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科学的社会主義・日本共産党批判――マルクス主義の反人間(労働者)的・抑圧的本質を批判する。(その7)
http://www.asyura2.com/11/senkyo123/msg/214.html
投稿者 Y. Kakasi 日時 2011 年 12 月 04 日 16:41:23: BW32mpuE76J86
 

 日本共産党の不破さんの古典教室が行われています。毎回紹介していますが、わかりやすいので聴講されることをおすすめします。テキストはエンゲルスの『空想から科学へ』です。政治に関心を持つ人にとっては常識になっているテキストです。
 http://www.jcp.or.jp/kk_kyousitu/

 講義冒頭不破さんは、「マルクスの原点に帰って、社会主義の理論を発展させる」と述べています。Kakasiは、原点が誤っていると考えます。
 不破さんは、「資本主義社会が深刻な矛盾に直面しており、この解決には社会が生産手段を掌握する以外にない」と述べ、地球温暖化や原発爆発を、資本主義の矛盾の現れと捉えています。しかし、これはテキストの「資本主義社会の経済的衝突」を拡大解釈したもので、エンゲルス(マルクス)の「経済的衝突」や「生産力と生産関係の矛盾」は、「成長や制御の限界」を意味しておらず「資本主義の矛盾」とは全く異なります。

 そもそもマルクスの誤りを見抜くことさえできない不破さんに、資本主義の矛盾を見通す力や生産の管理を委ねることを期待するのは困難です。マルクス・エンゲルスにおいても自らの人間理解の限界を認識できないのですから、生産力を社会化することによって、人間(生産者)の認識能力を結合したとしても、今日的な科学技術(生産手段)のすべてと、多様な人間文化と欲望を「生産者・勤労者集団(実は党官僚)」が掌握することは不可能です。
 一般的に、人間の認識や知識、言語の相対性(可謬性)を理解しない人間は、民主社会の指導者(管理者)にふさわしくありません。

 さて、前回までの結論は、「等価交換は、マルクスを含む経済学者の欺瞞・詐欺・絵空事にすぎない」また、「労働者の低賃金は、交換(流通)過程における不等価な交換契約による」というものでした。経済学者が解明できなかったこの結論は、「自由市場経済の欺瞞性」と「新社会契約論」の検討を導くことになります。
 交換価値は、労働力や効用や利潤(損失)が含まれ、市場における交換当事者間の社会的交換交渉(契約)によって決まります。商品の交換価値は、売買当事者間の力関係・交渉能力・交換条件によって決まるので、彼らの置かれた歴史的社会的個人的意識状況が、価値決定に大きな影響を与えます。人間の交換契約における意識(価値観・取引観他)は、社会的存在(立場・状況)に影響されますが、逆に社会的状況を変えることもできるのです。

 交換当事者の「合意」による商品交換は、かつては、経済学者が前提として認めるように合意である限り等価であり合法とされました。しかし今日では自由放任の思想は修正され、独占的契約や不当な労働契約は、合意すること自体が非合法化されています。それは等価であるけれども非合法なのではなく、現実には不等価(低賃金・独占価格等)であるからこそ不公正なものとして非合法化されるようになったのです。
 マルクスは、人間の意識の社会的物質的経済的被拘束性を強調して(唯物史観)、自由放任下の労働力の不等価交換を合法化し、また、反マルクスの市場原理主義者は人間の市場介入を批判します。共に市場への人間の意識的・積極的介入を否定します。マルクス主義は、賃上げや社会改良(福祉増税)よりも政権奪取(革命と選挙)と生産手段の社会化を、反マルクス主義は、賃上げや社会改良(福祉政策)よりも、競争と成長戦略(強者支配と市場原理主義・自生的秩序)を主張します。
 両者ともに「自由市場経済の欺瞞性」と社会的利害関係(意識形態)を自覚させる「社会契約」の必要性について言及することはありません。彼らにとって、市場における具体的人間の契約関係などどうでもよいのです。というか、経済学の役割として、ミクロにせよマクロにせよ全体的な経済社会(の法則性)が問題なのです。その結果、政治経済学の失敗と混迷を招いているのです。・・・・・・

