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「反小沢」を叫ぶ知識人?は立花隆だけではない。元検事や元高級官僚、大学教授、政治家など様々だが、彼らに共通しているのはベルリンの壁崩壊後の激変する世界情勢を分析し、日本はどう進むべきかという時代認識が全く無いということだ。そして「日本改造計画」で日本の針路を明示した小沢一郎に対し、彼らは「小沢は傲慢だ」「小沢は終わった」などと属人的批判に終始し、さも自分達は正しいと旧い殻の中に閉じこもろうとする。
彼らの発言の底には国民を見下した「官僚臭」や「戦前への回帰」「市民運動への望郷」を感じ、新しい時代にどう立ち向かうかという姿勢は無い。恐らく小沢支持者の多くが知識人の小沢批判の中にそれを感じるのだが、なかなか自分の言葉で反論できないでいる。そこで作家の世川氏が12月出版予定の「角栄と一郎」という著書の中で、彼ら知識人の小沢攻撃が如何にピント外れであるかという論理的根拠を明示してくれているので、その一部を紹介しよう。
佐々淳行の小沢嫌悪
今回小沢一郎が全面対決を宣言した官僚機構の内部にいる人間は、小沢一郎をどのように見ているのだろうか?ここに、佐々淳行という元高級官僚がいる。
戦国武将の佐々成政の姉の子孫であるという彼は、東京大学法学部を卒業して、警察庁にはいり、連合赤軍による七二年二月の「あさま山荘事件」で、当時の後藤田正晴警察庁長官の下、警察庁警備実施および広報担当幕僚長として名をはせ、のちに、内閣安全保障室の初代室長に就任。退官後は評論家となっている。その佐々淳行は、小沢一郎についてこんなことを書いている。
『慶応卒で、日大大学院で司法試験を目指して挫折した小沢副長官は、官僚と、特に東大出のエリート官僚に強いコンプレックスとその裏返しの烈しい支配欲、対抗心、見下し、自己肥大症的自己顕示があったようだ。とにかく、威張る。頭ごなしに叱る。一々まぜかえす。やたら虚勢を張る戦中生まれを代表する権力欲の強い“こわし屋”だ。』
(『諸君!』08年12月号、「任せていいのか、小沢一郎に」)
佐々淳行にあるのは、「東京大学」という日本の最高学府の卒業生で、卒業後はエリート警察官僚として生きた男の、おぞましいまでの優越感だ。「東大出のエリート官僚に強いコンプレックス」という小沢評が、この人物のうぬぼれを裏返しにかたっている、と理解すべきなのだ。
仮に、「東大出のエリート官僚」に対して「慶応卒、日大大学院」に在籍して、司法試験に「挫折した」小沢一郎が対抗心を持ったとして、それの何が、ことさらに侮蔑されなくてはいけないのだろう? 僕には、まったくわからない。この人物にこんな書かれようをした慶応大学や日本大学の卒業生たちは、「それのどこが悪いんだ!」と、抗議しなくてはおかしいところだ。さらに
『辞表懐に、小渕長官、小沢・石原(信雄)両副長官を昼食に誘い、おしぼりが出たとたんに的場順三内政審議室長が小沢副長官に向って直言諫争を始めた。顔を真赤にして憤った小沢副長官の怒声は、中曽根・後藤田に選ばれた歴戦の五室長には通じなかった。猛反撃を受けて黙ってしまった小沢副長官に止めを刺したのは的場室長だった。「我々を無能だと仰言るが、中曽根・後藤田の下では立派に機能しました。それが機能しないのは、上の方の御器量の問題です」といってのけたのだ』
(同上)
なにか意味ありそうなことを書いているのか、と思って読んだが、なんてことはない。「小沢副長官の怒声は、中曽根・後藤田に選ばれた歴戦の五室長には通じなかった。」という言い回しで、高級官僚は中堅政治家なんかいくらでもやりこめますよ、という官僚たちの自慢話が書いてあるだけのことだった。
高級官僚である的場内政審議室長が、「我々を無能だと仰言るが、中曽根・後藤田の下では立派に機能しました。それが機能しないのは、上の方の御器量の問題です。」と豪語したことも自慢らしいが、これはあたりまえの話だ。
