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小沢一郎を高く評価したのは保守の江藤淳だけではなかった。左翼の思想家で文芸評論家の吉本隆明も小沢一郎を高く評価している。文芸評論家で哲学者でもある山崎行太郎氏によると、彼は立花隆のような大衆迎合型のエセ「知の巨人」と異なり、哲学的思考を基本に小沢一郎と現在の政治を鋭く分析している本物の「知の巨人」だそうだ。山崎氏と同様に吉本隆明を高く評価する世川行介氏が12月に出版する「角栄と一郎」という本の中で「小沢一郎叩きこそファシズムと」いう吉本隆明の分析について言及しているので以下に紹介する。
<以下、抜粋>
六〇年安保の理論的支柱であった吉本隆明は、文芸評論家としては、評論集『言語にとって美とは何か』、『マス・イメージ論』、『柳田国男論』、『最後の親鸞』などを、思想家としては、『共同幻想論』、『反核異論』、『重層的な非決定へ』、『情況へ』などを著わし、「戦後最大の思想家」と称された人物だ。
保守の江藤淳が小沢一郎を支持するのは、それは、思想的にはまだ自然な流れでもあったが、江藤淳の対極にいる左翼の吉本隆明が保守政治家小沢一郎を高く評価したことは、驚きをもってむかえられ、小沢一郎は、「左右の双璧から高く評価された保守政治家」として、この国の知的階層から羨望にも似た注目を浴びることとなった。
吉本隆明は、<自立思想>を唱えつづけてきた思想家であったから、「自立した個人を」と訴える小沢一郎の基本姿勢に感じるものがあったのかもしれない。以下は自民党を離党して新生党をおこし、細川非自民連立内閣が発足した九三(平成五)年頃の小沢一郎についての評だ。
「テレビの画像にでてきた候補者のうち、いちばん嘘のない表情で本音のところをみせていたのは、羽田孜や小沢一郎だった」、「テレビ映りの表情をみていると、本音に近いじぶんの責任のとれるところで物を言っていた」「私の観察してきたところでは、細川連立内閣のよさは、細川首相のもったいぶらない挙措や、素人っぽい言動の率直さや軽みにあった。もうひとつあえていえば、小沢一郎の本気さと本音でいう人間の匂いが、この内閣の風貌をつくっていた。」
(『超資本主義』)
九四(平成六)年に細川非自民連立内閣が細川首相の突然の辞意であっけなく瓦解し、後継の羽田孜内閣のときに社会党が政権離脱して自社連立を組み、小沢一郎の非自民政権構想が頓挫を余儀なくされた時期から、マスコミによる小沢一郎バッシングがはじまる。その時期の小沢一郎のマスコミ対応を、吉本隆明は支持する。
「当分のあいだ、いまのように小沢一郎の考え方で政治が動いても、何の問題もないと思います。小沢さんは、旧来の「左翼」達から、こぞって”ファシスト”の烙印を押されていますが、僕は決してそうではないと思う。それどころか「小沢一郎=ファシスト」宣伝こそファシズムではないかと思っています。」
(「わが「転向」」)
「(小沢一郎のマスコミ攻撃への反論は)、わたしにはとても妥当な反論に思える。(中略)朝日新聞に品位があるのかないのか知らないが。党派的な作為と無関係でないことは、誰でも承知している周知の事実だ。ましてその被害にあったものは、言い返す権利があるのは当然だ。」「現在の段階で完全な清潔主義を政治基準にすれば、立てまえだけご立派で、裏側は汚濁にみちたスターリズムやファシズムの政治過程に追いこまれることになるにきまっている。
金銭関係や女性関係の不当さを政治責任追及の一端に結びつけるだけなら、決して悪いとはいえないだろうが、追及の真正面に据えることになれば、追及する側の倫理悪という問題を喚起してしまうほかない。なぜならばそれは見掛け上の聖人君子が頂点にいて、民衆を虐殺したり弾圧したりする政治に帰結してゆくからだ。」
(『超資本主義』)
実は、吉本隆明は、ここでとても重要なことを言っている。それは、この国のマスコミが長きにわたり政治基準の一番に掲げてきた「清潔主義」への異論だ。政治家に金銭的潔癖をもとめる「清潔主義」は、異論の出しようもないままに政治家断罪の根拠として使われてきた。その最大の犠牲者は、小沢一郎の師匠であった田中角栄であり、その田中角栄の愛弟子であった事実から、小沢一郎は清潔主義とはほど遠いダーティー政治家の烙印をおされてきた。
吉本隆明は、そうした「清潔至上主義」に対して、「金銭関係や女性関係の不当さ」は、「政治責任追及の一端」にはなっても、すべてにはならない、と主張し、その理由として、「なぜならばそれは見掛け上の聖人君子が頂点にいて、民衆を虐殺したり弾圧したりする政治に帰結してゆくからだ」と述べている。