 長くなりましたので今回はここまで、管理人さん悪しからず。
 <BW32mpuE76J86> で検索していただけば、わかりやすいかも・・・。あわせて以下のサイトも参照を・・・・・・。
 http://www.eonet.ne.jp/~human-being/page9.html
 http://www.eonet.ne.jp/~human-being/page10.html
 

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コメント
 
01. 2011年12月04日 17:42:07: EVskgte9f6
>マルクス・エンゲルスにおいても自らの人間理解の限界を認識できないのですから、生産力を社会化することによって、人間(生産者)の認識能力を結合したとしても、今日的な科学技術(生産手段)のすべてと、多様な人間文化と欲望を「生産者・勤労者集団(実は党官僚)」が掌握することは不可能です。

確か、不破さんはマルクスの古典を紐解いて
「共産主義は、生産手段を公共化、消費は個人的。私有財産も認めるもの」
という発言をされていたような(古典教室での発言だったかな)

個々の人間の多様性については、kakasiさんと認識は同じだったのではないかと思います。


02. 2011年12月04日 21:39:41: W1595Y4I7k
断っとくが,日本共産党はマルクス主義でもないよ。
古典であるマルクスの著述から自分たちに都合の良い片言半句を引っ張り出してそれを元に屁理屈を云ってるだけ。
釈迦やキリストの文言を適当に並べて説教しているそこら辺の新興シューキョーとレベルは同じ。
誤解しないように。

03. Y. Kakasi 2011年12月05日 13:12:25: BW32mpuE76J86 : fXOQhCwWGs
01)さん、コメントありがとうございます。
舌足らずの説明が誤解を与えたようです。Kakasiは、マルクス・エンゲルスの人間観・世界観では、人間の多様性を掌握するのは不可能なことを主張しているのです。唯物論や弁証法はもちろん、等価交換や価値法則、唯物史観を科学的に検証しても、決してマルクス理論が正しいことにはなりません。人間の本質である言語の理論が欠如しているからです。不破さんはマルクス同様優れた人間観察者ですが、マルクスの誤りを継承されています。

02)さん、コメントありがとうございます。
マルクス主義の理解にも色々あります。共産党は、マルクス主義を現代社会に創造的に適用しようとしています。その意味でマルクス主義なのです。誤解されないように。
>そこら辺の新興シューキョーとレベルは同じ。
→というのは、言い過ぎでしょう。誰にも誤解や信仰というものがありますが、新興宗教法人は、税金ドロボーですよ。
混同されないように。

04. 天橋立の愚痴人間 2011年12月05日 16:55:54: l4kCIkFZHQm9g : M1dRyg1AKE
Y. Kakasi さん、

>マルクス・エンゲルスの人間観・世界観では、人間の多様性を掌握するのは不可能なことを主張しているのです。

貴方のように理論的に説明できませんが、この一点のマルクスの評価について同じように考えてきました。

今を去ること40年以上前、学生であったころは、まだ左翼運動が活発なときでした。

共産主義が言うところの公平性について、明らかな疑問があったのです。
小学生のような例えですが、住宅地を選ぶなら、誰でも湘南のような場所や、都心に近い良い環境の地を希望します。

金は公平に分け与えることが出来たとしても土地など自由に作り出せないものの配分はどのようになるかと考えた時、
誰もが希望する土地の所有権は、抽選でもしなければならず、抽選したとしても、その家族が代々引き継ぐ理由があるのか。

もしくは、そのような土地について価格を上げて購入出来る財力のあるものに譲渡するかです。
この場合、労働者の立場から言えば、高所得を得られる地位にいなければならず、その地位の取り合いが始まる。
結局は、特別の価値のあるものを手に入れるため、競争が生じ、それも公平な競争ならともかく、1党独裁であるならば、結局は権力争いか、コネが横行する社会となると思いました。

それと、全ての活動の価値を一定の基準で定め、本人の能力に比例する評価が必要以上に施行されると、能力のないものは、完全に追い詰められてしまいます。
資本主義社会で見られるような、親の七光りで金持ちになったり、偶然に成功する方が、成功しないものにとって、自分は運がなかったと、自身に言い訳できるのです。
お前は能力にかけるので、お前の立場は当然だと、決め付けられるよりは
同じように弱者に甘んじても、個人個人に逃げが取れるシステムの方が、よほど住みよい社会であると思いました。

