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TPP参加推進運動で血眼になっている日経新聞に掲載された菅原文太氏へのインタビュー記事を紹介させていただく。
このインタビューのなかにはTPPのTの字も出てこない。
しかし、記事をじっくり読めば、TPP参加のメリットや農業競争力強化などのテーマで語られていることがいかに空虚なものかよくわかるはずだ。
別に、農業や農民を賛美するつもりはない。
現実的にはそうせざるを得ないのはわかるが、農業者の思いが商品化=企業化に傾き過ぎている農業には疑問を抱いているし、国家官僚機構にも似た利権組織になっている全農(農協)に対しても忸怩たる思いがある。
菅原さんは、仙台で生まれ栗原市(宮城県で最高震度が計測されることが多い)で育ったという。
その栗原市の瀬峰地区には、田んぼを売ったり貸したりするかたちでの集約ではなく、「水稲集団生産組合」による農地の再編とそれによる生産効率の上昇に向けた取り組みが先進的に行われていると聞く。
中小規模農家に土地を売らせ、大規模農家や農業法人さらには株式会社に農地を集約させようと考えている政府とは、考え方が根本から違うためか、このような取り組みの実態はほとんど報じられていない。
TPP参加政策や農政を見る限り、農水省を含む政府は、農村(農業基盤共同体)の破壊を厭わず、よくて農業の産業化へたをして農業が壊滅してもかまわないという道を推し進めているように思える。
商品化農業は壊滅しても、親族を含む自家消費のための農業は消えないはずだ。それが百姓だ。
このことからも、成田のように強制収用でもしない限り、農地の大規模集約化という政策は思うように進まないことが予測できる。
兼業で自家消費のためだけという農家が残る限り、ぎりぎり農村共同体も維持されるだろう。
TPP参加問題に関し官僚機構(政府)・大手メディア・学者の考え方を見聞きしていると、自分の利益のために悪意あるプロパガンダに励んでいるひとは別として、TPP参加の是非をめぐる対立は、理屈(論理)ではなく、価値観や国家社会=共同体観の違いによるものだと強く感じる。
財政問題をどうするとか、年金など社会保障制度をどうするのかといった政策課題も深刻な対立を引き起こしているが、それは理屈で決着がつく範囲にあるテーマだ。
しかし、TPP参加問題は、生きていくことや共同体=国家の在り様という根底をめぐる対立であり、近代的理屈の枠内でいくら議論しても水掛け論で終わってしまうテーマだ。
日本社会はこれまでもズルズルと異様な姿に変容させられてきたが、TPPは、社会の在り方、生きることの何から何までを、人類史的には束の間しかも間もなく終わらざるをえない「近代の論理」に縛りつけ、生身の人間をじりじりと疲弊させていく方向に導くものであり、今後の日本がどうなるかを決定的に左右する重大政策課題である。
菅原さんが言う「農業というのは商にあらず工にあらず」というのは、実に正鵠を射ている。
その意味は、農業万歳!であったり、農業従事者が商業や工業に従事する人たちより優れているといったものではない。
現在も続く共同体=国家における「支配―被支配の関係性」も農業の発達に起因するものだ。
東京に象徴される都市文明も農業の発達に起因する。
農業はその成果によって、指導―被指導という共同体的関係性から支配―被支配という国家的関係性に人々の関係性を“進化”させるという“大罪”を働いた(笑)。
徐々に発達していった農業が、生きるために必要な食糧の余剰(農業者の必要度を超えて)を大量に生み出すようになることで、支配層(祭祀者を含む)・学者・建築土木従事者・木材金属加工職人などの存在と活動を支えるようになったからである。
農耕共同体と異なり遊牧共同体は、モンゴル帝国を思い浮かべればわかるように、農耕社会をターゲットに支配や略奪を繰り返したが、内部は緩やかな共同体性にとどまる。
そして、壮大な建造物が残っていないことからもわかるように文明も起きなかった。
この違いこそが、農業の本質を示すものだ。
農業こそが「“利益”=余剰」を大きく生み出す営みであり、牧畜や漁業は“利益”が少なく、工業や商業ましてや金融業は“利益”をまったく生み出さない営みなのである。
「近代」に毒されている人たちには、それが見えない。
「近代」は根っからのグローバリズムである。