後藤田正晴は、田中角栄に見こまれ、高級官僚から政治家に転身して、中曽根内閣で官房長官になった人物だ。かれが高級官僚の操縦法にたけていたのは あたり前の話だし、佐々たちがかつての上司である後藤田正晴の指示に唯々諾々としたがったのも当然のことだ。それで小沢一郎はつまらない政治家だと書く佐々淳行のこころの奥底にある官僚意識こそが問題なのだ。
現役の高級官僚たちはかしこいから、口が裂けても小沢一郎(=現職国会議員)にたいする露骨な悪口はいわない。しかし、退役高級官僚はもう怖いものがないから、思いを平然と口にする。だから、佐々淳行のこの文章は、高級官僚が小沢一郎を見つめるときの視線だと理解してもいいのではないか、と思う。
という視線で佐々淳行の文章の紙背を見つめると、東大卒で、言いなれた言葉をつかうなら、「国家公務員上級職」を合格して「日本株式会社」を集団運営してきた高級官僚たちの露骨な「選民意識」が見えてくる。この、侮蔑の視線は、おそらく、ひとり小沢一郎に対してだけ向けられているものではなく、一般国民に対しても同様の視線が向けられているであろうことに、僕たちは気づく必要があるだろう。
中西輝政の小沢理解
中西輝政とかいう京都大学教授が、こんなことを書いている。
『小沢一郎の一貫性は「日本人離れ」したものである。一貫性ということの中に日本人が見出すものは、まず第一に「忠誠」という徳である。」「和の文化」を否定する小沢一郎は、人への忠誠ではなく、政策や政治目標つまり、「観念への忠誠」を生きる道を選んだ」「しかし小沢には、理想主義者に特有の「判断力の未熟さ」があり、それが繰り返される挫折を生んできた』
(『諸君!』08年12月号、「任せていいのか、小沢一郎に」)
わけのわからない文章だなあ、という気がしてならない。かりに、小沢一郎が、この中西輝政という京都大学教授が言うとおり、「人への忠誠ではなく、「政策や政治目標つまり、「観念への忠誠」を生きる道を選んだ」政治家だったとして、いったい、小沢一郎は、この教員に、何を批判されなければならないのだろう?
この大学教授は「人への忠誠」だとか「和の文化」などと言葉を飾り、あたかも、それが、「観念への忠誠」とは対峙するもののように見せているが、「人への忠誠」と「観念への忠誠」は、別段、対義語ではない。十分に並存できるものだ。という理由によって、中西輝政京都大学教授もまた、読者に対して詐術をほどこしていることを、僕たち読者は見抜かなければならないのだと思う。
もうひとつ、人として言わせてもらうなら、「政策や政治目標つまり、観念への忠誠」を生きること、その実現をめざす過程で、「挫折」をくり返す小沢一郎の姿、そのどこが中西輝政から批判されなければならないのだろう?幾多の「挫折」にもめげずに「政策や政治目標」の実現のために戦い続けている小沢一郎の姿は、人としてはとっても魅力的な姿ではないのか? 賞讃されるべき姿勢ではあっても、批判されるいわれはどこにもないような気がする。
この人物は、さらにこう書く。
『もう今ごろ政権の座についても小沢のやるべき仕事はないのである。せいぜい、「焼け跡」の残務整理くらいであろう』
(同上)
この人物が、どの政党寄りの人物なのか、僕はまったく知らない。が、この文章を読む限りにおいては、おそらく、当時は政権党であった自民党のおかかえ学者なのだろうな、という気がする。この大学教授は、「もう今ごろ政権の座についても小沢のやるべき仕事はないのである。」とうそぶいているが、しかし、民主党政権になってみたら、「焼け跡の残務整理」どころか、早急に処理しなければならない重要案件が山ほどあったことを、国民は知った。
このこけおどしのような文字だけで構成された文章が書かれたのは〇八年のことだが、僕なんぞは、これくらいの時代認識の人物が旧帝国大学で教鞭をとり、この程度の認識の人物の政治学の講義を聴いて、なにか真実でも学んだような気になる学生がいるのかと思うと、そっちの方に不安をいだいてしまう。
民主党「反小沢派」の源