当時、マルクス主義をどんなに説明されても、本を読んでも、これに答える何もありませんでした。

結局は、貴方が言われているような人間性の把握をマルクス主義は手を抜いて考えていたのです。

マルクス共産主義は、壮大なペテンの実験であったと思います。


05. 2011年12月05日 18:05:24: eJZDFF7GeM
>人間の本質である言語の理論が欠如しているからです。

↑が充足されれば人間の多様性を掌握できるとでも?
「人間の多様性」が何を指してるのか曖昧ですが、
タブララーザでなく生得的な存在と捕らえてのことでしょうか?
その場合根拠はどこにありますか?
前にも書きましたが言語学とマルクスを繋ぐのは飛躍があるのではないでしょうか。

>一般的に、人間の認識や知識、言語の相対性(可謬性)を理解しない人間は、民主社会の指導者(管理者)にふさわしくありません。

社会言語学やウィトゲンシュタインの言語ゲーム的視座を相対性、他者理解とみなして指しておられるんだとは思いますが、指導うんぬんとは
射程がそもそも違うのみで、それらを繋ぐ方が不自然だと思います。


06. 2011年12月05日 18:16:52: eJZDFF7GeM
>>04
>同じように弱者に甘んじても、個人個人に逃げが取れるシステムの方が、よほど住みよい社会であると思いました。

その通りだと思います。
そもそも科学や学問の発達が自らの首を絞めている。
フハさんはそのことに無自覚ですが、原始共産制はそれなりの可能性を感じます。
柄谷行人も反グロ-バリズム、地域貨幣運動などの挫折から、ハンナアーレントの
説く古代ギリシアのイオニア期、イソノミア(無支配)に注目し、民主主義とは似て否なるものとして近著で可能性を見出していますね。


07. 2011年12月05日 21:06:19: Cn0qXXgr4Q
不破さんは古典教室で自分の力を発揮しているようだが国民はデフレ経済や原発事故、アメリカへの隷属に苦しんでいる。不破さんはまだ日本共産党の幹部であり、日本共産党の現状の一番の責任者であるはずだ。科学的社会主義の人というなら当面の問題の解決に力を注ぐべきではないのか。理論も結構だが実践こそが国民の共感や支持を得るもの。引退してから古典教室を開くなら誰も文句は言わない。

08. 一隅より 2011年12月05日 21:10:01: PnbUj1IYwR18o : ErQdBkXZLA
柄谷行人氏が、「古代ギリシアのイオニア期、イソノミア(無支配)に注目し、民主主義とは似て否なるもの」とみて、それを研究したりするのはどうぞお好きなように。
しかし、いつもいつもそこに「可能性を見出し」たりする前に、もっとじっくり研究してくれ。


「哲学者たちは世界をただ様々に解釈してきただけだ。しかし問題はそんなことではなくて、それを変革することなのだ。」(マルクス)

柄谷氏は、またまた(今度は古代ギリシャが)どうだこうだと言いだす前に、上の命題に(間違っているなら間違っていると根拠を示して)答えるべきでしょうね。

(多くのマルクス主義に取り組んでいる人たち〔これを根底的に批判することが必要だと考えている人も、これを発展的に受けてさらに考えようとしている人も〕のことではありません。
ただ少なくとも柄谷行人は、この命題に答える必要がある。もっとも、柄谷行人が哲学者かどうかは知らないが。)


09. 2011年12月05日 21:36:18: eJZDFF7GeM
>>08
柄谷支持として引用していないのは流れから読めるはずですが、
なぜここでそういう問いへ行くのか不明。
個人的にアーレントは支持するが、南無でズッコケタ柄谷はかつて共産主義宣言の訳本だしたりメディア受けのよい有名人という点で例にだしたまで。。
イソノミアは柄谷からでたアイデアではない。

そもそもスレ主に聞きたいことは、科学的といわれる<事物を対象化する視座>から「人間の多様性」を語るのは無理でしょう?ということ。
語り手は何処に定位するのか?相互主観性、間主観的な問題。
言語にこだわるなら、マルクスでなく、ハイデガーやデリダの側から政治を論じる方がよほどスムーズ。
古典がいいなら古代ギリシアか、中世オッカム等の普遍論争かな。



10. 2011年12月05日 22:00:16: EVskgte9f6
等価交換が理想論という指摘には共感します。
マルクスの論には色々ツッコミどころがあることでしょう。

