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TBSテレビの12月4日午前6時から45分までの番組「時事放談」(司会・御厨貴東大先端科学技術研究センター教授=専門・近代日本政治史。東日本大震災復興構想会議議長代理)は、誠に興ざめであった。「野中XS藤井激震消費税政局裏」というテーマで、自民党の野中広務元幹事長と民主党の藤井裕久最高顧問・党税制調査会長が、御厨貴教授の質問に答えるという形式で進行した。
このなかで、野中広務元幹事長が、大阪市長選挙・大阪府知事選挙の「ダブル選挙」で「大阪維新の会」会長である橋下徹・次期市長と幹事長の松井一郎知事が誕生し、自民党・民主党の既成政党(公明党は自由投票)が束になってかかって大敗北したことについて、「大阪人はわからない」とボヤキを並べ、橋下徹・次期市長をこき下ろしていた。反橋下候補の応援に大阪入りしていたのに負けたのが、よほど悔しいのであろう。
だが、これは、野中広務元幹事長が、大阪人の実情を正確に把握していないことの証左であった。大不況下で、大阪市の景気が盛り上がらず、大阪市では、生活保護費受給者が2004年に4万人余りだったのが、現在は15万人余りに膨れ上がり、市民18人に1人の割合になっている惨状が、「大阪維新の会」を率いる橋下徹・次期市長の勝利の背景になっていることを少しも理解していない。
つまりは、「頭の堅さ」をさらけ出していた。大阪人の多くが、既成政党に絶望している現状について、想像力すら働いていない。野中広務元幹事長が、いかに「橋下嫌い」で知られているとはいえ、これはお粗末すぎる。一方、藤井裕久会長は、「消費税増税」「税と社会保障の一体改革」を正当化する主張に終始していた。この増税論には、野中広務元幹事長も同意見で、野田佳彦首相の決断を高く評価していた。
というわけで、この日の「時事放談」の何が「興ざめ」だったのかと言えば、それはただ一言に尽きる。「景気浮揚策」という言葉が、一度も聞かれなかったのだ。司会者の御厨貴東大教授すら、「景気」について質問しなかった。いつも思うのであるが、「TBSの時事放談」と言えば、朝日新聞政治部長出身の細川隆元政治部長と日本経済新聞の小汀利得社長の歯に衣着せぬ毒舌が評判を取った。
世相を切る辛口トークは、文字通り、新聞記者魂を彷彿とさせていた。だから、堂々と政権批判をしていた。だが、いまは、時の権力中枢ないし、それに近い政治家や高級官僚を登場させてばかりいる。いわば、政権のプロパガンダ番組に成り下がってしまっているのだ。
本来、政治は、「景気浮揚策」と「行財政改革」を車の両輪のようにして行うべきである。言い換えれば、「国家国民の収入拡大=五穀豊穣」と「たゆまぬコスト・カット」である。さらに、故事に言い換えれば、「入るを量り、出るを制する」である。ところが、いまは財務省と名前が変わっている旧大蔵官僚出身の藤井裕久会長(元財務相)の口をついて、いつも出てくるのは、「消費税増税」という言葉だ。
まるで「バカの一つ覚え」である。反対に「景気浮揚策」という言葉を聞いたことが、ほとんどない。なぜか?この「老害政治家」は1955年3月、東大法学部卒、4月に大蔵省に入り1976年、主計局主計官を最終役職に退官して、政界入りしている。ここに発想の限界があるのだ。
かつて、大蔵省は、「経済成長政策」の大本山だったことがある。あの日本経済研究所の下村治・元会長(1910年11月27日〜1989年6月29日)の「所得倍増論」を理論的支柱にして、景気浮揚策を果断に打ち出して、経済大国を築いた輝かしい実績がある。所得倍増計画を主導したのが、大蔵事務次官から政界入りした池田勇人元首相(1899年12月3日〜 1965年8月13日)である。
佐藤栄作元首相と並ぶ「吉田学校」の筆頭格。保守合同後は自民党の宏池会の領袖として一派をなし、1960年に首相に就任した池田勇人元首相は1925年に京大法学部を卒業して、大蔵省へ入省した。入省後は地方を廻り、函館税務署長、1929年ら宇都宮税務署長を務める。しかし宇都宮税務署長の時に落葉状天疱瘡を発症したため、大蔵省を休職する。
病気はなかなか治らず、1931年2年間の休職期間が切れたため大蔵省を退職した。奇跡的に病気が完治して、大蔵省からの勧めで新規採用という形で玉造税務署長として復職し、税制関係の地味なポストを歩み続ける。やがて税務を通じた産業界との縁が出来た。熊本税務監督局直税部長、東京税務監督局直税部長、主税局経理課長を経て、主税局国税課長に昇進。東京財務局長を経て、1945年2月に主税局長となり、そのまま終戦を迎えた。
1947年2月、第1次吉田内閣で石橋湛山大蔵大臣の下で、主計局長だった野田卯一を飛び越して、大蔵事務次官に就任した。下村治・元会長は1933年、高等試験行政科試験に合格、1934年、東京帝大経済学部を卒業し大蔵省に入省、1959年に退官するまでの間、経済安定本部物価政策課長、日本銀行政策委員などを歴任した。だが、大蔵省内では、傍流だった。
戦後、「経済変動の乗数分析」により経済学博士号(東北大学)を取得し、独創的な理論経済学者として知られるようになる。そして、大蔵省ではだれも見向きもされなかった「所得倍増論」が池田勇人の耳目に止まり、池田勇人内閣の国民所得倍増計画立案に中心的役割を果たした。もっとも、1973年10月25日の第1次石油ショック以降、ゼロ成長を提言していた。日本の景気サイクルは、1972年10月から「10年の不況」に入っていた。
この不況が終わり、好況に転ずるのは、1982年秋からのこととなる予定だった。時代をひとっ飛びして、今日に至るまでの間、大蔵省、財務省の主流は、主計局が握っていた。主計局は、景気浮揚策には、極めて疎い。税金の配分が主要任務だからだ。バブル経済崩壊後、経済・景気を丸で自然現象でもあるかの如く考え、「景気がよくなれば、税収も増える」と安易に受け止めて、いつも「待ちの姿勢」を続けていた。
だが、景気はいつまでもよくならず、結局、いつもながら、考えているのは、安易な「増税」であった。橋本龍太郎元首相が1997年4月1日、消費税率を「3%→5%」にアップしたものの、これは焼け石に水となり、税収は今日まで下がり続けているのである。このことを軽視してはならないのである。この最大の原因は、旧大蔵省=財務省主流が、いまだに「景気浮揚策」に疎いからである。
金融出動、財政出動という2つの手段の効き目はなく、成す術もないというのが、偏差値72以上、国家公務員甲種試験最上位1番から10番までの日本最優秀高級官僚である財務官僚たちの実に情けない「ザマ」なのである。その代表的大蔵官僚政治家が、無能な藤井裕久最高顧問・民主党税制調査会長だと断定してよい。
http://blog.goo.ne.jp/itagaki-eiken/e/df7e2f20b82266bbd80f9944722bc071
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