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作家の世川行介氏や文芸評論家の山崎行太郎氏らが「小沢一郎を最初に高く評価した」人物として、戦後の代表的文芸評論家の1人である江藤淳を挙げている。「角栄と一郎」という小沢支援本を12月に出版する世川行介氏は、著書の中で「江藤淳の小沢評価」を下記のように紹介しているので小沢氏を更に深く理解したい方は是非、一読されたい。
<以下抜粋>
いまは日本中から毛嫌いされた感のある小沢一郎だが、それは、テレビ、新聞、週刊誌、といった媒体がこぞって小沢攻撃をやっているから、ほとんどの国民が小沢一郎に対して批判的みたいに見えるかもしれないが、実はそうではない。自民党を飛びだし新生党をおこし、いく度も壁にぶち当たりながらも政治改革にまい進する小沢一郎を、戦後日本を注意深く見つめてきた文学者や思想家は、高く評価した。
小沢一郎を最初に高く評価したのは、戦後昭和の代表的文芸評論家の江藤淳だった。江藤淳は、いまさらあらためて説明するまでもなく、評論集『小林秀雄』、『成熟と喪失』、『漱石とその時代 』、また、小説『海は蘇える』で、日本文学界をリードした文学者で、政治に関しても、保守の立場から、『閉された言語空間―占領軍の検閲と戦後日本』、『国家とはなにか』、『自由と禁忌』などを著わし、積極的な発言をつづけた。
四七才という若さで自民党幹事長の要職までのぼりながら、自民党を離党して政治改革にまい進する小沢一郎の見識と行動を評価した江藤淳は、マスコミや政界からきらわれる小沢一郎を、論理的に擁護しつづけた。小沢一郎が羽田孜と共に自民党を離党して新生党を立ち上げた時期(九三年)の江藤淳の小沢評を、少しひろってみた。
「派を割ってでも、あるいは自民党そのものを分裂させてでも、冷戦後の国際情勢等に対応しなくてはいけないと、小沢グループは考えているように見受けられる。そこには、はっきりした政策目標がある。」「誰が総理になるかならないかは、二の次の問題、政策の実現こそが緊急の課題だということをハッキリと打ち出した人間が出てきたということは、戦後日本の政治史上まことに驚くべきことだと言わざるを得ない。」
「(小沢一郎には)改革者としての素地はあったのでしょうが、それが、具体的な政策として結実するためには、竹下内閣末期の地獄絵図と、湾岸戦争という戦後日本の最も危機的な状況に、心ならずも直面させられてしまったという二つの痛切な体験を経ることが必要だったのです。」
(「それでも小沢に期待する」)
ここで江藤淳が言っていることは、小沢一郎を理解するうえで、とても重要だ。江藤淳は、九三(平成五)年に自民党をとびだした小沢一郎には「はっきりした政策目標」があったのだと断言して、小沢一郎の行動は政権欲や派閥争いの結果のものではない、と言っているのだ。そして、「誰が総理になるかならないかは、二の次の問題、政策の実現こそが緊急の課題だということをハッキリと打ち出した人間」として小沢一郎を、「戦後日本の政治史上まことに驚くべきことだと言わざるを得ない」と、高く評価したのだった。
ぼくたちは、ここで、マスコミをつうじて流されてきた、「小沢一郎はファシズムだ」、「小沢一郎は傲慢だ」、「小沢一郎は権力志向の権化のような男だ」といった醜悪な小沢一郎像と、江藤淳のかたる崇高な理念を追い求める小沢一郎像とのあまりの違いに、驚かされ、ひとりの人間を評価するのに、これほどまでに評価が異なるというのは何だろう?と立ち止まってしまう。
きっと、どちらか一方の小沢一郎像が誤っているのだろうが、マスコミのながす小沢一郎像に信を置くか、それとも江藤淳のかたる小沢一郎像に信を置くのか、それは受ける側の見識と好みの問題だから、ああだこうだとは言えない。だから、江藤淳は、こう嘆いてみせる。「日本の政界は、構想力雲のごときこの優れた政治家を、寄ってたかって潰してしまおうとしているのだろうか。それは嫉妬からか、反感なのか、はたまた“剛腕”を謳われた小沢一郎自身の、不徳のいたす所というほかないのか。」
(『帰りなん、いざ 小沢一郎君に与う』 産経新聞 九七年三月三日)
すぐれた文学者であった江藤淳は、優れた<時代の観察者>でもあったから、小沢一郎を社会的に抹殺しようとしているものの正体が、はっきりと見えていた。そして、強固な小沢排除陣営が孤軍奮闘する小沢一郎を押しつぶすかもしれない、という不安も持っていた。
九七(平成九)年当時、最大野党の新進党党首に就きながら、敵対する自民党からだけではなく、身内の新進党内部からも非難のつぶてを受けていた小沢一郎に、のちのち「名文」と評されることになりる『帰りなん、いざ 小沢一郎君に与う』という文章で、いったん議員辞職をして郷里の水沢(現奥州市水沢区)へ帰れ、とすすめたりもした。その文章の根底には、小沢一郎に寄せる愛情と哀切がにじみ出ていた。
「小沢君、故郷へ戻れというのは、決して信念の実現を諦めるためではない。むしろ信念をよりよく生かすためにこそ、水沢へ帰ったらどうだというのである。過去五年間の日本の政治は、小沢対反小沢の呪縛のなかを、行きつ戻りつして来たといっても過言ではない。小沢一郎が永田町を去れば、この不毛な構図はたちどころに解消するのである。
野中広務・亀井静香両氏のごとき、反小沢の急先鋒は、振り上げた拳の行きどころを失うのである。小沢一郎が永田町を去れば、永田町は反小沢の天下になるのだろうか?かならずしもそうとはいえない。そのときむしろ、無数の小・小沢が出現する可能性が開けると見るべきである。なぜなら、反小沢を唱えさえすれば能事(のうじ)足れりとして来た徒輩が、今度は一人ひとり自分の構想を語らざるを得なくなるからである。
沖縄は、防衛・外交は、財政再建は、憲法改正は?小沢にはとてもついて行けないといって烏合の衆を成していた連中が、自分の頭で考え、自分の言葉で語りはじめれば、永田町は確実に変わる。変わらないかも知れない。けれども、小沢一郎が新進党の党首を辞め、議員バッジもはずしてサッサと故郷に帰ってしまえば、新進党はもとより自・社・さも民主党も、皆一様に茫然自失せざるを得ない。」
(同前)
このように、江藤淳は小沢一郎にとって最高の理解者であり、論理的支援者であった。しかし、その江藤淳は、九九(平成一一)年、自宅浴室で手首を切って自殺し、その頃から、知識人や言論人の小沢一郎バッシングが強化段階に入り、新聞雑誌に「小沢一郎悪人説」が垂れ流され続けて、今日にいたっている。
江藤淳が死んで、今年でもう、干支が一回りした。平成二三年の現在、いったい、どれくらいの国民が、江藤淳が小沢一郎に関して書きつづった文章を眼にする機会があるのだろうか? どれくらいの国民が、江藤淳によって描かれた小沢一郎の美しい姿を記憶にとどめているのだろうか?小沢一郎は、最大の論理的支援者をうしなったのだ。これは小沢一郎にとって、不幸以外のなにものでもなかった。
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