http://www.asyura2.com/11/senkyo123/msg/469.html
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投稿者Kakasiは、日本共産党の指導者による「綱領・古典の連続教室」がとてもわかりやすいので、皆さんに是非聴講していただき、その批判へのコメントを期待して投稿しています。
http://www.jcp.or.jp/kk_kyousitu/
今まで、マルクス主義は、科学的社会主義ではなく「空想的共産主義(似非科学的社会主義)」であり、これを科学と考え実践すると様々の誤りを起こすと述べてきました(愚痴人間さんによる「壮大なペテンの実験」に半同意します)。具体的内容は周知のこと(党派組織による人民解放と労働者・人間支配)なので、できるだけ理論面に絞っています。だから「教室」でしっかり勉強していただかないと理解困難・意味不明ということになります。
マルクス批判の要点は、社会主義を科学にしたといわれる二点、「等価交換による剰余価値説」と「社会的存在が意識を規定するという唯物史観」についてです。その批判の詳細は、「人間存在研究所」のHPに展開されている理論「生命言語説」に依拠しています。
http://www.eonet.ne.jp/~human-being/index.html
http://www.eonet.ne.jp/~human-being/page9.html
前者(剰余価値説)については、労働者搾取は、生産過程ではなく交換(流通)過程でおこなわれること、すなわち、強者資本家と弱者労働者との自由で対等な労働契約が、等価交換ではなく不等価交換(低賃金・劣悪な労働条件)によって行われていることを指摘しました。労働契約がたとえ合意の下で行われ表面的にwin winの関係だとしても、実態としては半強制的な労働が行われてきたことは、過去においてはもちろん、今日においても企業役員、正社員、派遣社員等々との格差賃金にあらわれています。
資本家・企業家・経営者がいかに能力に優れているとしても、人間の知的体力的能力は、平均的労働者・人間能力の10倍を超えるものではないでしょう。平均的労働者の生涯所得が3〜4億円として、一年の収入で10倍を超えることになるのは、市場の不等価性に由来しています。ちなみに日本の上場企業の役員年間報酬1億円以上は、約300名とされています(役員報酬ランキング)。高額納税者公示制度が廃止されましたがネットでは残っています。おそらくすべて流通による不等価交換の所得でしょう。芸能スポーツ関係の高収入でさえ個人の能力を超えた所得です。累進課税の社会的存在意義は、不等価に対して多少でも公正と正義を考慮したものなのです。
「等価交換=価値法則=労働価値説」ついてのコメントが一切ないのはなぜでしょう。この「阿修羅」で一言もないのは残念なので再論しました。もっとも「労働価値説」に反対しても、「等価交換」に反対できない学者・評論家がこの問題を避けているので仕方ありません。もちろんマルクス経済学者は全滅です。商業利潤、国際的不等価交換、独占価格、格差社会から考えれば答えは簡単に出てくるのですが、皆さんマルクス等の西洋的偏見・イドラ・トリック・神秘化に欺かれているのです。一つだけ実例を挙げておきましょう。→http://www.a-jrc.jp/pdf/ajj/047_068_ito.pdf
さて、不破さんの好きな「唯物史観の未来論」に話を進めましょう。唯物史観は、単純な階級闘争論ではありません。階級闘争を意識せざるを得なくなる資本主義的生産様式の社会的矛盾が問題になります。労働組合の賃上げや諸要求実現闘争は、生産力の上昇にもかかわらず生じる生活の困窮に対する、労働者の自覚と団結によって引き起こされます。ここでマルクス理論では、「市場」の交換過程に関心があるのではなく、搾取労働が行われる生産過程、過剰生産と失業を制御できない生産様式が問題とされ、生産手段の社会化・政治権力の奪取(社会主義社会)をめざします。
つまり、マルクス主義的社会主義は、意識的(契約的)過程ではなく、生産力と生産関係の矛盾、すなわち生産力の発展が低賃金、恐慌、生産の無政府性を拡大するため、必然的に労働者の団結と生産手段の社会化、それに伴う意識的計画的生産が起こるというものです。しかし、恐慌と低賃金が、福祉国家をめざす政府(と中央銀行)の意識的介入によって、多少とも矛盾の調整と制御、すなわち生産力の発展と生産関係の矛盾の低減が可能となり、事実として唯物史観の公式が否定されることになりました。つまり資本主義的生産様式は、マルクスの考えた矛盾をある程度克服し、別の矛盾、すなわち資源エネルギーの偏在・枯渇や環境汚染・温暖化問題、人間による制御困難な原子力開発等にみられる地球的規模での成長・発展の限界に直面しているのです。
では、なぜマルクス的見通しが、誤ってしまったのでしょうか。それは根本には、弁証法論理に見られる西洋的思考様式の限界、ユダヤ・キリスト教的歴史決定論(終末思想)があります。人間の社会契約関係(不等価な交換・取引関係)を、市場の多様性・不均等性の中に見ないで平均的法則性を重視したこと、18〜19世紀の科学と革命と発展の時代であったこと、レーニンの言うようにドイツの哲学、イギリスの経済学、フランスの社会主義の統一が課題とされていたことなどがあげられます。
マルクス主義は、時代の産物であり、西洋思想と伝統の産物であり、合理主義と楽天主義の産物です。 楽天的なところは「空想的共産主義」という名称が全くふさわしいのです。今更、「市場経済を通じて社会主義へ」(綱領)などという方針は、マルクスの真意に反します。それでも不破さん達がそう思っているなら、彼らはマルクス主義者です。様々なキリスト教や仏教があるように、様々なマルクス主義があるのです。しかしマルクス理論に依拠する限り、その理論にもとづく行動は、人間と労働者を抑圧し不幸に陥れることになるでしょう。人間と地球の生産力には限界があるからです。
今回はここまで、次回の予告をしてもそのとおりに進みませんが、ご容赦ください。次回は、市場と不等価交換と社会契約について考えてみます。
前回までは<BW32mpuE76J86> を検索してください。
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