http://www.asyura2.com/11/senkyo123/msg/153.html
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もやもやしている。
今回もわかりにくい話を書かねばならない。
「まとまりがない」「長い」「何を言いたいのかわからない」というコメントが、毎週、何通か届く。
ご指摘の通りだと思う。
文章を「情報伝達のツール」であるとする考え方からすれば、私が本欄に書いている原稿は、かなり完成度の低いドキュメントということになる。でなくても、ビジネス文書の作文法としては失格だろう。
しかしながら、文章は、情報を伝達する以前に、人間が思考を展開する際のベースになるものだ。
自分の考えがはっきりしていないことがものを書く動機になるケースすらある。人は、文章を書くことによってはじめて、自分の精神と真に直面することができる生き物だからだ。その意味では、必ずしも一本道の論理だけが尊いわけではない。たとえば落語のように、要約不能な「行間」や、内容とは別次元の「ニュアンス」に真価を宿しているタイプのコンテンツもある。文学と呼ばれるものは、おしなべてそういうできあがりかたをしている。自分が書いている原稿を文学だと言い張るつもりはないが、コラムは報告書ではない。営業日報よりは落語に近い。何が言いたいのかわからないのは、むしろ当然だ。私自身、自分が何を言いたいのかを知るために原稿を書いていたりするわけだし。
なお、本欄のテキストの長大化傾向について、「原稿料の水増しを意図しているのではないか」という疑念が何度か寄せられているが、それは誤解だ。当コラムの原稿料は従量制ではない。一本いくらの定額制だ。書き手にとっては、たくさん書くほど、行数あたりの単価が下がる仕様になっている。それでもなお私が毎回長い文章を書いているのは、考えがカタチをなすまでに、それだけの道筋が必要だからだ。他意はない。つきあいきれない人は、アタマが良すぎるのか、でなければ悪すぎるのだと思う。
今回書こうとしている主題は、文章に簡潔さを求める声と無縁ではない。
この数カ月、私は、「明瞭さ」「効率」「果断さ」「クイックネス」「簡潔さ」「一貫性」「合理性」を求める声に、毎日のように直面している。上記の単語を列挙しているのは、当コラムのコメント欄に感想を書きこんでくる面々だけではない。日本中の、実に多様な立場の人々が、同じような声をあげている。
私には、彼らの性急さがいったいどこからやってくるのか、それがよくわからない。単に私が浮世離れしているのか、でなければ、時代遅れの人間になりつつあるのか。答えはいまだに見つかってない。
オリンパス問題、TPP、暴対法、大阪での選挙結果、自転車の車道通行問題、各種のコンプライアンス関連事案――思うに、これらのヘッドラインは、いずれも同じ課題をはらんでいる。すなわち、ここに列挙した話題は、すべて、「グレーゾーン」に対する寛容さの欠如に関連しているのだ。
私たちは、自分たちの中にある「日本的」な、「なあなあ」の、「曖昧」で「無原則」なあれこれについて、うしろめたさに似た感覚を抱いている。そして、その一方で、グレーゾーンを取っ払う作業にうんざりしてきてもいる。別の言い方をするなら、われわれの社会は、白と黒との境界領域にある、「不明瞭さ」や「不効率」や「ルーズさ」に対して、鷹揚に構える余裕を失っており、他方、グローバリズムに取り込まれたローカルな組織に独特な、無力感に苛まれているのだ。
大阪の選挙の結果については、様々な分析が出回っている。
「旧弊な秩序に若い世代が反発した」
「非効率な行政サービスと煩雑な意思決定プロセスへの不満が極点に達した」
「既得権益層というバーチャルな悪役を設定し、その仮想的に対する敵意を集票装置として利用することに成功した橋下陣営の作戦勝ち」
「橋下氏の個人的なキャラクターが政策論争を無効化した」
「橋下氏に対する週刊誌の人身攻撃が逆効果に働いた」
「争点が拡散した結果、選挙戦自体が単純な人気投票に終始してしまった」
「平松陣営は、自民、民主、共産、公明といった既存政党の後押しを受けたことで、皮肉なことに、最大の票田である『支持政党無し』層を敵に回すことになった」
