身につけること、そうでなければ共産主義と言えない、そして、言行を一致させて社会活動を行うこと、、、共産主義者は、まだその言うことについて人々がそれを信じないにせよ分からないにせよ、人々の経験に照らして、この人たちの行動は間違ったものではなく真に信頼できる人々だと心から納得できるように活動や生活ができなければそれは共産主義者と言えない、なぜならそれは現行不一致の社会に役立たない「理論と実践の分離」を意味し資本家階級のあり方そのものであるからだ、としています。

このようにレーニンがいうのが共産主義だとすれば、共産主義者を自称したり、共産主義理論を自称しても、それらが「理論と実践の統一」の上にあり、私たちの経験に照らして真に信頼に足りる人々、運動、理論、政治であるのかどうかが問題になるのです。

ですから、不破、志位さんは実際の運動で成功していれば「理論と実践の統一」ということで、レーニンのいうところの共産主義者として認定できるし、運動が失敗していれば口先だけの人ということで共産主義者とは言えない、本人たちがどのように弁じようともブルジョアジー的なのです。

kakasiさんは、マルクスを批判するなら、直接にマルクスの文献内容により論を展開できないようでは論じたことにはならないのです。


06. 2011年12月25日 17:23:34 : 1HOeyxVvSk
02です。カカシ氏はマルクスをアクチュアルな話題と断言しているなら↑のような教条主義はむしろ誤りで、マルクスが今日どういう意味があるか示すべきです。なん
ども書いてきましたがハイデガーに対する誤りとか言語論とか現象学とかHPの文は執拗に冗長で方角も独自な研究に見えません。救済を目指しているならマルクスは脇において、ローゼンツヴァイクがいうようにギリシアからヘーゲルまでモノローグを繰り返してきた哲学者は必ず誤謬に陥ること、そうではなくディアローグから言語接近すべきです。また以前も指摘した非人称の話も同様です。相互主観性という視点を欠くと人間について何も語れません。科学的、対象化の視点では倫理や救済の問題から遠ざかるのみで発話者が隠蔽され接近不能です。掲示板でディアローグを採用しようとしするなら、以前に書いたリンクを読んでくれという態度ほど高慢なものはありません。

07. 2011年12月25日 17:49:33 : qoVHGfd6sY
奸やら賤獄やら一見社会主義者にみえる連中は
本心は、スターリン毛沢東主義者なんだよな
すくなとも、今のカストロ型なら
少しは共産主義に温かい目でみてあげるのだが
野心家の成り上がりが多すぎるんだよ
日本の社会主義者や共産主義で
政治を目指す人間は
奸や賤獄は上り詰めると
グルメ三昧だからね

08. 2011年12月25日 18:34:34 : BvRwEG5pHk
06は知ったかぶりで、人とコミュニケーションが図れない人のようだ

09. 2011年12月25日 18:48:10 : 1HOeyxVvSk
>>08
反論できずに人格攻撃ですか、ドグマがないと何も思考できないんでしょうね。

10. 2011年12月25日 18:58:09 : EVskgte9f6
一つの見解として受け取って欲しいのですが、
マルクスがモラルを問題にしたかというと、たぶん、それはなかったと思います。彼は科学的な視点を目指したのだから、共産主義はモラルに裏打ちされる思想ではない(はず)。

じゃあ、何に裏打ちされるのか。これは、経済のさらなる発展に裏打ちされる、ということだと思います。

マルクスによると、
資本主義では、資本家が労働者から搾取する一方で、労働者が物を買うだけの余力を与えねばならないという矛盾がある。これを解決するために、生産手段をいったん資本家の手から奪いとり、あらためて労働者と資本家で共有することで、2つの階層の区別を無くそう、ということだったんだろうと思います。そうすれば、資本主義で限界に達した経済がさらに成長できる、と。


ここで話は変わるのですが(すみません)、
彼の言う『搾取』は、労働者階層が次の世代を生み育てるだけの生活を保障するためのものを、資本家が労働者に与えないことを指すわけで、これを解決するために福祉を充実させるという解決方法は、正直、共産主義とは関係が薄いと思います(共産主義では、生産手段は誰でも使えるのだから、自分で欲しいだけ作ればよい)。ここらへんが、現代が共産主義ではなく、修正資本主義であることの現れなのかなと思ったりします。