ただ、その一方で、不破さんのマルクスの再構築に希望を感じるのも事実です。

たとえば、住みよい社会についての意見が >>04 >>06 で出ました。

不破さんの読み解き方によれば、マルクスの主張は弱者に対する生活保障も含んでいます。以下、ちょっと長くなりますが。

不破さんによると(というか、マルクスによると)社会の発展というのは、経済活動をより進展させるために必然的に起こるものである。原始共産制、奴隷制、封建制、資本制へと変わってきたのは人間生活の物質的充足を目指して必然的に生じた変化である。
特に、封建時代では、人々は自分(の家族)を養うための労働と、君主への奉仕労働(余剰価値)が明確に分かれていた。それが資本制(分業化)が進むにつれて渾然一体となった。だから、資本は労働者に生活を保障するだけの賃金を与える義務を負う。

これが不破さん的マルクス論の再構築なのだと思います

ですので、不破さんとしては福祉(別の言い方をすれば人々が己の家族その他を再生産するために必要な費用)は資本(あるいは国家)が与えることが義務である。つまりJCP的解釈では、共産主義は福祉を包含する、ということになるのかな。


その一方で、不破さんの思想に多少の不安を感じるのも事実です。

たとえば、不破さんはマルクスと同じく、社会発展の必然として共産主義に到達するという見解を持っていると思います。簡単に言えば、すべての人が思索を巡らして賢明な判断をすれば、資本主義の次は共産主義になるはずである、という主張だと思います。そこが幾分、楽観的に過ぎるような気がしなくもありません。もちろん楽観的に事が進めば嬉しいのですが。


11. 一隅より 2011年12月05日 22:27:24: PnbUj1IYwR18o : ErQdBkXZLA
>>09さん

08です。
失礼しました。あなたが柄谷支持として引用していないことは読んだうえで、ただ柄谷氏の批判をしたかっただけです。たとえば、つぎつぎと「メディア受けのよい」ようなやりかたとか。
「多くのマルクス主義に取り組んでいる人たち・・・のことではありません」も、そのつもり(柄谷以外のことではない、のつもり)でした。

後半のところは、ご質問が難しくて、すぐには答えられません。
だから、すみません、逆質問しかできません。
なぜ、「<事物を対象化する視座>から「人間の多様性」を語るのは無理」なのでしょうか。
私は、そんなことはない、と思うのですが。

そもそも「人間の多様性」とは、そんなに(アプリオリに前提できるほど)重要なものでしょうか。

多様なところは各々豊かに開花させればよい。いわば、芸術の領域です。
科学の領域は、人間が共通して悩み苦しんでいる部分を解決するところにあるのではないでしょうか。


12. 2011年12月05日 23:03:17: Gu87UlSDTo
>>11
後半のことはカカシさんへの問いです。


>そもそも「人間の多様性」とは、そんなに(アプリオリに前提できるほど)重要なものでしょうか。

その問いを前の方でカカシさんに問うています。
生得的であるかのような印象を受けます。

>多様なところは各々豊かに開花させればよい。
一隅さんは経験論に立たれるということですね。

>いわば、芸術の領域です。
芸術という言葉は曖昧で、
古代、中世、近現代ではそれぞれ意味が異なります。
おそらく造形という意味で使われていると思いますが。
本題から外れますが自律した芸術家は現代以降にしか存在しません。
それ以前は作動させる主体が外在してはじめて成立していました。
(政治や宗教、パトロンなど。)


>科学の領域は、人間が共通して悩み苦しんでいる部分を解決するところにあるのではないでしょうか。
動機の問題ではなくて、科学という形式のことを言っています。
科学は観測者と対象物を必要とします。
人間の多様性を語る主体は誰なのか?(神とでもいうのか?)ということです。
科学は「非人称」で語ります。記述形式です。しかし人は一人称で語ります。


13. 一隅より 2011年12月05日 23:28:27: PnbUj1IYwR18o : ErQdBkXZLA
>>12さん

「後半」のことは、私のかん違いでした。

でもカン違いのおかげで、いろいろ幅広い視点でのご意見をうかがうことができました。(また考えます。)