「東京のメディアの過剰報道ぶりが大阪府民/市民の態度を硬直化させた」
……どの見方も、少しずつ当たっていると思う。
私自身は、橋下氏の言動や政治姿勢を評価していない。乱暴だと思っている。
が、結果が出た以上、選挙民の判断は尊重せねばならないと考えてもいる。すなわち、橋下陣営が打ち出した「維新」「改革」「効率化」というメッセージが、大阪に住む人たちの心を捉えた事実は、認めざるを得ないということだ。
もっとも、「維新」なり、「改革」なりの真価が判明するのは、ずっと先の話だ。それゆえ、今回の選挙結果についての最終的な評価は、しばらく、先送りということになる。
案外、私の懸念を裏切って、維新は、ポジティブな結果を生むかもしれない。
どっちにしても、先のことは誰にもわからない。
私が心配しているのは、今回の選挙結果を受けて、大阪以外の自治体および、中央の政界が、性急なシフトチェンジをするかもしれないことだ。
「維新」の成否は、十年待たないとわからない。
が、選挙の結果は、既に出ている。
と、街頭で生首を晒しているカタチの候補者たちは、目先の票数に反応せざるを得ない。ということはつまり、「維新」「改革」「小さな政府」「新自由主義」「市場原理」「政治主導」「官僚支配の打破」「教育改革」といったキーワードがこれからしばらくの間、力を持つ可能性があるわけで、これは、案外大きな分水嶺かもしれないのである。
民主主義は、元来、まだるっこしいものだ。
デモクラシーは、意思決定のプロセスに多様な民意を反映させるべく、徐々に洗練を加えてきたシステムで、そうである以上、原理的に、効率やスピードよりも、慎重さと安全に重心を置いているからだ。
短気な人たちは、結果を待つことができない。
彼らは「強力なリーダーシップ」や、「スピーディーな意思決定」や「果断な実行力」を求める。
そのこと自体は、悪いことではない。
判断は遅いより早い方が良いのだし、ある種の政策は、時宜を逸すると実効性を失ってしまう。その意味で、橋下さんの言う「独裁と言えるような強い実行力」が求められる場面は、たしかに存在する。おそらく、国中の至るところに。
しかしながら、劇薬には副作用がつきもので、その一部は、はやくも現れている。
11月28日付のasahi.comは次のように伝えている。
《――前略――橋下氏の当選確定後のあいさつは、市職員への「宣戦布告」で口火を切った。
「『選挙で受かったくらいで何でも決められたら困るな』という市職員はたくさんいる。選挙で選ばれた者に対する配慮が欠けている」。橋下氏は激しく職員批判を続けた。
ダブル選の意味づけを「市役所と真っ向から対立し、有権者が我々の主張を選んだ」と自ら認定。「この結論は非常に重い。職員の問題は徹底的に解明し、組織を変えていきたい」と民意を盾に市役所でも府庁と同様、政治主導を貫く姿勢を鮮明にした。
「民意を無視する職員は大阪市役所から去ってもらう」と告げる一方、「民意に基づいて市政をしっかりやろうと考える職員とは必死にやる」とも述べ、職員に立場を鮮明にするよう迫った。――後略――》
さらに、11月30日のデイリースポーツはこういう記事を載せている
《橋下氏は08年2月、府知事選当選後の初登庁の際、府職員に対し「破産会社の従業員という認識を持って」と発言し、話題となった。この日は「今ここで言っちゃったら意味がないじゃないですか」と笑いながらも、「(市職員にも)言わなきゃダメでしょうね」と再度の“爆弾発言”を予告した。
さらに「公務員試験に通ったからといって、自分や家族が社会的に抹殺されるかという危険まで受けながら人生を送っているわけではないので、勘違いしちゃいけません。リスクを取る方が決定権を持つのは当たり前」と自ら通ってきた“イバラの道”を引き合いに出した。――後略――》
「試験に通った人たち」(官僚)を、「選挙で選ばれた人間」(政治家)が支配することが、「政治主導」の実体的な姿だというところまではわかる。
これは、ある意味で当然の話だ。
行政の実務を官僚が握っているのだとしても、その権益は、選挙を経た政治家の手の内にある。