追記:
少し気になったことが。
『市場と不等価交換』と書かれていますが、市場が需給均衡で価格決定するなら
それは等価交換と呼ばれるような気がします。ですので、市場には不等価交換は(市場が機能する限り、定義的には)存在しないような気がします。
市場の機能不全(情報の平等性や参加者の判断の完全性の欠如等)については皆さんご存知と思いますし、むしろそちらの方が問題としては大きいのではないかと。


11. Y.Kakasi 2011年12月26日 00:35:23 : hV0b9k4tYxh0. : fXOQhCwWGs
多くのコメントありがとうございます。
01)さん
>自分の意思で選ぶことはないのです。
→の「自分意思」の定義が難しいです。騙されていても、自分で判断すれば「自分の意思」とせざるを得ないのではないでしょうか。

02)さん
>言語論では答えになっていませんね。
→というのは指摘のとおりで説明不足でした。言語論に限定するのではなく、言語を認識論(言語と思考と知識の関係)として説明する必要がありました。つまり、言語を単に伝達の手段として捉えるのではなく、対象を把握し、自らの判断や行動を方向づけるもの(知識)として捉えることが必要なのです。西洋思想にはこの点で限界があります。

03)さん
>難しくてついて行けない。・・・本とは違う書き方でお願いします。
→というのは、全く頭を悩ます問題です。「交換的正義」とか「分配的正義」などの説明は、投稿の範囲を超えてしまうのです。逆にKakasiの方からお願いとして、難しい言葉はネットで検索すると、案外分かりやすい説明がでてくるものです。視野を広めることにもなりますのでお奨めです。
今後とも、気を付けますが、ネタ元が難しいのでため息がでます。

05)さん
>マルクスを批判するなら、直接にマルクスの文献内容により論を展開できないようでは論じたことにはならないのです。
→検証可能性を大切にしておりますので、Kakasiは大月書店版「マルクス・エンゲルス全集全53巻」を所有しております。しかし、「阿修羅」では、「等価交換による剰余価値の搾取」をどう考えますか、ぐらいでいいのではないでしょうか。お手本を示して頂ければありがたいです。
 共産主義についてはいろんな見解がありますし、Kakasiは共産主義者ではありませんから余り深入りしたくはありません。あしからず。

06)さん〜10)さんとても貴重な指摘なので、よく考えてから次にコメントします。


12. 天の網島 2011年12月26日 01:56:24 : roto1wtJR0WMQ : lbP6pc3mTs
マルクス主義に依拠する限り人間抑圧にならざるをえないとか、マルクスは道徳を論じないとか、やたらと偉そうなことを論者ぶって述べているが、マルクスを読んだうえでの論述とは思えません。資本論は難しいから君も読んでないのでしょう。
マルクスほど道徳的に「人間解放」を思弁しぬいた人はいないでしょう。
大内兵衛のマルクス論を読んでみてください。

資本論の本質は、本来人格と感情をもつ人間の労働力さえ「商品」として取引し、それなくしては成り立たない資本制生産の矛盾を明らかにしたこと、そして資本が膨張するという本質、つまり、利潤=剰余価値獲得のために更なる拡大・膨張を止めがたいこと、したがって全世界にその矛盾と害悪を拡散せずには置かないことを明らかにしたことです。現在のグローバル化は彼の予見したとおりです。
しかも、労働者の人間性を無視してまでも「労働力を安く買いたたく」−それはトヨタやキャノンの非正規労働者への仕打ちをみれば明瞭です。安い労働力を求めて
世界中にその矛盾を拡大している現実をみれば納得できることです。

革命後の「一党独裁」も資本家階級サイドからの反革命への対抗策として是としたのです。エンゲルスがいうようにいつの時代も階級闘争の歴史なのです。
その意味では、一国社会主義は岩の上の卵で、周囲の資本主義国家の反革命の脅威にさらされます。ソ連の崩壊も中國の資本主義化も北朝鮮の核化もいわば反革命への体制護持のための一つの必然といえなくもないでしょう。
マルクスの思想があまりにも魅力的だったがゆえに、レーニンも毛沢東も急ぎ過ぎたのです。生産力の未発達な国での共産主義的体制は、それを梃子に他の資本主義国へ波及させようという点に無理があったのです。

