http://www.asyura2.com/11/senkyo122/msg/493.html
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共産党の優れた理論家・実践家・研究者である不破さんが、マルクス・エンゲルスのわかりやすい解説を、ネットで公開されていることに敬意を表します。しかしKakasiの立場は、マルクスの剰余価値(搾取)説と史的唯物論が、西洋的・19世紀的欠陥をもち、現実の政治経済社会に適用するのは不可能と考えます。そしてその誤りが、社会主義と人類福祉の実現にとって障害になり、マルクスの人間解放の意図とは逆に、労働者支配と人間抑圧の結果を招くと考えます。
共産党の古典教室では、1〜3回で剰余価値説について、4〜5回で史的唯物論について述べられています。そして6回目から9回目にかけて、エンゲルスの『空想から科学へ――社会主義の発展』をテキストにして「科学的社会主義」の概要が講義されています。是非、テキストを読み聴講してください。「科学的」の意味の、時代錯誤性が理解できます。
http://www.jcp.or.jp/kk_kyousitu/
さて、この投稿では、逐条的に批判することはできないので、不破講義からの着想の一部にとどめます。つまり、9回目第3章後半の社会主義未来論についてです。
エンゲルスによれば、人類の前史が終わり社会主義社会の成立後の様子を次のように述べています。続きも是非読んでください
「社会が生産手段を掌握するとともに、商品生産は廃止され、それとともに生産者にたいする生産物の支配が廃止される。社会的生産内部の無政府状態に代わって、計画的、意識的な組織が現われる。個人間の生存闘争は終りを告げる。これによってはじめて、人間は、ある意味で決定的に動物界から分離し、動物的な生存条件からぬけだして、ほんとうに人間的な生存条件のなかに踏みいる。・・・・」(邦訳全集19 p223)
上の記述は、マルクスが社会主義を科学にしたとされる二つの発見(「唯物史観」と「剰余価値の秘密」)の虚偽性が導く結末を明らかにしています。すなわち上の引用は、@商品生産の廃止、A計画的な組織(計画経済)の出現、B個人間の生存闘争の終了、C動物界から分離(理性的自律的人間)等によって、「必然の国から自由の国への飛躍」がおこなわれるとするのです。
これらの想定は、今日から見ると、ソ連の失敗を例に引くまでもなく、およそ考えられないことです。貨幣を用いた市場の商品交換という自由で円滑な人間関係を否定し、多様な欲求と感情を持つ個性的人間を排除し、人間の動物性を無視する。このような一種絵に描いたような機械的ロボット的な社会と人間像こそ、マルクスが『資本論』を構想しつつ、未来の社会主義社会を思い描いていたものなのです。
エンゲルス(マルクスも)は、資本主義社会は動物的人間の支配する必然的な社会であり、社会主義社会は理性の支配する自由な社会と考えます。この考え方は、社会が変われば人間が変わるという唯物史観と、搾取は合理的(等価交換)であるとする剰余価値説に由来します。つまり両者一体となって人間の判断の個別性と主体性を排除し、そこで社会主義が必然的に実現するのを科学であると自称するのです。しかしこれは検証されていない(できない)非科学的な社会観・人間観です。このような人間観のまま生産手段が社会的な計画経済の下に置かれると、計画をする人間集団、すなわち共産党組織(党員)による新たな官僚制的民衆支配が行われるのは必然的なことです(「国民が主人公」としても変わらない)。
さて前置が長くなりました。不破さんはこれをどう説明するでしょうか。かれは、「ソ連は社会主義とは無縁であった」と言いますが、それは一つの主張であるとしても、ソ連はマルクス主義を忠実に実現しようとしていました。不破さんは「社会主義の原点であるマルクス・エンゲルス(の原点)に帰って、現代の条件にふさわしい社会主義に発展させるべきだ」と言います。しかし剰余価値説と唯物史観の二つの欠陥をもつ原点を考えれば、生産手段の社会化すなわち労働者集団による管理は、マルクス共産党の代行的支配にならざるを得ません。
なぜなら等価交換(による剰余価値説)は、市場の不等価性・多様性・個別性・複雑性・具体的な利害の対立を見失わせますから、管理は画一的になります。また唯物史観は、抽象的階級支配・生産手段の強圧的管理が優先し、人間の個別的主体的判断を制約しますから、特定の個々の集団や個別的集団的指導権が排除され、疑心暗鬼が横行して官僚統制が必要となります。いずれにせよ生産手段を独占する一党独裁体制は不可避となります。
これは階級支配に代わるマルクス思想の共産党支配を意味します。物神(貨幣欲)崇拝に代わる理論崇拝です。マルクス思想による社会管理は、労働者を抑圧的なままに計画的に管理支配し、人間としての自己解放を理論的に保証しないのです。不破さんは、マルクスの晩年の著作『フランス
における内乱』から、社会主義への過渡期は漸進的な過程で「自由な結合的労働の社会経済の諸法則の自然発生的な作用」によっておきかわりうるという言葉を引用し、現在では「生産者が主役(主人公)という社会主義の原則」を独自に綱領に規定したと述べています。
しかしマルクス理論はもちろん綱領でも、商品市場における契約関係(自由取引)の未来像は述べられていません。「自由な結合的労働」の記述はあっても「商品生産の廃止」の原則は残されています。一体、自給自足の小さな社会ならいざ知らず、今日のような高度に発達した地球経済の中で、自由な結合的労働があって、貨幣も商品もない、交換もない社会が想像できるでしょうか。自由な結合は、未来社会においても社会契約の問題を無視して存在し得ないでしょう。
参考→http://www.eonet.ne.jp/~human-being/page11.html
長くなってしまいました。また続けます。抽象理論嫌悪症の方も多いようですが、ごまかされないためには頭の訓練も必要なのではないでしょうか。
(管理人さんから板違いを指摘されそうですが、Kakasiは政治板に掲示したいので大目に見てください。もう少しで終わります)
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