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2011.11.22 共産党候補の撤退で急変した「大阪ダブル選挙」情勢
〜関西から(42)〜
広原盛明(都市計画・まちづくり研究者)
選挙告示日から1週間余り、「大阪ダブル選挙」をめぐる情勢が目下急変している。告示前の予想では橋下候補がやや優勢だったといわれるが、渡司共産党推薦候補が撤退してからというものは情勢が大きく変わった。平松陣営からは「ひょっとするとひょっとするかもしれない」との懸念や不安感が消え、「行けば行ける」という空気が日に日に強くなってきたという。
先日、大阪を代表する会社の会合のなかで大阪市の某幹部と雑談したところ、情勢は大丈夫だとまではまだまだ言えないが、撤退声明以来、市役所のなかの雰囲気がガラリと変わったそうだ。共産党がここまで踏み切るとはだれも思っていなかったらしく、みんなが意表を突かれたのだという。「よくぞ英断をしてくれた」とその幹部は語っていた。
首長選挙は役所の構造を大きく変える。大げさにいえば、「勝てば官軍、負ければ賊軍」の世界なのだ。アメリカの「スポイルシステム」(首長が変わると幹部が総入れ替えになる仕組み)ほどでもないが、日本でも幹部人事に対する首長選挙の影響は大きい。橋下候補は「市役所の幹部はすべて首を洗って置け」と言っていたらしいから、大阪市役所の面々は戦々恐々で庁内は落ち着かないことこの上もなかったらしい。
大阪府庁とて同じだ。これは別の会合での話だが、過去の首長選挙で知事が変わる度に大阪府でも大規模な幹部の人事異動が行われたそうだ。ノック知事の場合も大田知事の場合もそうだった。役所の幹部にも運・不運があって、首長選挙のときに閑職や窓際に追いやられている幹部は、例外なく新顔の応援に走るそうだ。現職のままでは自分は浮かばれないと覚悟しているからだろう。
そんなことで今回の大阪市役所の場合、庁内体制が一時かなりの危機的な状況にあったらしい。橋下候補が市長になればと思う面々が思い思いの行動に走ってさまざまな憶測が乱れ飛び、幹部や職員の間でも疑心暗鬼に陥った人たちが多かった。それが何とか落ち着きを取り戻してきたのが、この1週間のことなのだ。
でも、こんな「コップのなかの嵐」のことは一般市民には関係がない。大阪市がいままで市民のための政治行政を本当にやってきたか、ということが問われるだけだ。だから今回の渡司候補の突然の撤退表明は、これまで革新市政の登場をねがってきた多くの革新支持者の間に少なからぬ戸惑いと混乱を引き起こした。私のブログ「つれづれ日記」にも次のようなコメントが寄せられている。
「橋下はその戦術では平松と大きく異なるものの、そのスタンスに大きな差異は無いと思います。平松は民主の支持で市長に選ばれ、橋下は自・公の支持で知事に選ばれた訳ですが、民主と自・公の間に大きな差異が無いことは民主党政権の国政運営によって証明されていると思います。従って、大阪の保守的中間層が、橋下離れを起こしている理由は「何処の馬の骨だか分からぬような男が偉そうなことを言っている」ことへの拒否反応だろうと思います。橋下はこれまで、過激な言動で良心的な人々からは「独裁者」と見られてきましたが、小泉首相と同じ煽動政治家、謀略政治家タイプの男なのだろうと思います。従って、平松vs橋下は「民主vs独裁」ではなくて、「普通の保守vs過激な保守」ということだろうと思います。従って共産党は本来の理念を貫こうとするのであれば、「大阪都vs反独裁」という虚構の対立とは一線を画し、「大阪市民にとって必要なことは何か」に焦点を当てた運動を展開することが必要だったのではないかと考えています。」
このコメントはおそらくこれまでの革新支持者の声を代表するものだと思うし、私自身も最初は橋下氏を「トリックスター」と表現し、「扇動家」・「お騒せ人間」の一種だと考えてきた。しかしその後の彼の言動や政治手法を追うと、そこには得体の知れない「ルサンチマン」(社会に対する憎悪・復讐の感情)が溢れていて、「この人物は何をしでかすかわからない」という不気味さを感じるようになったのだ。橋下氏には、弁護士時代にサラ金顧問としてカネ儲けに専心していたからか、カジノやバクチの世界に生きるヤクザや暴力団すなわち「アウトロー」の世界に通じる臭いがするからだ。
最近の週刊誌や月刊誌で盛んに報じられているように、橋下氏の身辺に漂う独特の雰囲気は、彼の不遇だった境遇と強く関係しているのであろう。そして、そのなかで育まれた「ルサンチマン」(社会に対する憎悪と復讐の念、私怨)が、政治家となったいま、歯止めの効かない「独裁願望」へと暴走し始めたのではないか。つまり、橋下氏のなかには「私怨の公怨化」が進み、「公怨=独裁願望」という構図が形成され始めたのであろう。橋下氏の「つぶやき」(ツウィッター)のなかにみられる、社会への激しい憎悪と敵対感情が何よりもそのことを示している。
一般的にいって、ルサンチマンにまみれる人は非常に受け身であり無力であって、常に強い欲求不満の状態にあるといわれる。いつも「何もできない自分」を嘆き、そんな自分に絶望している場合が多いのである。社会的弱者がルサンチマンから逃れられないのはそのためだろう。だがその一方、自分をそのような境遇に追い込んだ社会を敵視し、自分を正当化して復讐を誓うような場合も少なくない。それがハングリー精神となってあらわれる場合はまだしも、ただ反抗心のままだと「弱きを挫き、強きを助ける」世界に入っていくことになる。
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