グローバル化し、資本主義の矛盾もまた世界的になった今こそ「万国の労働者、団結せよ」の宣言が重要性を増しているといえないでしょうか?
真の人間解放はマルクス主義の真意を読み解き、流布し、労働者が自立して立ち上がる以外にはないでしょう。抑圧的な指導者は自立し、自覚した労働者が引きずりおろせばよいのです。それは資本主義国「日本」にも当てはまることです。
小沢一郎が週刊ポストでいうように「莚旗を押し立てて政府に詰め寄る」そんな国民・労働者の自立が今問われています。


13. Y.Kakasi 2011年12月27日 00:12:38 : hV0b9k4tYxh0. : fXOQhCwWGs
06)さん Kakasiは多分単純な人間なので、神や救済を信じていません。それらは人間の言葉によって構成されたもので、幸福や救済や悟りは言葉を超えたところ(自己を持続的・永遠的に肯定する感情)にあると考えています。これは検証の難しい主観的なものになるので議論はしません。

>マルクスが今日どういう意味があるか示すべきです。
→については、マルクスの思想が社会主義理論として、今日でも世界の共産主義運動に大きな影響力を与えていることです。しかしまた、限界も明らかになっている(検証の必要はないと思います)ので、その根源を明らかにして人類社会の存続の在り方を考えるのは自然なことだと思います。マルクスを含めた西洋思想の限界が、「人間とは何か」という問に答えられず、混迷しているのも事実でしょう。そして、おそらく人間の本質である「言語」の解明が、現代の思想的・政治的・経済的混迷を打開する契機になるだろうというのがKakasi達の考えです。その混迷の筆頭に来るのが、社会主義・共産主義をめぐるマルクスの思想にあります。その点では「現象学」など全く自然消滅してもおかしくない程度のものです。

>ディアローグから言語接近すべき
→というのは、方法上の違い、見解の相違でしょうか。私たちは「生物学的・生理心理学的方法」をとります。
>相互主観性という視点を欠くと人間について何も語れません。
→相互主観性は、生物学的に見ても重要ですが、人間の主観は社会的なものだけでなく、自然的環境に対しても「対象主観性」として無視できません。というか、相互主観性は、対象主観性の中に含まれているもので、生物学的には、個体維持が種族維持に優先すると同じように、個体の対象主観性が根源的であるという考えです。従って、「言語」も、主体(個体)の認識主観性(何がどうあるか=主体の疑問)を前提にして成立します。だから、モノローグであっても十分満足できるのです。(これは06さんだけに分かって頂けるように書いています。)

07)さんに同意します。
08) 09)さん そんなにキツいことを言わないで・・・・・

10)さん マルクスが生産力第一主義であったのはそのとおりだと思います。でもかつての資本家にそのような義務感があったとは思えませんが・・・・。「修正資本主義」の話は同意です。

>市場が需給均衡で価格決定するならそれは等価交換と呼ばれるような気がします。
→については、10)さんの指摘が、マルクスを含めた経済学の常識です。しかしKakasiは、この「経済学の常識が誤っている」と言っています。10)さんの指摘される「市場の機能不全(情報の平等性や参加者の判断の完全性の欠如等)」すなわち「売り手と買い手の非対称性」は、価値の不等価な移動を含んでいます。「機能不全」といわれる状態は、弱者と強者の交換関係の格差(競争)から生じ、またこの格差が商品市場を活性化させています。だから、交換(市場価格)が成立しても、価値は弱者(貧者・浪費者)から強者(富者・欲張り)に多く流れていくという考え方です。
 投稿でも述べているように、「国際的不等価交換」や「独占価格」が典型例ですが、需給均衡で価格(等置)が成立しても、様々な不等価交換(価値・富の不等な移動)が生じます。Kakasi達の「不等価交換による剰余価値(労働)の搾取」説では、労働者の低賃金・劣悪な労働条件も典型的な不等価交換となります。どのような交換が等価か不等価かの検証・判断の基準は、明確にはなりにくいですが、価値(富・利潤・剰余)がどのように配分されているかを検証すれば、交換過程でどのような不等価交換が行われたかを検証できます。少なくとも莫大な利益を上げている企業が低賃金であったり、同一労働が差別賃金であれば(パートや派遣労働のように)不等価であるのは明白です。是非反論を・・・・

12)さん なかなかの名文で、気持ちもよく分かりますが、投稿の趣旨を理解されていないようです。誤解のないように、毎回のようにマルクスの「等価交換による剰余価値説」の人間抑圧性を説明しています。頭を冷やして『資本論』第二編と第三編を読み直してから反論して下さい。よろしく。