14. 天橋立の愚痴人間 2011年12月05日 23:44:56: l4kCIkFZHQm9g : M1dRyg1AKE
10 さん、

>すべての人が思索を巡らして賢明な判断をすれば、資本主義の次は共産主義になるはずである、という主張だと思います。そこが幾分、楽観的に過ぎるような気がしなくもありません。もちろん楽観的に事が進めば嬉しいのですが。

資本主義の次は共産主義になると言うくだりは、ある意味、うなづけることが出来ます。

その意味は、資本主義と言うよりも科学の発達で、人間が必要とする殆どのものを工場生産で、しかもロボット化で生産するようになると、人々は雇用もなくなり、競争することも出来ません。

そうした人類が数十億もいると、彼等に生活をさせるためには、無料の物資の供給か、それともそれを手に入れるための仮想の仕事、ないしは軽作業を国家が作り出さねばなりません。

これは、明らかに計画経済であり、共産主義のシステムといえます。
そうして、共産主義のシステムで人々の生活を維持することが出来たとして、この様な退屈な世界が、果たして人類にとっての理想郷と言えるでしょうか。

殆どの人たちは、人生で緊張することは稀になり、弛緩した精神生活を送ることになります。
人間性を考えると、これこそが最も非人間的なシステムであり、天国どころか地獄の一丁目で暮らしているようなものです。

家族などの生活単位は希薄になり、身勝手な犯罪、特に性犯罪、殺人が横行し、麻薬が蔓延る社会となって行くでしょう。

原始共産主義社会はともかく、理想的な共産主義となることこそ人類の恐怖の的といえます。

そのような社会となるには、まだ数百年先のことであり、今、心配することもないでしょうが、少なくとも共産主義のシステムを理想とすることは避けたいものですね。

マルクスは、何故、そこまで考えなかったのか、
おそらく科学の発達は、彼にとって予想外であったのでしょう。
資本主義の将来は見えていても。


15. Y. Kakasi 2011年12月06日 18:30:27: BW32mpuE76J86 : fXOQhCwWGs
コメントありがとうございます。
05)さんの
>「人間の多様性」が何を指してるのか曖昧ですが、
人間の多様性とは、市場における商品交換が等価(労働価値説)でなく、商品交換者の多様な条件(効用、欲望、労働、利益、生活等々)による取引で決まるということです。つまり価値観、市場の多様性の多様性です。
05)さんは、言語論にこだわっておられるようですが、Kakasiはそれほど込み入ったことではなく、 マルクス主義の労働(生産)価値説のように人間を誤って規定する独断的な理論を前提にすれば、「民主集中性」のような、似非民主主義(独裁)になってしまうということが言いたいのです。なお、「生命言語説」は、言語認識(意味理解)自体の相対性を前提にしています。
参照→ http://www.eonet.ne.jp/~human-being/page5.html

09)さんの議論は難しい。ハイデガー批判は、下記HPをご覧ください。
参照→http://www.eonet.ne.jp/~human-being/sub1.html

10)さんは、JCPに好意的で、Kakasiもそれに近くありたいとは思うのですが、「等価交換が理想論」ではないことを厳密に解明しないと、人間の解放ではなく抑圧の理論になることを指摘したいのです。つまり「等価交換=等労働量交換=労働価値法則」が、人間(経済学者一般)の判断の結果でありながら、逆に、人間の社会的判断(意識)を規定するものであるという決定論となり、結局、労働という概念が、人間の自由な判断や創造的な認識能力を抑圧することになると考えるからです。

11)一隅よりさん、「人間の多様性」は、科学的領域にとってきわめて重要です。社会科学は人間の社会的多様性の中から、事物を対象化することによって、共通的・法則的・普遍的原理を見いだすものです。現実の市場は複雑多様なのですが、マルクス達経済学者は、その多様性の中から「等価交換」という虚偽の(欺瞞に満ちた)原理を見いだしました。彼らが、西洋的・ロゴス(合理)的偏見(限界)の中で思考していたからです。 参照→http://www.eonet.ne.jp/~human-being/page6.html

12)さん
>科学は「非人称」で語ります。
→という指摘はとても興味深いです。ロゴス的思考様式では、「非人称」的法則・原理すなわち「知識の体系Wissenschft、science」の獲得を追求したからです。しかし今日では科学とは実証科学が主流であって、一人称で語るのは単なる主観的知識になります。

