http://www.asyura2.com/11/senkyo122/msg/635.html
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共産党HPの「綱領・古典の連続教室」で志位和夫委員長が講演されている内容は、現在の日本共産党の自主独立路線の正当性が、わかりやすく情熱的に説かれています。現代社会の情勢の変化に応じてマルクス・レーニンを創造的に発展させた理論構成は理解しやすいです。しかし、今まで繰り返し主張しているように、科学的とされる「唯物史観決定論」と「等価交換剰余価値説」の誤りが、商品交換市場の評価と社会主義の在り方、つまりは人間観や社会観・世界観、また社会的存在としての人間のものの見方や考え方・生き方を歪めさせることになっています。まずは「綱領教室」の名講義を聴講してください。
http://www.jcp.or.jp/kk_kyousitu/#fragment-2
さて講義は長いのでKakasiの選好に従って、これから(移行期)の社会の在り方に焦点を絞って、志位さんの講義の問題点を明らかにします。まず自主独立を確立したレーニンの原則とスターリン批判について。レーニンの残した社会主義建設に向けての4つの原則は現実主義的で反対することはできないでしょう。4つの原則は、@新経済政策(ネップ)は「市場経済を通じて社会主義へ」、A資本主義国との平和共存、B世界革命は議会を通じた民主主義(多数者)革命から、C大国主義・覇権主義(スターリン主義)との闘争ということでした。志位さん達はこれで自主独立の光を見いだしたと言います。しかし問題は、これらの原則が、マルクス主義の二つの原則と相容れないということです。
というのは、前回指摘したように、マルクス主義的社会主義においては「市場経済」は、考えられていません。結合した個人(労働者の革命的団結)によって生産手段が社会化(とりあえず国有化)された共同社会では、商品交換は廃止され「計画的生産」が行われるからです。それが可能とマルクスやエンゲルスが考えたのは、商品交換(市場)関係を、平均的にでも「等価交換」と見なしていたからです。つまり、等価交換と見なすことによって、労働者の人間としての労働の価値を、結果として単なる再生産に必要な労働に貶め、人間的欲望や価値を考慮せずに、それを合理的なものと前提していたからです。
「市場経済」とは、貨幣と同様に、不等価な商品を円滑に交換するために、ハイエクの言葉を借りれば「自生的に」、人間の欲望と社会的本性から発達してきた、とKakasiは考えるからです(しかしKakasiはハイエクには明確に反対です)。つまり、Kakasiは、市場で行われる自由で不等価な交換が、搾取と経済発展の原動力になっていることを見ない限り、市場経済の複雑性を制御し乗り越えて、社会主義を平和的かつ主体的に実現することはできないと考えるのです。
さて志位さん達の社会主義的変革のための課題「移行・過渡期の問題」はどうなるのでしょう。「古典教室」では、エンゲルスの言葉を引用して「いままで人間を支配してきた、人間をとりまく生活条件の全範囲が、いまや人間の支配と統御のもとにはいる」とされていますが、その際、唯物史観(『共産党宣言』『資本論』)の基本命題である、労働者階級の権力奪取・独裁(執権)はどうなるのでしょう。
不破さんの指摘されるように、唯物史観の定式に「階級」という言葉はありませんが、「ブルジョア的生産諸関係は、社会的生産過程の最後の敵対的形態である」とあります。この定式では、「最後の敵対的形態」を終わらせるためには「労働者の革命的団結」や「結合した個人」のような組織的な階級的独裁(敵対の逆転)の形態をとることは避けられないのです。そこから得られるのは、単に、前史における資本家支配から、本史における労働者党・官僚支配にならざるを得ないのです。
社会主義への移行の問題は、マルクス主義の二つの誤った原則がある限り解決ができません。「生産手段の社会化」は、マルクス主義イデオロギーでは、党組織と官僚による労働者・国民支配にならざるを得ません。つまり、定式による「社会化」は、意識的・イデオロギー的形態であり、政治的上部構造ですが、それにふさわしいイデオロギーは唯物史観では自生し得ないのです。なぜなら唯物史観では「人間の意識がその存在を規定するのではない」からです。敵対逆転・労働者独裁の段階では、階級闘争という唯物史観イデオロギーを体現した政党と官僚による敵対者(資本家はいないのでKakasiのような反対者)への抑圧・支配が続くのです。
