http://www.asyura2.com/11/senkyo121/msg/696.html
Tweet |
ザ・特集:田中角栄元首相と小沢一郎・民主党元代表、“身内”が見た実像
http://mainichi.jp/select/seiji/archive/news/2011/11/03/20111103ddm013010019000c.html
毎日新聞 2011年11月3日 東京朝刊
似ているようで似ていないのか、それとも−−。没して18年。その功罪と共に人間的魅力を伝えられる田中角栄元首相と、師と同じ刑事被告人となった小沢一郎・民主党元代表。元首相秘書の朝賀昭さん(68)、そして元首相の実娘、佐藤あつ子さん(54)に、2人の知られざる実像を聞いた。【中澤雄大】
◇オヤジはおおらか。泣きたい時に泣いた。泣かない小沢さんは「理」の人。槍衾になっても倒れない。平成の怪物だ。−−元首相秘書・朝賀昭さん
◇オヤジを間近で見てきたのだから、一郎先生は同じつまずき方はしない。震災復興に取り組む姿、もっと見たい。−−元首相の実娘・佐藤あつ子さん
<君以外を妻とせず敦子の将来については全責任を持ちます 田中角栄>
「文芸春秋」11月号に掲載された特集記事「田中角栄の恋文」は、元首相と「越山会の女王」の異名をとった佐藤昭子さんの深い結びつきを浮き彫りにし、大きな反響を呼んだ。「敦子」とは、2人の間に生まれたあつ子さんのことだ。
昭子さんは長年、東京・平河町の砂防会館などにあった元首相の事務所で「金庫番」を務め、小沢元代表ら旧田中派議員から「佐藤ママ」と慕われた。85年に元首相が病に倒れると、長女の真紀子元外相によって事務所が閉鎖されたため、政治団体「政経調査会」を主宰した。
「ママが亡くなったのが昨年3月11日。1年後の同じ日、あの震災でしょ。すさまじい偶然を感じたね」
「今太閤」「闇将軍」と呼ばれ権勢を誇った宰相を昭子さんの下で支え続けた朝賀さんは、東京・赤坂の政経調査会で語り始めた。最盛期、議員141人、秘書約1000人を抱えた「田中軍団」の“GPU(ゲーペーウー、旧ソ連国家政治保安部)”と恐れられた情報網を確立した人物だ。
私は、朝賀さんから「近親者だけで昭子さんを弔った」と聞き、毎日新聞に急ぎ訃報を書いた。その際、入院先の病院で亡きがらと対面した「田中学校」の門下生は小沢元代表一人だったことも知った。「ママ、お世話になったね」と涙を流したことも。
「ママは最期まで小沢さんに特別な思いを持っていた。だから唯一、彼だけに連絡したんだ」。そう振り返る朝賀さんだが「恋文」については「僕は掲載計画を聞いていなかった。臆測が交じっているところもある」と釈然としない顔だ。「田中先生とママの関係を最も知るのは僕だけど、所詮は雇われ人。親族のすることに口を差し挟むにも限界がある」とも。
では、昭子さんが元代表に抱いた「特別な思い」とは何だったのか。
「小沢さんは毎日夕方になると、砂防会館にぶらっと顔を出し、ママも『イッちゃん』と呼んでかわいがっていた。オヤジさん(田中元首相)にも平気で悪態ついたり、議論をふっかけたりして怒らせるんだけど、お互いに親愛の情がにじんでいてね」
元代表がロッキード裁判の全公判を傍聴し続けたエピソードは有名だ。元首相は東京地裁に169回通ったが、「『オヤジだけ硬い椅子に座らせられない』ってね。そんな人は小沢さんだけだよ。今も昔も変わってないよ」。
昭子さんは晩年、「『田中角栄』と『小沢一郎』」と題する一文を残した。その一節。<マスコミは、小沢一郎の悪いところは全部、田中から引き継いだ、というような書き方をする。だけど、それは違う。田中イコール小沢ではない>(「新潮45別冊」)
ずばり、どこが?