が、試験に通った人間を「既得権益者」と呼んで敵視することで、「民意」を糾合する政治手法は、やはり不穏当だと思うし、政治家が官僚を敵視することを選挙民が支持しているかに見える現状は、革命前夜(あるいは「維新の会」の真意は本当に「革命」それ自体を志向しているのかもしれない)みたいで気味が悪い。
個人的には、橋下さんのやり方は、古いタイプの国家主義者が、周辺国を仮想敵国と見なすことで好戦的な世論を醸成した手法と似ているように思う。
橋下市長の場合、「隣人」(官僚、不正受給者、日教組、エセ同和などなど)を「既得権益者」と呼ぶことで、改革の機運を煽っている。この手法は、追随者を生むかもしれない。応用がききそうだし。とてもいやな感じだ。
市役所の職員との間で、摩擦が起こることは、橋下新市長を支持した大阪の人たちにしてみれば、先刻承知だったはずだ。彼らは、市政が停滞を続けるリスクよりは、各所で軋轢が起こるリスクの方を選択したということなのであろう。
それに、橋下市長ならびに維新の会の面々が、これから先、行政や教育の現場で生じるであろう各種のトラブルを、前向きな方向で解決して行くことができるのであれば、「維新」は、大筋において成功したことになる。
でも、私は、「維新」なり「改革」が、そんなに簡単に結実するとは思っていない。
正直に申し上げれば、非常に悲観的な観測を抱いている。
民主主義の政体に果断さや効率を求めるのは、そもそも無いものねだりだ。
逆に言えば、それら(スピードと効率)は、民主主義自体の死と引き換えにでないと、手に入れることができない。
民主主義は、そもそも「豊かさ」の結果であって、原因ではない。つまり、民主主義は豊かさをもたらすわけではないのだ。それがもたらすのは、まだるっこしい公正さと、非効率な安全と、一種官僚的なセーフティーネットで、言い方を変えるなら、市民社会に公正さと安全をもたらすためには、相応の時間と忍耐が必要だということになる。結局のところ、われわれは、全員が少しずつ我慢するという方法でしか、公正な社会を実現することはできないのだ。
性急な結果を求める人々は、官僚のクビを切ることや、学校教育に競争原理を持ち込むことで、短兵急な改革を実現しようとする。
で、持ち出してくるのが、市場原理主義の考え方だ。
若い人たちは、民主主義と市場原理を同じひとつの社会システムだと考えているのかもしれない。
それらは、似ているようでいて、まるで違う。
ある場面では正反対だ。
民主主義の多数決原理は、市場原理における淘汰の過程とよく似ているように見える。が、民主主義は、少数意見を排除するシステムではない。むしろ、少数意見を反映する機構をその内部に持っていないと機能しないようにできている。だからこそそれは効率とは縁遠いのだ。
市場は、競争を促し、競争はそれに携わる者に効率と生産性を分かち与える。結果、市場の試練を経た商品と労働力は、生産性と品質の向上を果たし、かくして、市民社会は豊かな果実を手に入れる――というこのおとぎ話が一応真実であるのだとしても、それは、相手が市場競争に最適化された商品である場合に限られる。
市場競争の根本は、「淘汰」の過程にある。
粗悪な商品や割高な製品は、市場を通じて淘汰される。これは正しい過程だ。淘汰ということを通して、市場はより先鋭化し、商品はより高い競争力を身につける。
が、淘汰の相手が人間である場合、話は単純には進まない。
最もシンプルな労働力市場を想定すれば、優秀な人間が引き上げられ、劣等な労働者が市場から排除されることは、別段不道徳ななりゆきには見えない。
仕事の優劣が、営業マンにおける売上高や、キャバ嬢における指名数のような、ソーティング可能な数字であれば、労働力と言えども、市場競争にさらされることで順次向上していくことだろう。
が、人間の労働は、数値化できるものばかりではない。標準化も序列化もできないものはできない。市場も一様ではない。必ずしも、価格や品質だけが競争の実態であるわけではない。
たとえばの話、官僚の働きぶりは、上司が査定するほかにどうしようもないわけだが、その査定の基準を策定するのが政治家で、査定結果を利用するのが首長である場合、官僚機構には、露骨な支配・被支配の上下関係が形成されることになる。