そのわけは、工業や金融では生み出さない“利益”をなんとかして生み出そうとすれば、共同体=国家の必要(需要)を超える過剰な量の製品を高い生産効率で安く造り、それを共同体=国家の外に売る(輸出する)しかないからである。
輸出で得た(国家=共同体の外から得た)貨幣的富が、実際は一部の金融家や産業資本家などの手に入るが、国家=共同体の“利益”になるというのが「近代」の論理なのである。
30年ほど前から盛んに言われ推進もされてきたグローバリズムないし世界新秩序は、生産効率を高めて製品を安く大量に造っても、それを輸出できる外なる共同体=国家がないという世界をつくるものである。
(ええっ、と思う方もいるかもしれないが、「近代」は、外見とは違い、産業家によって切り開かれたわけではなく、金融家によって切り開かれたものだから、とにかくカネが吸い取れればいい“彼ら”にはそれでもかまわない)
13億人の中国や10億人のインドが、日本と同等の生活水準を目指し、そのために必要な日本ほどの生産効率を有する工業化を達成したとき、それらから溢れかえるように生産される製品をどこが買える(輸入できる)のか考えてみればすぐにわかるだろう。
地球外共同体を見つけて、そこに宇宙ロケットで売りに行くというのならともかく、有限世界である地球内での「近代」の論理は持続性がないのである。
少し考えればそのような未来が見えるというのに、共同体=国家の根底を支えるものを生贄に差し出すことで、「近代的利益」を得ようとしている(だからといって、ちょっと先に時点でもアテになるわけではない)政府・経済団体の姿はあまりに哀れである。
マルクスは産業での“剰余価値”の発生とその搾取を説いたが、ひとの労働を通じて物質のかたちを変えたり性質を変える工業は、投入物以上の産出物を生み出すわけではなく、“剰余価値”なぞ発生しない。
農耕社会から文明や国家が発生した歴史的事実からわかるように、農業のみが搾取と言えるほどの収奪が可能なひとの営みなのだ。
日本は、江戸時代において、農耕共同体(農村)と国家的支配空間(幕藩)のあいだに絶妙な境目をつくり、ヨーロッパはもちろん中国や朝鮮半島とも異なる国家社会構造を生み出したと考えている。
菅原さんの「農業はやり続けていく中で、いろんなありがたみや人の痛みや自然の尊さや太陽の恵みなんかを無意識に感じられる修業」は、まさに、日本的農村共同体であればこそ強く理解できる思いだろう。
政治家・官僚・経済団体の人たちは、「政治家も官僚も本当のことを言わないからなあ。若者はもう分かっている。彼らを相手にしなくなっている。考えてみれば、国としてはもう寂しい話でね。若者に見放されたんじゃなあ」という菅原さんの言葉を噛み締めてもらいたい。
TPPなんかまき散らした放射能と一緒に埋めてしまえ。
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農のあるべき姿 菅原文太さんに聞く
天地の恵み感じる修業 工や商とは本来違う
[若い人だけじゃなく、日本人そのものに農業に関心を持ってもらいたい]
東京・日比谷公園の森の中のレストランで話を聞いた。窓外に大きなイチョウの古木が2本枝を広げている。豊かな銀髪を時折、かき分け、やや右前に姿勢を保つ。厚手のヘリンボーンジャケットからつりバンドがのぞく。その存在感。菅原さんの穏やかな低音が森の夕暮れと調和する。
十数年前に東京から脱出して飛騨地方に移り夫婦で野菜作りを楽しんだことがある。
「畑はあってもちょこっとで。イノシシにやられてね。それで断念した。なんぼやっても向こうの方の勢いが強い。かなわないよ、人間は。3段に有刺鉄線を張り巡らしたけどだめだね。そんなものものともしないな。くぐり抜ける時、きっと引っかかるんだろうけど、厚い皮膚で気持ちがいいんじゃないかな」
ひょうひょうと「家庭菜園」を続けたが、途中、命にかかわる病で、田舎暮らしは頓挫した。膀胱がんで全摘しなければ「半年から1年」と宣告された。しかし、放射線(陽子線)治療と出合って切らずに完治に至る幸運。
「あれから変わったといえば酒を飲まなくなっただけ。癖のものなのかなあ」
病が癒えると、本格的な有機農業に参入した。2年前南アルブスを望む山梨県北杜市に、遊休農地を借り農業生産法人を設立、野菜作りに励む。また県の農業協力隊のコーディネーターに委嘱されるなど「農」が生活の大きな比重を占めてきた。
