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既存政党枠内で日本の政治を語たる愚 地球を覆うグローバル経済の終焉
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2011年11月03日 世相を斬る あいば達也
政府・日銀の7兆とも10兆とも言われる為替介入の効果は対ドル:75円―79円―77円と推移、早晩75円から70円方向に向かう事になりそうだ。米国は容認と云うより不快感さえ見せている。まぁ米国のご機嫌は別にして、社会経済全体のファンダメンタルを俯瞰した場合、パラダイム・シフトの余地を大いに残している日本国家は見た目の成長率はゼロだが、世界全体からみると成長余力が充分にあり、且つ社会的に安定した国家と評価されているのだろう。
それはそうだ、富裕層と呼ばれる国民に限らず、中間層の国民もこっそり相当の小金を貯めている。ワーキング・プワーと呼ばれる人々も存在するが、総体的評価の範囲ではデータに入らない。また、日本が高度成長期に残した親の蓄積は一定の範囲で子子孫孫に受け継がれ、親自体がその先祖から受け継いだ資産も残っているのだ。また、統計に出てこない隠れ資産も存在する。円が安定通貨として買われるのには、それなりの意味があるのだ。借金より資産の方が多い国民を抱える国なんて、そうそうないことを日本人は肝に命ずべきだ。
ただ、そのような現状と今後は別の話で、経済成長率が殆ど見込めない国家が、どのようにして拡大する社会制度を賄って行くか、それは別の議論だ。何も経済成長しないのが先進国としては日本だけだとの嘆きが聞かれるが、欧米のように無理繰りの成長数値を弾き出すより真っ当だともいえる。グローバル経済自体が、先進各国のマーケット疲弊を表し、資本主義自体の限界を露呈していると判断すべきだ。発表される経済指標が良好であっても、実体経済はどっちみち同じことになる。国民資産が残っている日本の方が良好なくらいだ。
社会制度は、国体の伝統文化も含めた総合的問題であり、例えば税金をどれだけ取るかと云う議論は、単なる財務関係行政の都合である。民主党は国家的社会体制次元と徴税の都合の次元を誤魔化し繋ぎ合わせ、「一体改革」等と云うプロパガンダ語彙で、国民その他を騙している。役人の知能は高いから、政治家やマスメディアの馬鹿を騙すなど、朝飯前に違いない。勿論、愚民は言うに及ばない。
ただ、役人の知能が高くて、テクニカルに有能であっても、撒いた餌に喰らいつく国民が存在しなければ、そのテクニカルは成立しない。逆に言うなら、役人の餌に喰らいつく国民の趨勢こそが、日本の政治行政を腐れ切ったものにしているとも言える。もっと深い病巣を抉ろうと思うと、国民は政治行政にどの程度関わりたいと思っているかと云う問題に行き着く。個人主義の台頭が一気に生活主義に至り、都会では家族主義と云うコミュニティで完結させたがる国民が増えている。
時々、そのよう国民は衝撃的事件や事故・災害などに見舞われると、コミュニティの大切さを口にし、時に大切なのかもな〜、と気づきかけるのだが一過性に過ぎず、喉元過ぎれば熱さ忘れる風情と云うことだ。いまだ終息の入り口さえ見えない原発事故への話題も、一般の国民は過ぎ去った出来ごとのように捉えている。玄海原発で、佐賀県知事と九州電力が癒着構造を露呈し、世間の糾弾は当然かなと思いきや、両者ともに第三者委員会の結論などシカトで、何事もなかったように振舞う白々しさ。地震津波に襲われた人々のことも、関係者でない限り、日常的生活とは切り離した関係におかれる。このような現象を、国民の精神的劣化と捉えるか、そもそも人間と云うものは、その身の丈の問題しか興味を示さない存在なのか、と云う問題でもある。