しかも、数値化や測定に向かない能力の優劣は、査定される側の勤務態度や資質よりも、査定する者の人間性や、双方の関係のありようにより大きく依存している。ということは、事実上「従順であるかどうか」が、勤労者の優劣を分かつわけで、だとすると、この職場はスターリニズムの中の市民社会とそんなに変わらないものになる。
それで良い職場もある。
たとえば、軍隊のような組織では、個々の軍人の判断よりも、指揮系統に沿った上位下達の命令が優先される。そうでないと、軍は軍であることができない。だから、軍人の評価は、一方的であって差し支えない。
しかしながら、たとえば、教員の仕事は、二等兵が上等兵の指示を仰ぎ、上等兵が軍曹の命令に従うみたいなカタチで万事遺漏なく具現化できるものではない。むしろ、個々の教員が個々の生徒に直面する中で、個別的に発生する業務をより多く含んでいる。と、その仕事を当事者でない人間が一律に評価することは不可能に近い。である以上、教員を成績順に序列化したり、最下位層を淘汰するような措置が、学校現場を活性化させることは非常に考えにくい。
これがセールスの世界なら、数字の上がらない販売員を淘汰することにも、一定の妥当性はある。野球の世界においても、打率二割の外野手を解雇しないとチームは向上することができないだろう。その種の、原理的に競争的な職場では、市場原理が、怠慢を駆逐し、より高い労働へのモチベーションを生むことになる。多少の軋轢があるにしても、競争は、全体の発展につながる。
が、教育や福祉の現場に市場原理を持ち込んだところで、その場に携わる人々が、勤勉に働くとは限らない。打撃成績や、売上高とは違って、恣意的な要素をはらむ勤務評定は、努力に比例して向上するタイプの数字ではない。むしろ面従腹背の、より陰険なカタチの怠業を蔓延させることになるはずだ。
カタい話になってしまった。
真面目になると口下手になる。
選挙で落ちるヤツの典型だな。
せめてグッドルーザーとして、橋下さんに、洒落た祝福の言葉をかけることができると一応の格好はつくのだが、それも見つからない。
10年たって、大阪の維新がめでたく成功していたら、その時は東京に来てください。
その頃、私は浦和あたりで隠居してると思いますが。
(文・イラスト/小田嶋 隆)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20111201/224762/?bv_img
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大筋において同意する。
橋下は、20代、30代の若い世代で支持を伸ばして当選した。若い人は、橋下のような扇動家にやすやすと騙される。扇動家であり、詐欺師である。橋下の選挙演説は、いかにも「わざとらしい」ものだった。あの身振り手振り、声のもったいぶった抑揚など、見ていて聞いていて本当にいやらしく、胸くそが悪くなった。下手な芸人の三文芝居ではある。しかし、それが若い人には「魅力的」に感じられたのだろう。橋下の下手な芸でもその気になる若い人が多かったということだ。
大阪都構想の実現が「原因」となって、大阪の人達の暮らしが豊かになるという「結果」をもたらす。橋下が、この因縁因果のメカニズムを具体的に説得力を持って解き明かした事は一度もない。橋下は、「大阪都」になったら「世界に冠たる大阪」ができると、とてつもなく大きい大風呂敷を広げはしたが、それでなぜ大阪の人々の暮らしが豊かになるのかは、最後まで説明できなかった。人々は「世界に冠たる大阪」が本当に実現されると本気で思っているのか。橋下に投票した人の多くは「維新」だから「何となくやってくれそう」という気分で投票した人が多いと思う。原因と結果のメカニズムを具体的に説明できる人が多いとは考えられない。
橋下は「民意」を錦の御旗に押し立てて、今では破産が明らかとなった「新自由主義的手法」を至る所で押し付けようとするだろう。しかし、10人のうち、橋下を支持したの人は6人であり、平松を支持した人は4人である。橋下の言う「民意」とはそのようなものである。橋下がこれから行なおうとすることすべてに大阪府民が賛成していると思ったら大間違いだ。
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