「オヤジはおおらかで脇が甘いし、人を信じやすい。格好もつけずに泣きたい時に泣いた。その点、小沢さんは泣きたい時でも泣かない」と朝賀さん。74年11月、当時の竹下登官房長官が田中内閣の退陣声明を代読した際、田中元首相は執務室で涙を流したとの逸話がある。退陣に追いやったのは「文芸春秋」の2本のリポート、立花隆氏の「田中角栄研究 その金脈と人脈」と児玉隆也氏の「淋(さび)しき越山会の女王」だとされた。
「涙は事実です。日本国の総理大臣の名誉を傷つけたとの思いが強い人でしたからね。でも金脈問題は乗り切れると自信を持っていた。退陣の真の理由は二つ。ただ一人の『刎頸(ふんけい)の友』だった入内島(いりうちじま)金一さん(田中系企業の役員)とママが国会に呼ばれそうになったこと。そして当時、身重だった真紀子さんが強く反発して、オヤジが困っていたこと。それが真相だと思う」
そうした「人間味」は元首相の政治手法にも表れたが、「泣かない」小沢元代表は違った。「田中先生や金丸信先生には、足して2で割ってコンセンサスを得る妥協があったけど、『理の人』小沢さんにはない。理を追求するがゆえに敵もできるが、構わない。情は棹(さお)さされるけど、理は貫く。だから強いんだよ」
若い頃から小沢元代表に「かわいがってもらった」という佐藤あつ子さんは、親しみを込めて「一郎先生」と呼ぶ。田中元首相との「違い」を尋ねると、父親譲りの早口で即座に答えが返ってきた。「つまずいたオヤジの姿を間近に見てきたのだから、一郎先生は同じつまずき方はしないと思います」
小沢元代表は、かつて師をこう評した。<政治家としての能力をものすごく持っていた。だけど、体制を壊そうとした人ではない。僕は体制そのものを変えようとしている。だから、僕にとっては反面教師だね>(06年刊「小沢一郎 政権奪取論」)
85年、竹下氏が派内勉強会「創政会」を旗揚げし、小沢元代表も参加する。当時、田中派内に沸々とした「マグマ」がたぎるのを感じたという朝賀さんは、あるじのダミ声をまねて言った。「ゴルフ帰りの車中、オヤジが『どうだ? 最近のウチの連中は』と聞くから正直に報告したの。『先生は3頭立てのトロイカ方式で派を運営しようとお考えかもしれませんが、馬は竹下さんだけですよ』と。そしたら『生意気言うな!』って、どやしつけられてね」。復権を目指す元首相には、竹下氏の台頭は耐えられないことだった。
<彼の欠点は、どうしても後継者をつくろうとしなかったことだね>(96年刊「語る」)と元代表は自著で総括している。「創政会への参加も、小沢さんにとっては『理』だったんだな」と朝賀さん。師が信じた「数は力」を体現し民主党内で最大勢力を誇りながら、政治資金規正法違反(虚偽記載)で強制起訴された小沢元代表。その胸中を、朝賀さんは「間違ったことをしていないのに、なぜ指弾されるのか。理としては当然、許せない」とそんたくする。
「ただ記者会見の言い方が下手。『マスコミにサービスする』にしても、オヤジならばもっと上手にやる。でも、どっちが正直かと言えば、小沢さんかな。オヤジがよく『槍衾(やりぶすま)になるぞ』と言っていた。いたずらに敵を作るなという教えだけど、小沢流からすれば、槍衾になっても正しいことを言っているということだろうな。しかし、あれだけ集中砲火を浴びても倒れないなんて平成の怪物だよ」
あつ子さんは言う。「私には政治がよく分からないけれど、震災復興に取り組む一郎先生の姿をもっと見たいです」
復活を目指してかなわなかった「オヤジ」の気持ちを今、小沢元代表は痛いほど感じているのか。判決は来春にも出る見通しだ。
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
▲このページのTOPへ ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK121掲示板
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。