民主党内の反小沢陣営の意識には共通点がある。それは、「理念政党」への郷愁、だ。ぼくたちの歴史認識のなかでは、九〇年前後の旧ソ連邦周辺の社会主義国家群の騒乱と崩壊をもって、「理念政党」はその存在意義をうしなった。『資本論』(=指針)をうしなったその後の自由主義世界では、思想家の吉本隆明が指摘したとおりに、「その都度のイエス・ノーの時代」がはじまり、ぼくたちは、次代の『資本論』(=指針)が登場するまでの、「その都度のイエス・ノーの時代」の日本の旗手は小沢一郎だ、と認識し、かれの膂力(りょりょく)に期待をかけてきた。
小沢一郎もその時代認識を共有し、じぶんの役割をまっとうすべく意気込んだように、僕たちには見えた。しかし、「理念政党」の崩壊理由をみとめることをせず、亡き骸にしがみつこうとする者たちも、大勢いた。それらの多くは、当然のことながら、滅びた『資本論』を金科玉条にした世界で生きていた人間たちであり、かれらは、本来、『資本論』崩壊後の世界について、あるいは、自分の立ち位置について、きびしい考察と鍛錬をしなければならなかったのだが、その困難さをいとい、今でも通用しそうな「古い指針の一部分」をつなぎ合わせて、「市民主義」などと名称を変え、「自分たちの信奉してきた理念はまだ滅んでいない」と自分をあざむき、国民までをもあざむこうと躍起になった。
そうした場所を生きてきた政治家が、民主党内では菅直人元首相であり、仙谷由人であった。だから、彼らにとって、政党とは、「理念政党」でなければ、おさまりがつかない。では、同じ時期を、小沢一郎は、どのような政党を目指して生きていたのかというと、小沢一郎がめざしたのは、<政策政党>の確立だった。
戦後六五年間、この国に<政策政党>が誕生したことは、ただの一度もない。自民党も、社会党も、共産党も、公明党も、ひとつ残らず、「理念政党」であった。しかし、『資本論』(=反資本主義指針)をうしなった時代においては、理念の対立は存在しえなくなっていくのだから、国家が困難に直面したら、現実的な政策でのりきるしか、術がなくなるはずだ。
それを察知した小沢一郎は、自由党をおこし、民主党へ移り、本格的な<政策政党>の確立へとまい進した。本当は、この一点において、小沢一郎は、この国における優れた政治家であった。そういった角度から、現在の民主党内紛劇を見つめたなら、僕たちは、ある程度、両者のしれつな闘争の意味を、納得することができる。
今回の対立ばかりではない。九三年以降、小沢一郎を主軸にした熾烈な対立劇は、すべて、存在意義を喪失した「理念政党」に郷愁をおぼえるものたちと、「理念政党」を昂然と否定する小沢一郎との、認識のズレから生じた事件ばかりだった。ことの本質を理解できないマスコミや愚鈍な政治家たちが、その理由を小沢一郎の「性格」に押しつけ、おおくの国民がそれを鵜呑みにしただけのことだ。
どちらに正当性があるのかは、そんなことは、今さら、言わずもがなのことだが、正当性のある側が必ずしも勝利するわけではないことは二〇年近い小沢一郎の軌跡が、僕たちに教えてくれている。菅直人に象徴されるような、社会主義の亡霊たちばかりが「反小沢」であったのではない。それについて、江藤淳はこんなことを言っている。
『中でも危惧すべきは、さきがけ,日本新党の背後にほの見える直接民主主義の傾向です。直接民主主義とは姿を変えた全体主義であり、全体主義はまたマスコミ主義です。テレビの人気投票のような気分本位の「日替わり民主主義」は、実は巧妙に大衆を操作しようする全体主義にすぎない。全体主義は、実際に参加していない人間に参加の幻影を与えながらこれを統合しようとするもので、そこにはチェック機能が働かない』
(同前)
新党さきがけや日本新党から当選した議員たちは、何一つあの日と変わらない思考のままで民主党に移籍して、一五年ほどが経ち、この一一年には松下政経塾出身の議員が総理大臣に就任した。こうやって鳥瞰すると、小沢一郎とはまた違った意味で、彼らは彼らでそれぞれの原点を生き続けているみたいだが、「小沢一郎は邪魔だ」という意識の共有でつながっていることが、民主党を「小沢対反小沢」というしょうもない図式におちいらせている原因のような気がする。
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