この「見掛け上の聖人君子」という視点は、とても大切な視線だった。お金のかかるに決まっている政治活動が一から一〇まで清潔にできるわけのないことなど、実は国民のほとんどは知っている。そんな無理な要求を政治家に強要できて、なおかつ自分たちが政治を運営できる存在といったら、この国では、官僚機構しかない。
僕はある時期末端の国家公務員であったし、一〇年ほど前からは、総務省関連の特殊法人(財団法人,社団法人)のシステムの巧妙さについてかなりていどの研究をしたので、すこしはわかるが、官僚機構には、資金集めの必要がない。なぜなら、かれらの活動費はすべて、国家予算(=国民の税金)でまかなわれているからだ。
そして、事業資金もすべて国民の税金だし、一つの省庁内で、特殊法人を活用して、事務用品費から機材費まで、予算の還流による強固な円還システムがすでにできあがっていて、マスコミからも国民からも追及できないようになっている。そんな官僚機構からすれば、政治家の集金活動などおそまつきわまるもので、その法的不備をあげつろうことなど、朝飯前の話だ。
各省庁がその権限で得た政治家の情報をもちよって協議検討したなら、単純な「記載ミス」を「虚偽記載」という犯罪にまで格上げして、政治家ひとりを葬ることも可能だということを、今回の<小沢一郎事件>がなによりも如実にしめしてみせてくれている。吉本隆明は「見掛け上の聖人君子」に「政治家」をイメージしたかもしれないが、僕は、「見掛け上の聖人君子」とは官僚機構ではないか、と思ってきた。
政治の清潔主義については、本来は、そうした論議から始められねばならないのだが、残念ながら、この国の民は、まだ官僚機構の根本を疑う視点を持っていないので、田中角栄から小沢一郎まで、官僚機構という名の国家権力に対峙する政治家は、つらい目にあうことに決まっているようだ。
「小沢一郎はテレビなどで見ていると、とても率直に本音を言う人でしょう。「政治を清潔にと言ったって、政治にはお金がかかるんですよ」とちゃんと言う。聞いていて何となく響いてくると言うか、人間的な響きがある発言をする人で、僕は好感を持つんですが、こうした率直な物言いがいやな人が、ファシズムだと言い出したのかもしれません。」
(『わが「転向」』)
「小沢一郎はファシズムだという発言が、左側が編集している週刊誌や「噂の真相」のような思想の売春宿などあらわれはじめた。その伝播性の速さ、言動の印(はん)でおしたような同一さこそスターリニズムとファシズムの特徴なのだといっていい、かれらは小沢一郎の政策論である『日本改造計画』という著書を検討したことなどないにちがいない。扇動や噂でみだりにひとをファシズム呼ばわりするのはスターリニズムの常套手段だといっていい。
(『超資本主義』)
戦後、マスコミやマスメディアは、「政治のワイドショー化」を目ざしてきた。しかも、それは日本人の覗き見趣味に合っていたらしく、視聴者の数からいったらそれを好む視聴者や購読者が圧倒的に多かったから、テレビが視聴率を稼ぐなら、あるいは新聞が購読者を確保するなら、そこに軸足を置く必要があった。
特に、テレビは、小沢一郎や羽田孜が自民党を離党した九三年頃から、ふたりが提唱する政治改革理念など理解できない低知識層に、論点を低くして、「活劇としての政治」を植えつけようと躍起になった。そうした意図を持つマスコミやマスメディアにとって、自分たちよりも高い見識で政治のあり方を語る小沢一郎という政治家は、いちばんジャマっけな存在だった。
だから、かれらは、小沢一郎攻撃を、ほかの政治家に対する攻撃よりももっと過激にやらなくてはならなかった。小沢攻撃に正当性をあたえるために、野心家の武村正義さきがけ党首(当時)を正義の味方に見立て、存在価値などとうになくしている社会党(現社民党)を国民のための政党に見立て、「小沢一郎の対立者・批判者」を何人もこしらえあげ、かれらの発言を画面や紙面にあふれるほどにたれ流し、小沢一郎批判報道を加熱させた。
つまり、自分たちの存在価値の喪失におびえていた日本共産党や社会党の思惑、政治のワイドショー化をはかりたいマスコミ・メディアの思惑、自社さきがけ政権を安定確実にしたい自民党の思惑、企業主導の政治を堅持したい財界の思惑…、そういった各界の利害思惑が一致したのが、この時期の「小沢一郎たたき」の本質だった。しかし、そうした彼らの本当の思惑は、じつに巧妙に隠されたため、国民の眼にあらわにされることはなかった。
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