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哲学者で作家の山崎行太郎氏が「人民裁判と化した小沢叩き」という題で「毛沢東の文化大革命で多くの有能な政治家を血祭りにあげた「人民裁判」が、いま日本でも小沢氏に対し行われている」と「月刊日本」10月号で指摘(下記)している。これを読んで私は恐ろしい時代になるのではないかという恐怖感を感じた。
<以下、一部抜粋>
法というルールに準じて、世論の復讐感情に走らず、独自の判断をくだすこと、これが裁判所に求められる役割だ。そしてルールの変更を行うのは立法府なのだ。これが「好悪にかかわらずルールには従う」というローマ法以来の伝統に基づく、近代国家の原理だ。
さて、小沢氏をめぐる事件では、まさに大衆の怨念がルールをねじ曲げるという現象が起きている。法が適正に運用されているかではなく、小沢一郎という政治家を有罪にするためには、ルールは無視しても構わないという事態が起きているのだ。
大衆の怨念が法を左右する状態、これを普通、人民裁判と呼ぶ。少し年配の人ならば、文化大革命が吹き荒れた頃の中国の様子を思い出すだろう。『毛沢東語録』を振りかざした青年たちが絶叫しながら被告を糾弾する、そして被告の頭には赤い三角帽子が被せられ、弁護する機会も与えられず、有罪判決が下されていくのだ。今日本で起きているのは、あの人民裁判なのだ。
左翼がそのような形で小沢氏を糾弾するのは、むしろ真正の左翼らしくて当然のことかもしれない。問題は、法学者のみならず右翼・保守陣営と称される人々・メディアまでもが、小沢氏糾弾という、右翼が最も嫌うはずの人民裁判に熱狂していることであり、左右両陣営の熱狂に後押しされて、裁判所が法をねじ曲げ、人民裁判所と化しつつあることだ。
右翼・保守派は、たとえば東京裁判の無効性・不当性について語り、パール判決について語るのは好きだが、小沢裁判についてはその無効性・不当性については問題がないと考えているのだろうか。ここで大事なのは、小沢一郎という人物のことを、好きか嫌いか、という問題ではない。
法が適正に運用されているかだ。一旦、好悪が法をねじ曲げるという先例が出来れば、法はもはや意味をなさず、すべての裁判は人民裁判と化すだろう。小沢一郎を快く思わない人間がたくさんいるのは知っている。だが、嫌いな人間が窮地に陥っているのを見てほくそ笑んで、法がねじ曲げられてゆくのを座視すれば、その歪められた法はやがて、笑っていた人間にも縄をかけてくるようになる。
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