14. 2011年12月27日 00:31:10 : cmiP3p59TI
>、神や救済を信じていません。
それらは人間の言葉によって構成されたもので
もちろんです。信じろといってませんし、私も信仰をもちません。
救済=神という紋切り型を言っているのではありません
もっと広義なものです。

マルクスの「眼差し」はユダヤ的な世界観から要請されてきたもので、
切り離すことは不可能でしょう。
不正を糾弾するため、また学問的厳密性を強調するために科学という言葉を使ってはいますが、マルクスの動機にあるのは紛れもない救済への衝動でしょう。

何度も指摘しましたが、政治板でカカシさんの投稿は浮いています。


15. 2011年12月28日 21:48:21 : EVskgte9f6
>>13

>投稿でも述べているように、「国際的不等価交換」や「独占価格」が典型例ですが、需給均衡で価格(等置)が成立しても、様々な不等価交換(価値・富の不等な移動)が生じます。Kakasi達の「不等価交換による剰余価値(労働)の搾取」説では、労働者の低賃金・劣悪な労働条件も典型的な不等価交換となります。どのような交換が等価か不等価かの検証・判断の基準は、明確にはなりにくいですが、価値(富・利潤・剰余)がどのように配分されているかを検証すれば、交換過程でどのような不等価交換が行われたかを検証できます。少なくとも莫大な利益を上げている企業が低賃金であったり、同一労働が差別賃金であれば(パートや派遣労働のように)不等価であるのは明白です。是非反論を・・・・

では反論を、と行けば良いのですが、意見を交わしているうちに、Kakasiさんと私は認識が非常に近いような気がしてきて居ます。

ですので、やや瑣末な話にならざるを得ないのですが、そこはご勘弁下さい。

Kakasiさんの言われる「不等価交換」には、幾つかの種類あるような気がします。

1)市場が機能しない状態における搾取
2)市場が機能する状態における搾取
3)その他

1についてはインサイダー取引に代表されるような情報の不平等性などがあります(独占は含めません。それについては後述します)。

2は大雑把に言えば、市場が機能していても、それ以外の部分の影響が大きいものです。例えば天賦の才に恵まれた人が努力に不相応な報酬を受ける、あるいは親族が人脈に恵まれ、その恩恵を受けて多くの顧客を受ける人など。

3については、例えば独占が相当します。
一つのたとえ話として、寿命が100年の電球が出来たとします。それを作ったメーカーは売り上げを伸ばし、100年近い需要が満たされます。他のメーカーは廃業し、100年電球のメーカーだけが生き延び、独占状態になります。
この例で厄介なのは、市場が機能した結果、最終的に機能しなくなることです。市場を機能させようとすると機能しなくなる。たぶん根本的な問題だと思います。


で、ちょっと話は変わるのですが、売り手と買い手の非対称性というのは、市場は織り込み済みでは、という気がしなくもありません。売り手が競い合うことで価格は下落しますし。


Kakasiさんは等価交換という表現の「価」という部分を、一般に言われる「価値」という意味で使われていると思います。以前Kakasiさんは、一般社員の報酬と役員の報酬が、会社への貢献度を超えて異なるのではないか、と仰っていたように思います。そこは私も同意です。そこは非常に納得できるのですが「市場における等価交換」という表現に限っては、それを言い出すと、話が収束しないような気がします。

とりとめが無くなってしまって申し訳ありません。


16. 天の網島 2011年12月29日 02:27:34 : roto1wtJR0WMQ : eyt0rEmdgs
13>kakasi
そして誤解しているつもりはありません。
マルクスの言う商品の価値はすべて「労働の集積」ということ、そして、等価交換の商品市場に「労働力商品のみ不等価交換(価値以下に買うこと)」を一般化し、その労働力が造り出した価値との差額を詐取することを「搾取」というのです。
更にマルクスは言います。かかる資本制生産を可能にするのは「二重の意味で自由な労働者」の存在が前提となる、と。即ち、誰に縛られることなく契約できる自由、自分の労働力を売る以外に生活できない=一切の生産手段から自由な労働者の存在が。つまり、低賃金でも労働力を売らざるを得ない慢性的な失業は資本制生産にとっては不可欠な必要悪であると。ここに、現代日本においても非正規・低賃金でも労働力を売らざるを得ない基本構造があるのです。それは減反製作など農村を疲弊させ、土地を取り上げ無産大衆を造り出した資本側の政治に由来しています。
マルクスは「ドイツ・イデオロギー」で喝破しています。「その時代の支配的思想は物質的支配階級の思想である」と。それ故に、革命の成果を得るためには第一に政権を奪取しなければならない、というのです。
マルクスは君が言うように「市場のなかで共産主義が成就できる」などとは考えてもいません。又、資本家と労働者が生産物を分け合うことも想定してはいません。
分かりやすく言えば、「会社を労働組合が支配する」と考えてもいいでしょう。
資本家も経営者も一労働者になることです。それを拒む資本家は文字通り「敵」なのであって、その点では毛沢東は正しいともいえましょう。
そうした共産主義を成就させるためには何よりも労働者が思想的にも物質的にも自立しなければならないのです。資本の側のマスコミに幻惑されることなく。

