http://www.asyura2.com/11/senkyo123/msg/366.html
Tweet |
沖縄防衛局長「オフレコ報道問題」を考える。官僚に都合のいい「匿名」に頼るからマスコミは信用されなくなった
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/29370
2011年12月09日(金) 長谷川 幸洋「ニュースの深層」:現代ビジネス
防衛省の沖縄防衛局長がマスコミ各社との懇談で不適切な発言をした問題で更迭された。この懇談は非公式とされ、発言内容は報じない前提の、いわゆる「オフレコ懇談」だったが、沖縄の地元紙、琉球新報が局長の実名入りで報じたために公になった。
この「オフレコ破り」をどうみるか。
私はかつて原発事故を起こした東京電力の賠償問題に絡んで資源エネルギー庁長官のオフレコ発言を5月14日付け当コラムhttp://gendai.ismedia.jp/articles/-/4911で報じた。続く17日付けコラムhttp://gendai.ismedia.jp/articles/-/5036で、オフレコについて私の基本的考え方をあきらかにしている。
今度の一件では、東京新聞の署名コラムhttp://www.tokyo-np.co.jp/article/column/ronsetu/CK2011120702000046.htmlで、タイトルに掲げたとおり「オフレコ破りを支持する」私の立場をあきらかにした。するとツイッターや手紙などで、思いのほか多くの反響があった。そこで、あらためてオフレコ問題を考えてみる。先のコラムと合わせてお読みいただきたい。
■官僚に都合のいい「オフレコ」
まず官僚や政治家はオフレコを好む。とくに官僚はテレビカメラも入れた会見室での記者発表以外、原則として記者への対応はぜんぶオフレコといってもいいくらいだ。これは案外、一般に知られていないのではないか。
日本の記者の常識では、官僚と1対1の取材になったら、官僚が「これはオフレコで」なんていちいち断らなくても、相手の実名を伏せるのは当たり前になっている。
わざわざ「日本の」と断ったのは、けっして世界の常識ではないからだ。世界の新聞や通信社は政治家ならもちろんだが、官僚であっても実名を入れるケースが多い。かつて日本に進出した米系通信社が官僚もなにも取材相手はぜんぶ実名で書くように記者に要求し、日本の慣習と違うので、記者たちが「それでは記事が書けない」と頭を抱えていた例がある。欧米メディアも匿名で報じる場合はあるが、その都度「○○は匿名を条件に取材に応じた」などと断り書きを入れたりしている。
官僚がなぜ匿名を求めるかといえば、そのほうが都合がいいからだ。
まず報道によって不都合な事態が起きても、自分個人の責任が問われずに済む。責任はあくまで役所が引き受けるのだ。もっと重要なのは、多少踏み込んだ発言をしても匿名であれば許されると思っている。官僚はオフレコという手法を使うことで、舞台裏に隠れて自分の素顔をさらさずに、役所に都合がいい相場観をズバズバと記者に染み込ませることが可能になるのだ。
普通の取材であっても、記者と暗黙の了解によって匿名性が守られているが、オフレコ懇談となると、実名どころか発言内容もカギカッコ付きの直接引用がされない前提になる。では「まったく懇談内容を書いてはいけないルールなのか」というと、実情はまったく違う。
実は、官僚は書いてほしいのだ。ただし自分の名前と話をカギカッコで直接引用しないという条件付きで。ここがオフレコ問題の核心である。
相手にオフレコと言われたら「まったく書いてはいけないのだ」と思い込んでいる記者もいる。それはナイーブにすぎるというか、はっきり言って分かっちゃいない。官僚や政治家がなんで記者に話すのか。政策や政局を自分の都合がいいように誘導したいからだ。「オフレコ」と断るのは、内容は記者の地の文章で書いてもいいけど「おれが喋ったとは絶対、分からないように書いてね」という意味なのだ。
■オフレコは「漏れる」という前提で話している
たしかに、1対1の取材で「絶対オフレコ」というケースもある。私の経験では、それは表に出たら「自分の身が危ない」という場合がほとんどである。役人だったら飛ばされるか、政治家だったら敵の得点になってしまうか、企業人だったら役員会で守秘義務違反に問われかねないというような事態だ。