愚痴人間さん
>共産主義のシステムで人々の生活を維持することが出来たとして、この様な退屈な世界が、果たして人類にとっての理想郷と言えるでしょうか。
→愚痴人間さんらしい指摘で、マルクスもびっくりしていると思います。近代的合理的発想では、退屈な世界はないのでしょう。東洋的発想の共産主義システムであると思いますが、成長と環境の限界によって、とても退屈とは言えない社会になるのではないでしょうか。


16. 2011年12月06日 22:50:40: EVskgte9f6
>10)さんは、JCPに好意的で、Kakasiもそれに近くありたいとは思うのですが、「等価交換が理想論」ではないことを厳密に解明しないと、人間の解放ではなく抑圧の理論になることを指摘したいのです。つまり「等価交換=等労働量交換=労働価値法則」が、人間(経済学者一般)の判断の結果でありながら、逆に、人間の社会的判断(意識)を規定するものであるという決定論となり、結局、労働という概念が、人間の自由な判断や創造的な認識能力を抑圧することになると考えるからです。

言語論については、私はソシュールの分析が一番的を射ていると思いますが、そこはそれぞれ判断があると思います。それはそうとして、「「等価交換が理想論」ではないことを厳密に解明」というのは無理だと思います。語義からして「等しい価値」という言葉の「価値」が、人間が規定するものであるからして、等価であるかどうかは状況次第で幾らでも変わります。

例えば、リチウムやジルコニウムがレアメタルとして価値を持つと考えられるようになったのは最近のことです。大容量の二次電池や強力なモーターが必要とされるようになって初めて価値が生まれました。他にもRSA暗号で使われている整数論は100年近い歳月が経ってようやく評価されたものです(とある人に言わせれば「整数論が初めて経済的価値を持った」)。

人間が人間であるゆえの不確かさをJCPは理解しているから、JCPは『確かな野党』を標榜しているのではないかと思います。つまり完全でないことを自覚しているから与党になろうとは思わない。尤も、そういう優等生的態度が世論の反感を引き起こしていることも事実ではありますが。


それと、共産主義の社会的必然性について私の考えをかいつまんで述べますと、

1)生産手段の共有化は、分業化が発展するにつれて困難になる。例えば、自動車や携帯電話を作るための技術を全て理解するには大変な労力が必要となる。ある日突然、自由に工場を使っていいよ、と言われても使いこなせるわけがない

2)上記に記したように、共産主義というのが(不破さんの言うとおり)全ての人が創造的作業に貢献する社会だとすると、これは人々に、永遠の切磋琢磨を要求するものであり、ある意味大変な苦労を伴うものである。もちろん、その結果得られるものは現在の資本主義体制を超えるものであることは間違い無いのですが

3)共産制が資本制の論理的帰結であることを納得するには、マルクスど同じ程度の、とは言いませんが、それに順ずるほどの洞察が必要になります。これを全ての人に求めることが可能なのでしょうか。もし不可能だとすると、生産手段の独占に回帰する人が必ず現れ、共産主義は実現しません。

上記の理由から、社会的必然としての共産主義への移行は、まだまだ時代的な準備が整っているとは思えないのが正直な感想です。


17. Y. Kakasi 2011年12月07日 00:29:44: BW32mpuE76J86 : fXOQhCwWGs
16) EVskgte9f6さん コメントありがとうございます。
マルクスについても詳しいようなので、「等価交換による剰余価値の搾取」についてぜひご意見をお聞かせください。Kakasiは、剰余価値は交換過程で、つまり資本家と労働者の不等価な契約によって行われていると考えますが、どうでしょうか。

また、Kakasiは、JCPのような「空想的共産主義」はありえても、マルクス的共産主義はあり得ないと考えますが、どうでしょうか。 次回の投稿時にでもご意見をください。


18. 2011年12月07日 00:49:56: xW2u8Ge1ks
>しかし今日では科学とは実証科学が主流であって、一人称で語るのは単なる主観的知識になります。

当然です。しかし民主主義において人々は各々一人称で語るでしょう。
政治の世界でも、革命を目指すにせよ、非人称な科学的視座は
調査や研究はできても、社会変革の動力それ自体とは何の関係もない。

そもそも政治において観察者と対象物という
科学の視座、フレームワーク自体を問題視しています。
フハさんにしろ、
科学的視座で経済の精緻化はできるとしても、近代史観をまるで反省しない
姿勢のままで社会変革や人々を救済できると盲信していることにあきれます。