こういったからと言って、日本共産党を是認するつもりもなければ、中国共産党の資本主義化是とするものではないことを断っておきます。

とまれ、この投稿は、しかも連載投稿は阿修羅にはふさわしくありません。
ブログでも立ち上げて議論されることを勧めます。    いじょう


17. Y.Kakasi 2011年12月29日 23:49:02 : hV0b9k4tYxh0. : fXOQhCwWGs
それぞれ重ねてのコメントありがとうございます。
14)さん
>マルクスの動機にあるのは紛れもない救済への衝動でしょう。
→について「救済への衝動」については今一度よく考えてみます。マルクスの動機について、ユダヤ・キリスト教的な背景があることは確かです。しかし中心になっているのは、『経哲草稿』に見られるような、労働による生産力の発展の成果が、逆に労働者階級を抑圧しているという「自己疎外」状況に対する「義憤」なのではないでしょうか。
 投稿が浮いているのは確かです。でもKakasiはそれほど気にしていません。このような表現の機会を与えてもらえる管理人さんの度量に感謝するばかりです。お気遣いありがとうございます。

15)さん 内容豊かなコメントありがとうございます。
 Kakasiは単純な人間なので、労働者の低賃金が、マルクスの言うように「価値どおり(等価交換)」に決まることはありえない、ということから出発しています。
 労働力商品といっても、労働者は「人間らしい生活のための労働やその対価」を求めているのだから、マルクスの言うように 必要労働分が労賃であり、これは不当とは言えないという論理は許されないと考えています。一般商品が等価であろうが不等価であろうが、互恵的交換が成立すれば問題はないでしょう。しかし、人間労働力の対価が、最低生活を満たしておれば合法的である、というのは人間道徳に反します。
 労働運動は、搾取が隠蔽されているから起こるのではなく、人間労働の評価や労働強制が非人間的だから起こるのです。剰余労働の隠蔽性が暴露されたから労働組合が結成されたり、社会主義や共産主義が生まれたわけではありません。
 ということで、経済学者の想定している「市場における等価交換」は、15)さんの言われるように、話は収束していないのです。

16)さん
>マルクスの言う商品の価値はすべて「労働の集積」ということ、そして、等価交換の商品市場に「労働力商品のみ不等価交換(価値以下に買うこと)」を一般化し、その労働力が造り出した価値との差額を詐取することを「搾取」というのです。
→という誤解を、多くの方がされているのは残念なことです。Kakasiの知人の党員もほとんどそのような考えです。誤解を防ぐために、(その6)に、『資本論』からの引用をしておきました。
http://www.asyura2.com/11/senkyo122/msg/942.html

 なお申し訳ありませんが、
>マルクスは君が言うように「市場のなかで共産主義が成就できる」などとは考えてもいません。
→の「 」のような意味不明の記述はしておりません。空想よりも幻想は、より注意が必要です。幻想的見解は、阿修羅にはふさわしくありません。なおブログ(HP)については、以下を参照して下さい。   いじょう
http://www.eonet.ne.jp/~human-being/page9.html
                       (失礼あればご容赦を)


18. 2011年12月31日 18:49:54 : EVskgte9f6
>>17

>労働力商品といっても、労働者は「人間らしい生活のための労働やその対価」を求めているのだから、マルクスの言うように 必要労働分が労賃であり、これは不当とは言えないという論理は許されないと考えています。一般商品が等価であろうが不等価であろうが、互恵的交換が成立すれば問題はないでしょう。しかし、人間労働力の対価が、最低生活を満たしておれば合法的である、というのは人間道徳に反します。

