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それでも地球が動いている
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2011-10-20 05:19:23 弁護士早川忠孝の一念発起・日々新たなり
自分を相対化するのは難しい。
天が動いているのか地が動いているのか、普通の人には分からない。
海の先はきっと滝に違いない。そう思う人がいてもおかしくない。
地動説を唱える人が多いところで、天動説を唱える人は肩身が狭いだろう。
馬鹿なことを言っている。
その証拠を示せ。
検察の暴走を信じている人たちは、自分がそう信じる資料だけを拾い集める。
毎年何万件もの裁判があるのだが、その膨大な事件の山から自分たちの理論を証明できそうな事実だけを拾い集めて、はい、この通り、という。
その拾い集めたこと自体は正しいから否定はしないが、それで全部だ、と断言されると、いや必ずしもそうではないですよ、と言いたくなる。
それでは、暴走でない証拠を挙げろと言われると、あれもこれも様々な事例を挙げて結局すべてのことに言及していかなければならない。
単眼ではいけない。
何事も複眼で見なければ、物事を見間違えすることがある、ということだけは間違いないのだが、単眼でも見えることは見える。
見えるのは見えるのだが、大事な時に目測を誤るときがある。
目測を誤ったことが分かるのは、結果が出たとき。
結果が出ない間は、自分が見ていることが正しい、といつまでも言い張ることが出来る。
裁判官出身の弁護士がしばしば陥りやすい間違いは、ここにある。
裁判所が間違っている。
裁判官が法律の解釈を誤っている。
必ずそう言うものだ。
自分を相対化することが苦手な人は、大体そうなる。
最後は、裁判制度自体を否定することになる。
検察官面前調書の証拠排除で、これで無罪判決確定、などと騒いだ人たちは、裁判所がどう判断するか、どういう論理で事実認定をするのかということについて目測を誤っていた、ということなのだが、自分たちが目測を誤っていたということは棚上げして、裁判官が間違っている、裁判所が悪い、と言う。
小沢秘書裁判の証拠排除決定を見て、これで小沢氏の無罪は決定的になった、と評価した人が、今度は小沢秘書裁判における判決結果、裁判所の事実認定は小沢裁判とは別の事件だから関係ない、別の事件についての別の裁判所の判断は関係ない、と言い始める。
自分の描いた土俵から一歩も出ないで議論しようとするから、違った土俵を作ろうとしても頑強に抵抗する。
ただ、それだけのことである。
土俵の周りでどんなに騒ごうが、淡々と裁判は続く。
裁判の土俵は、とりあえずは裁判所が作っている。
土俵の作り方が間違っている、という批判はあるだろうが、まずはその土俵で攻防を尽くさなければならない。
土俵が違う、土俵が違うと叫んでいても、やがて結果は出る。
私たちは、なるべく多様な目で物を見るようにしておいた方がいい。
あんな物の見方もある、こんな見方もある、ぐらいの柔らかさがあっていい。
もっとも、それでも自分が立っているこの地面が動いているのだとは到底信じられないのだが。
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