クロポトキンの相互扶助論などを、よむとそれぞれの時代にそれぞれの方法で
豊かな助け合いがあったようです。近代以降はむしろ鈍化しているように思います。



19. 2011年12月07日 10:21:17: FUviF2HWlS
>>14

>家族などの生活単位は希薄になり、身勝手な犯罪、特に性犯罪、殺人が横行し、麻薬が蔓延る社会となって行くでしょう。

古来、戦争は若者には規律を正し、享楽に飽きて退屈に倦む庶民を覚醒して来た。


20. 2011年12月08日 22:27:11: EVskgte9f6
>>17 さん

私は決して共産主義に詳しいわけじゃありませんが、私なりに考えてみました。

等価交換についてはマルクスも色々考えたようでして、最初の頃は市場における等価交換を原則と考えていた節があります。ですが、それでは説明の付かないことが多くなるとして、等価交換から労働時間との交換へ、さらに労働能力との交換へ、そして社会の平均的な生活水準を維持する考え方へと変遷してきたように思います(この点に関しては不破さんが説明されたとおりだと思います)。

結果として、マルクスは資本による搾取を主張しました。それは、等価交換を根拠にするのではなく、労働階級の再生産(つまり家族を持ちそれを扶養すること)のため資本家が資材を提供しないことを搾取と呼ぶようになったのだと思います。


で、話は変わりますが、
『空想的社会(あるいは共産)主義』という言葉は、マルクスが「論理的に突き詰めて考えなかったことが原因で失敗した思想」を指摘した言葉でして、おそらくはkakasiさんが考えられていることとは別の思想だと思います。

私が思うに、kakasiさんは、マルクスが当時主張していたような形の共産主義は実現しそうにないが、JCPが再構築した共産主義なら実現するのではないだろうか、と仰っているのだと思います。それを仮定した上で言いますと、実のところマルクスは私有財産制を否定しなかったし、人間の善性(理性)を前提とする社会体制を肯定することもなかったと思います。JCPはマルクスの思想のある意味正当な後継者であり、その意味でマルクス的共産主義もJCP的共産主義も同時にありうるものではないかなと思います。
と、言いますのもマルクスは最期まで思想家として生きた人です。決して革命運動の実行部隊ではなかった。レーニンや毛沢東のような実行部隊(革命家)がマルクスの思想に(言い方が悪いですが)乗じて人々を動かしたというのが真相だと思います。


さらに話は変わりますが。
私が思うにクロポトキンにせよマルクスにせよ、色々考えた結果の共産的(相互扶助的あるいは生産手段の共有)思想にたどり着いたわけで、大枠では相当近い結論に達したのではないかと思います。志を一つにする人たちだったろうと思います。

それと、戦争は若者に規律を正したわけではないと思います。
戦時中は強奪・強姦を公式に認める軍隊が多数存在しました。たとえ軍隊の過半数がそうではなかったとしても、非戦時下の通常の市民生活において許される以上の強奪と強姦を認めたことは、殆どの人は異存がないことと思います。
戦争の効果というのは主にテロリズムに近いものだと私は思います。


21. Y. Kakasi 2011年12月17日 17:09:01: BW32mpuE76J86 : fXOQhCwWGs
20)さん 遡ってコメントを発見しました。重ねてのコメントありがとうございます。 

>JCPが再構築した共産主義なら実現するのではないだろうか、と仰っているの>だと思います。
→というのは誤解です。JCPが、マルクスの「等価交換による剰余価値説」と「唯物史観」の欠陥・誤りを認めて修正・放棄しても、共産主義は一部のサークル(党派)的な活動に終わるだろうと思います。人類社会を民主主義に運営するには、「能力に応じて働き、欲望に応じてとる」という共産主義の原理では限界があります。欲望は無限であり、地球と人類は有限だからです。


22. 2012年11月27日 17:17:36 : wXPShKYgaw
(その7)につづく。よろしく。kakasi
 ⇒ http://www.asyura2.com/11/senkyo123/msg/214.html

23. 2012年11月27日 17:27:47 : wXPShKYgaw

訂正⇒(その8)につづく、でした。
   ⇒ http://www.asyura2.com/11/senkyo123/msg/362.html
 

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