マルクスが、或る側面から、道徳や感情に否定的に見えるのは、彼なりに色々考えた結果だろうと思います。

不破さんが講義で言われていたように、道徳を根拠とする革命は、致命的な問題があるように思います。
第一に、道徳は定量的でない事です。何をどこまでやればいいのか、それ以前に目的もはっきりしない。その結果、政策が大きく触れ悲劇が生じ、例えばフランス革命のように粛清や王政復古などが起こる。
第二に、道徳は人によって異なるが故に、革命の同士を募るのが困難という事。一方、飢餓などのような物理的・科学的事象は万人共通であるため同士を得やすい。事実、フランス革命は飢餓をきっかけとした(日本の百姓一揆もそうですが)。経済恐慌では飢餓とまでは行かなかったためか、革命には結びつかなかった。

話は変わりますが、マルクスは最低生活を満たせばいい、とは結論付けなかったように思います。記憶が曖昧ですが、時代の平均的な生活水準が目標だったような・・・。
なぜ彼がそう判断したかというと、次の時代を築く人間は、その直前の時代の(少なくとも)平均的生活の上に育った人、と思ったからでしょう。この想像は科学の分野に限っては極めて良く当たっていると思います。


そんなこんなでマルクスは科学的態度を取ることに決めたのだと私は思います。


19. Y. Kakasi 2012年3月05日 21:41:28 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM
18) EVskgte9f6さん 投稿を見直していてコメントが抜けているのに気づきました。十分考えるべき問題提起に感謝します。さて、

>マルクスが、或る側面から、道徳や感情に否定的に見えるのは、彼なりに色々考えた結果だろうと思います。・・・道徳を根拠とする革命は、致命的な問題があるように思います。・・・・・・そんなこんなでマルクスは科学的態度を取ることに決めたのだと私は思います。
→→について。
 前半はその通り、彼なりに考えたのだと思います。しかし、それはマルクスの生きた19世紀の、しかも西洋的思想(哲学、経済学、社会主義思想)の限界の中での問題解決であって、今日的課題の解決になるどころか、障害になっているというのが、Kakasiたちの見方です。

 「道徳を根拠とする革命」を認めるとして、現実の「社会民主主義」や「福祉国家主義」は、基本的人権や正義や友愛を求める道徳を根拠としていないでしょうか。科学的と言っても、結局、正義や連帯・友愛は道徳的なものであって、マルクス主義のように、要求を阻む階級敵を打倒・支配するための団結も、道徳的意識活動がなければ憎しみと闘争の連鎖から悲惨な結果を生み出すことになるでしょう。
 科学的態度は、道徳的な背景がなければ危険なことは、戦争遂行者やテロリストの理性的合理的な科学的態度を見ればわかります。

 「時代の平均的な生活水準」については、次のとおりです。
「いわゆる必要なる欲望の範囲は,その充足の仕方と同じく,それ自身歴史的の産物であって,したがって,大部分は一国の文化段階に依存している。なかんずく,また根本的に,自由なる労働者の階級が,いかなる条件の下に,したがって,いかなる価値と生活要求をもって構成されているかということに依存している。したがって,他の商品と反対に,労働力の価値規定は,一の歴史的の,そして道徳的の要素を含んでいる。だが一定の国にとって,一定の時代には必要なる生活手段の平均範囲が与えられている。」 (『資本論』注42の次)

○ 階級社会における労働者の必要なる欲望の範囲は,抑圧され強いられたものであって,「与えられた」ものではありません。「必要なる生活手段の平均範囲」は,人間的な生活をするものとしては,不十分であり抑圧され不正なものでした。それを歴史の必然性によって合理化し,抑圧したものを免罪するべきではありません。人間である労働者にとっての必要な欲望が,同じ人間としての資本家の必要な欲望と異なるという合理的な理由は何もありません。


20. 2012年11月27日 17:47:28 : wXPShKYgaw

 (その12)につづきます。kakasi
 ⇒ http://www.asyura2.com/11/senkyo124/msg/298.html

  拍手はせず、拍手一覧を見る

この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
 重複コメントは全部削除と投稿禁止設定  ずるいアクセスアップ手法は全削除と投稿禁止設定 削除対象コメントを見つけたら「管理人に報告」をお願いします。 最新投稿・コメント全文リスト
フォローアップ:

 

 次へ  前へ

▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK123掲示板

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/ since 1995
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。

     ▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK123掲示板

 
▲上へ       
★阿修羅♪  
この板投稿一覧