若者には「農業はやり続けていく中で、いろんなありがたみや人の痛みや自然の尊さや太陽の恵みなんかを無意識に感じられる修業だと思う」と語っている。
「農業へのきっかけ? そんなものないな」と言いながら少年時代の原点の土への思いが口をついた。それは子供時代の夢の続きでもある。
「自分が70年前のガキのころ、はだしで立っていた農業の風景というのは人間忘れないもので、はかのことは忘れても、そういうのはありありと覚えている。現代の田んぼや畑、いろんな山や村を訪ねたりすると、やっぱり違うんだよ。何が違うのか、そのあたりを探しながらどういう方向へ行ったらいいのか考えざるを得ないということかな」
農業は映画と違って実業のおもしろさがある 映画のことを聞くと即座に「もう過去の話だね、一応」と言う。「映画やめたなんて宣言はしていないけど、やりたいなあというものには巡り合ったことがない。この年なら映画でもないだろうというのもある。アナログが終わってフィルムで撮っている人も少なくなった。デジタル時代にはなじまない。やっぱりフィルムが回り始めないと。うーん、これも癖のものかもしれない。コンピューターなんか絶対になじめないし、ボタン一つ押せないよ」
高倉健さんは80歳で映画を作っている最中だ。
「あの人はあの人、道をまっしぐら。そういう生き方。おれみたいに横道にそれたり立ち止まったりはしない」
この秋、NHKで放映された「クニ子おばばと不思議の森」でつとめたナレーションが評判だ。秘境と呼ばれる宮崎県椎葉村。伝統の森を若返らせる焼き畑農業を続ける椎葉クニ子さんを、カタツムリの目線で紹介する。
「クニ子おばばの生き方にうたれるというのかなあ、ある種の感動を覚えながら自分もスーツとそういう世界に入っていける。撮る方も2年がかりで、彼らの本気さと努力が伝わってくると、自分の中に自然に意識しなくても気の入れ方が違ってくるんじゃないか。87歳のクニ子おばばの姿を見るとこっちもしょぼっとしてらんないよ」
「おれたちのころ、映画会社は5社も6社もあって、多いところでは年に50本も60本も作った。俳優に上下はあっても何かにありついて飯は食っていたという時代。今はその映画会社が映画を作らない。ぼやいてもしょうがない。時代に合わせた映画、時代に合わせた農業を考えていかなきゃならんのだろうが、それが何なのかな」
[農業って本当はそんなに小難しいもんじゃない]
生まれは仙台市だが、育ったところは宮城県北東部にある米どころの栗原市。父の実家は、そこで荒物屋をやりながら畑を耕していた。その栗原市で稲ワラからセシウムが検出され、大きく報道された。「山の方なのに放射能の被害でみんな参ってるよね」 3.11後の不信感はつのる。
「政治家も官僚も本当のことを言わないからなあ。若者はもう分かっている。彼らを相手にしなくなっている。考えてみれば、国としてはもう寂しい話でね。若者に見放され
たんじゃなあ」
「原発がなきゃだめなのか、必要な根拠を何も述べていない。今はまた電気がこうこうとついている。節電して薄暗いところは、おれなんかかえってあんばいがいいんだが。人間の習性というのはあっという聞に前に戻るんだね」
農業も、高度成長に入るあたりから様変わりした。
「今の農業が農業といえるのかという疑問から無農薬の有機栽培や肥料も使わない自栽培の人たちが出てきた。そして違う道を歩いている。化学的な窒素とかそんなものを放り込んだって、それは本物じゃないよね。やっぱり。あてがわれた化学肥料と農薬とタネをバッパとまいて、それを農業だと人は思わないよ。戦後60年、農業は農業でなくなった。ある意味で工業とか、商業といっていいかもしれない。農業というのは商にあらず工にあらず。本当は原則があるはずなんだよ」
農業とは単純に耕して、いい土を作って、植えて成長を見守ることと定義する。「小難しく考えても自分の頭の上に生えてくるわけじゃない」。農業をあるべき姿に戻したい。それが思いのすべてだ。
(編集委員 工藤憲雄)
すがわら・ぶんた 俳優。1933年、宮城県生まれ。早大中退後、58年新東宝入社。松竹、東映で250本以上の映画に出演。農業に関心を抱き、2009年に山梨県 北杜市に農業生産法人「竜土自然農園 おひさまの里」を設立、 遊休農地2ヘクタールを借り、研修生と汗を流す。最近は、ナレーションなどで幅広く活躍。
[日経新聞11月5日夕刊P.5]
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