http://www.asyura2.com/11/senkyo123/msg/590.html
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マルクス(とエンゲルス)は、19世紀西欧の資本主義の発展と社会の矛盾・争乱を分析し、被抑圧者・労働者が資本家の階級支配から自らを解放することが、人類の解放であり、苦難の人類前史を終わらせることであると考えました。このような彼らの強烈なメッセージは、主著『資本論』に結実し、理解困難でも多くの人々の心を捉えています。
その難解なマルクスの思想を、日本共産党の指導者である不破さんと志位さんが「綱領と古典教室」で講義され、ネットで公開されています。日本と東アジアの政治にとって、マルクス主義の動向は見逃せません。聴講をおすすめします。
「綱領と古典教室」→http://www.jcp.or.jp/kk_kyousitu/
さてマルクス思想を理解されていることを前提に、その批判を続けてきました。しかし、色々とコメントがあるものの、肝心の「等価交換による剰余価値の搾取」についての意見・異見はまだ一つもありません。なので、この問題の重要性について、説明不足を補います。
前回の説明は次のとおりです。資本家の利潤の獲得(搾取)は、資本家が労働者の労働力商品を「等価交換」で購入し、「生産過程」での隠された剰余労働によって行われる、というマルクスの剰余価値説は誤りです。つまり、商品の価値は、その商品に投下された労働量で決まり、商品は原則すべて等価で交換される、という当時の経済学者達の偏見(労働価値説)を、うまく労働力商品にも適用して搾取を説明した、とマルクスは考えたのです。しかし、搾取は、強い立場の資本家が弱い立場の労働者の労働力を、「交換過程(売買契約)」において、不等価で不当な低賃金で買い取り、それを酷使して行われるものです。
「ウィキペディア」で「剰余価値」の説明を見れば、『資本論』の記述のとおり
>剰余価値は商品交換(流通過程)によっては生まれない。なぜなら、流>通過程においてどんなに不等価交換が生じたとしても、社会全体の価値>総額は常に等価であるからである。それゆえ、利潤が商品売買の差益か>ら生まれるという議論は誤りである。
とあります。ごらんのように、「社会全体の価値総額は常に等価であるからである」という説明は、全く説明になっていません。剰余価値(利潤)は、「社会全体の価値総額」を問題にするべきなのではなく、労働力によって産出された価値が、「誰のものになるか」を問題にするべきなのです。剰余価値は「生まれる」ものではなく、流通過程で「奪われる」ものなのです。Wikiの記述がいつも正しいとは限りませんが、「岩波経済学事典」でも「資本主義社会全体で等価交換が行われる」としています。アカデミズムが、『資本論』の権威にいかに歪められているかがわかる例です。
マルクスが、「等価交換の剰余価値説」で犯した最大の失敗(誤り)は、労働者の社会的平均の必要労働(生活費)分を算出するのに、抑圧された労働者の賃金(生活費)のみを基準に置いたことです。本来人間的に必要な欲望を充足するためには、労働力の再生産(必要労働)分だけでなく剰余価値(利潤)分すなわち資本家の取り分を算入した上で平均化すべきなのです。等価交換として得られる労賃(必要労働)分は、決して労働者の必要生活費をまかなえるものではないのです。
労働者の低労賃は、決して等価交換による正当なものではなく、支配と抑圧、詐欺と欺瞞による、不正で不等価な搾取によるものなのです。ある一定の社会の労働者の生活費は、労働者だけの平均によって決めるべきものではなく、資本家の収入である利潤(剰余労働とされる分)を含めて、人間的社会的平均として決めるべきものです。労働者の労賃・生活費分は、労働力商品(人間の全体性)との「等価ではなく」、労働力商品の価値を下回る低賃金なのです。マルクスはこれを不当なものとしてでなく、唯物史観的に肯定的に「等価値」と考えるから、マルクス主義は労働(者)を人間抑圧に転化していると言えるのです。労働力は、単なる生産能力ではなく人間そのものなのです。
だから論理的には、マルクス主義では、低賃金・労働条件の劣悪性は不当ではないから、賃上げ(生活・労働条件の改善向上)よりも階級対立をあおり、労働者の組織化や労働運動も生活向上のためというよりは、単に唯物史観に合わせて社会主義革命をするための手段、共産党の活動を拡大させるための手段に過ぎなくなるのです。マルクス主義共産党が、唯物史観(歴史の必然性)という「強迫観念(偏見)」によって、生活向上、福祉国家よりも、共産主義(党への忠誠)をめざすのはそのためです。そしてその根底に「等価交換=等労働量交換=労働価値説」があるのです。
なお『資本論』批判の要点については、以下に詳しいので参照してください。
→http://www.eonet.ne.jp/~human-being/sub4.html
前回予告していた「市場と不等価交換と社会契約」についての説明は、長くなるので要約だけにします。
資本主義競争市場における商品交換が、互恵(win win)的側面よりも格差拡大的・不等価的にはたらき、自由平等な社会契約はその美名とは逆に、労働契約に典型的に見られるように、不正で欺瞞的な契約関係を増大し、腐敗と道徳的退廃をもたらしてきました。これはマルクスとエンゲルスが、著作の中で克明に描いてきたとおりです。
また現下の問題では、アメリカ主導のTPPに日本が加入すれば、まだいくらか残されている日本的道義心や美徳は、金銭欲と享楽主義と功利主義によって破壊し尽くされるでしょう。美しい日本と世界の自然も刹那的享楽や功名心、強欲が買い占め、メディアやネットを操って人間的良心や善性を麻痺させ崩壊させるでしょう。今や日本で、中国で、世界で人間の心が蝕まれています。そして、世界をこのような現状にした責任は、商品交換(社会契約)市場に「等価交換」しか見なかったマルクスにもあるのです。
競争市場の不等価な交換契約の現実を吟味し、分配的正義(福祉国家政策)とともに、より日常的な「交換的正義」を実現することによって、はじめて自律した人間の共同社会が可能になるというのがKakasiたちの基本的考えです。『資本論』的社会観(マルクス主義)が、人間の解放をめざしても、理論的にそれが不可能であるばかりか、人間抑圧を招くものであることを説明できればと思います。これはきわめて政治的な提案なのです。
次回は上の続きを予定しています。前回までは<BW32mpuE76J86> を検索してください。
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