人間の「前史」においては、人間の利己的本性によって下部構造が構成され、革命的イデオロギーが自生することによって「労働者の革命的団結」「結合された個人」のような上部構造(意識形態)が組織されます(労働組合や社会主義政党のように)が、それは「敵対的形態」の中で、つまり階級敵を想定してのみ維持されるものであって、「階級としての自分自身を廃止する」(『共産党宣言』)ことにはつながりません。「社会化」されるためには、それにふさわしいイデオロギーが必要になるのです。
そもそも政治的上部構造(政治権力)は、他の階級を支配するためのものだけではなく、権力そのものを維持しようとする人間本性(独裁政治)や、民主的福祉国家のように弱者救済や、利害(利益集団)の対立調整という役割も果たすことができます。上部構造の行う「社会化」において、市場(商品交換)経済を肯定する限り、それはマルクス主義的社会主義とは矛盾するし、マルクス主義(的社会主義)であろうとすれば、市場経済は党と官僚による労働者・国民に対する管理・支配にならざるを得ないのです。
日本共産党の生きる道は、マルクス主義の原則そのものを批判し放棄する以外にはありません。そしてまじめでまっとうな諸要求実現政党として戦う政党になれば未来はあります。市場の真実、不等価性と不正と腐敗をただし正義を追及する政党。マルクスに欺かれることなく、インターナショナル(グローバル)化には対応できないのでささやかな共産主義をめざすのが良策かと・・・・。
21世紀、成長の限界が現実のものとなる世界において、欧米の近代思想は終わりを告げています。成長や発展ばかりでなく、人間の不自由や不平等な現実から再出発し、分かち合い支え合うグローバル世界がめざされなければなりません。過去の時代錯誤で誤った宗教、学問、政治制度は克服されなければなりません。良き伝統は残すべきですが、悪しき伝統は博物館に入れ、人間の互助と協働を拡大させ、善性を伸張させる良き競争は推進し、人間を欺瞞し堕落させる悪しき競争は抑制しなければならないでしょう。しかし戦いを活力とするマルクス主義には困難でしょう。
志位さんたち日本共産党の更なる弁証法的自己発展を期待します。
●【再説】二種類の剰余価値(搾取)理論
1)等価交換を通じての搾取(マルクスの立場)
労働力の価値=歴史的社会的平均的な労働者の再生産に必要な価値
労働者の賃金=劣悪な労働条件と抑圧的状態の再生産に必要な賃金
=人間的生活の要求を無視した非人間的状態を唯物史観で合理化
=必要労働分=必要労働時間分
・剰余労働を、労働者でなく資本の所有物とし、抑圧された必要労働の価 値を不当に低く考える立場、人間の解放でなく抑圧を招く理論
2)不等価交換を通じての搾取(生命言語説の立場)
労働力の価値=弱い立場で不利な条件を認めざるを得ない搾取的価値
労働者の賃金=労働力の再生産と人間的生活の持続が困難な劣悪賃金
=人間的生活と等価交換の要求を、社会主義においても主張する立場
=不当な抑圧労働分
・剰余価値(労働)を労働契約時点で前提し、労働者(人間)が低賃金 劣悪な非人間的労働条件を受容せざるを得ないことに反対する立場
○マルクス経済学が等価交換を肯定する理屈、「社会全体の価値総額が常に等価である」と言っても、社会全体の中で、多くを獲得・所有できる資本家と奴隷的賃金しか得られない人間との所得の格差が生じる。所得の格差は等価交換によって発生するのではなく、流通過程における不等価交換の契約によって発生する。資本家が獲得する利潤は、労働力を含む商品を安く買い、搾取と技術革新によって安く大量に商品を作って、高く大量に売ることで得られる。一個人の能力には限界があり、過大で不公正な利得は、すべて流通・交換過程で生じる。蛇足ながら価値は人間が判断する。
参照→http://www.eonet.ne.jp/~human-being/page9.html
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