筆者はどちらかと云うと後者ではないかと思っている。生活への興味がない事には通常の市民生活が送れない以上、生活重視にならざるを得ない。乱暴な帰結だが、キリスト教文化圏においては、その生活重視にも関わらず、ゴッドと云う存在があり、その救世主メシヤとしてイエスまでが存在し、ピンからキリまで一神教のゴッドという共通項がある。この共通のゴッドが自治能力を高める一因になっているのだろう。自治能力のない国民はコミュニティを作る能力に欠け、民主主義を実際には有効に実施できないと云う悩ましさを抱えている。筆者は日本における民主主義の定着は、マダマダなのだろうと思う。
これは封建社会以前からの、日本民族の持ちうる特性であるかもしれない。農耕民族的だとも言えるし、侵略の少ない島国だと云う事もあるし、あるがままを受け入れる民族の美でもある。明確な四季があり、豊かで人に試練を与える山河あり、洪水で民は死ぬが、肥沃な土壌も作ってくれる。“ゴンベイが種を撒けばカラスがつつく”それも受け入れるのが日本民族なのだ。海辺では豊かな海藻が取れ、チョイと潜ればアワビにサザエだ。沿海でも魚は取れ、食卓を豊かに彩る。時に海は荒れ狂い人を呑み込む、それでも災難が去れば、また豊饒の海は、何事もなく鎮まりかえる。まさに自然の鎮魂である。
筆者の勝手な想像だが、このような自然との共生で生きてきた民族には、あるがままを受け入れる素地がある。それが民族の原点であるわけだから、自然からの統治に従順であった。その延長線で、時の権力にも従順である方が馴染みやすい。ただ強かな被統治の民は、心の奥底や魂において不従順な生活様式を構築してきた観がある。このような民族が、キリスト教文化圏で発展してきた民主主義を、そのまま受け入れることが可能なのか、甚だ疑問だ。
日本の国家体制は「わが国は近代的な意味の憲法を持っており、その憲法に従って政治を行う国家である以上、立憲君主制と言って差しつかえない」とし、「もっとも、大日本帝国憲法(明治憲法)下におけるような統治権の総攬者としての天皇をいただくという意味での立憲君主制でないことも、また明らかである」と云う事で、同じ国家体制の名称でありながら、中身が違うと云う曖昧模糊なものである。占領国アメリカの思惑も含まれるだろうが、近代国家としての民主主義が簡単に馴染む素地がないと考えた傾向が窺える。
その読みは正しいわけで、元首として“お上”の存在は消し難い歴史的背景があり、ただ統治の主権は国民にあると云う、ダブル・スタンダードの典型国家体制を構築している。悪い意味のWスタンダードではなく、民族に似合う体制だとも言える。上記のような問題を議論せずに、(議論しても答えは出ないのだが)キリスト教文化圏の経済構造の中で生きることは、常に違和感と同居する運命の民族だ。単純なようで、とても複雑で、一筋縄では統治できない民族なのである。大人しくてズルイ民族とも言える。(笑)アメリカのような歴史のない単細胞国家が理解できる筈もない。
昨日のコラムで書いたのだが、現在の日本の政党には、この民族について充分な意識を持った政党がない。故に、合理的に考えるとウンザリするような日本と云う国を操縦する政党は、民主党も自民党も失格と云うことだ。民族の根源的特性に着眼し、その特性が合理的に発揮できる政治的ビジョンを詳らかにしない限り、今後政党に期待することは難しいのだろう。そして、国家ビジョンと同時に政治権力能力が求められるのだから、既存の政党に期待することは不可である。
少なくとも、現状の二大政党、民主vs自民の構図では、何事も始まらない点だけは断言しても構わない。その他の党を論ずる必要はないだろう。野田君は、10日に国内でTPPへの意志表示を行い、逃げるようにハワイに飛び、12日に「魔のTPP」交渉参加をAPECで表明する腹積もりのようだが、そのことで政権の余命を半年で終わらせる可能性は高まった。日本の首相として生き永らえる積りなら、断る選択もあるのだろうが、「僕は良いことしてるよね」と確信犯なだけに突っ走りそうである。ご愁傷様。(笑)亀井静香の刺し違えではインパクトが少ないし、小沢一郎は判決が出るまで意志表示し難いとなると、当分日本の政治はモラトリアムになりそうだ。出来る事なら、来年の4月以降まで滅茶苦茶にしないでおいて欲しいものである。
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