それでも話すのは「あなたにだけは真実を理解しておいてもらいたい」と思うからだ。そういうケースでは、私もオフレコを守ってきたし、これからも最大限尊重する。
それでも後日、もはや相手の致命的マイナスにはならないと判断したときは、禁を破って書いた経験もある。なにも書かなければ真実は伝わらない。それでは、記者である私が聞いた意味もないのだ。言い換えれば、本当に「死ぬまでオフレコ」というようなケースはまずめったにないと言っていい(そんなにすごい秘密に触れるほど、私の取材力がないだけかもしれないが)。
特大秘密のような場合を除く普通のオフレコは、繰り返すが官僚も政治家も書かれることを前提に喋っている。ましてや複数の記者との懇談で「絶対に外に漏れない」などと思っている官僚がいるとしたら、本当におめでたいとしか言いようがない。官僚や政治家の側に立てば、漏れることを前提にしなければ、話す意味がないではないか。時間の無駄だ。
今回のケースでも、沖縄防衛局長は政府が沖縄の意向とは関係なく、いわば「無理矢理にでも」米軍普天間飛行場の辺野古移設を目指して動く方針であることを記者たちに伝えたい、そういう政府の強い意思は報じられてもかまわない、という趣旨で話したのではないか。
ただ、自分の実名と発言内容がカギカッコ付きでそのまま出てしまったところが誤算だったのだろう。
■マスコミ報道が信頼されなくなったのは「オフレコ依存症」
では、記者の側はそういう話を聞いたとき、どうすべきか。それは、まず記者個人の判断である。たとえ相手との信頼関係が崩れる心配があったとしても、読者にとって重要と信じるなら、報じるべきだ。報じてみたら、実は崩れなかったという場合もあるだろう。相手との関係がどうなるかを見極めるのも、記者の力量である。1対1で相手に致命的なマイナスが及ぶと思えば、後日、タイミングを選んで書くという選択もある。
記者が複数で相手が1人なら、私は基本的にオフレコは成立しないと考える。だれが破るか分からないし、そういうケースでは「オフレコにしないと自分に害が及ぶ」というより「匿名で記者たちにまとめて相場観を広めたい」という官僚の都合が優先されている事情があきらかであるからだ。とはいえ、聞いた話をぜんぶ書くわけでもないのは当然である。
官僚や政治家がオフレコを好むと最初に書いたが、実は記者も同じくらい、ときにはそれ以上に好む。
相手が「オフレコで」とも言っていないのに、記者が「オフレコでいいですから話してくださいよ」と頼むケースはけっして少なくない。そういって相手の口を緩ませれば、なにかホントの話を言ってくれるのではないかという期待もあるし、自分が秘密を共有して官僚に食い込んだような気になるからだ。
だが、そんな風に安易にオフレコを広めてしまうと、マスコミは自分で自分の首を絞める結果になるだけだ。報道できるのは建前ばかりになって、本音の話は書けない状況に陥ってしまうのである。
実際、マスコミ報道が信用もされず、面白くもなくなってきた大きな理由は、オフレコが広まりすぎたからではないか。なんでもかんでもオフレコ懇談に頼って、肝心の記者会見では質問もせず、ひたすら下を向いてキーボードを叩いてばかり。そんな記者の姿が目立つ。それで懇談内容をぜんぜん書かないのかといえば、記者たちはみなデスクに報告している。
オフレコ破りをして、その結果、二度と複数記者が参加する懇談に呼ばれなくなったとしても、それは記者自身がメリットとデメリットを考えればいい話である。私の経験では、実はまったく困らない。そんな懇談でたいした話は出ないからだ。当たり前である。オフレコだろうがなんだろうが、特大秘密を複数の記者に同時に漏らすような官僚や政治家はいない。
オフレコ懇談で出る話はせいぜい自分が1人でしっかり勉強するか、1対1で話を聞けば分かるくらいの話なのだ。
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
▲このページのTOPへ ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK123掲示板
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。