http://www.asyura2.com/11/senkyo120/msg/670.html
Tweet |
マスメディアが小沢一郎を貶めようとする理由についてネットでは様々な解説がなされている。作家の世川行介氏は自身のブログで「マスメディアが第4の権力として心証重視の人民裁判を行うようになった経緯」を次のように分析し、いま小沢一郎がなぜ抹殺の標的になったかについて作家らしい深みのある見識を示している。
<論文抜粋>
マスメディア(マスコミ)は、「体制内報道機関」であったし、今もそうであるし、これからもそうであろう。しかし、時が経つに連れて、新聞(活字)とテレビ(映像)の相乗効果による威力を自覚し始めたマスメディア関係者の中に、マスメディア(マスコミ)を司法、立法、行政に続く「第四の権力」としていこう、とする意識が出始めた。
「三権分立」というのは、権力の分立図式としては、人類の叡智の結晶であるように思える。そこに、「第四の権力」として「マスメディア」が入ってきた場合、「三角形」は「正方形」にはなるかもしれないが、凝縮度の高い三角形に比べて、どこか脆弱や矛盾を生じさせるのではないか?と危惧するのは、何も、僕だけではないはずだ。
おそらく、マスメディア関係者もそれを知っていたと思われる。三角形は三角形のままであった方がいい、と考えた場合、「第四の勢力」がとるべき道は、三角形の一角を、それまでの勢力に代わって、自分たちが牛耳ることであり、事実、それからのマスメディアは、裁判所に取って代わった「司法権」の確保に向かって進み出す。
彼らは何をしたか。朝昼と「ワイドショー」を流し、無学な司会者と暇で阿呆な主婦を集めて、魔女狩りとでも言えばいいような「人民裁判」を繰り返し、「裁判所」の決定何するものぞ、と言わんばかりの社会的制裁を、ターゲットにした人間に与えた。「証拠重視」の裁判所よりも、「心証」で判決の下せる人民裁判の方が、この国の民には合っていたのだろうか、ワイドショーにおける人民裁判は、途絶えることなく数十年続いた。
確かに、これは「裁かれる側」にとってはやっかいな「脅威」であるから、マスメディアを恐れる傾向は、十分に広がった。が、だからマスメディアが裁判所に取って代わって司法権のボスになれたのか、と言ったら、そんなことがあるはずがない。何故なら、民放は、報道に関して、二つの認可権を持ったところからの許可がなくては、報道が出来ないからだ。
一つは、言うまでもなく、制作費を出す「スポンサー」だ。スポンサー企業が激怒する報道を、いくら社会正義のためと言っても、報道するわけがない。だから、100%正義のような断罪ポーズを取ってはいるが、民放の打ち出す正義は、スポンサーの許容範囲での正義にしか過ぎない。
もう一つの存在は、電波に関する認可権を持った総務省官僚だ。僕は、郵政民営化闘争の時に、総務省官僚たちが民放に対してどれほどの無言の圧力をかけたか、嫌と言うほど見せられた。小泉純一郎と総務省電波系官僚が組んだ「郵政民営化」に、民放の報道関係者は、ただの一人も、異議申し立てをすることが出来なかった。
つまり、裁判所に取って代わろうとする<民放の正義>とは、この程度のものなのだ。それにもかかわらず、この数十年の間に、マスメディアは、裁判所に取って代わるかのような勢いを見せてきた。その過程で変質を余儀なくされたのは、証拠重視の裁判所判決から、心証重視のマスメディア判決を容認するようになった、「大衆の法意識」だった。
「裁く」という行為の軽薄化だった。しかし、意識の変容は、「裁判員制度」という「司法の無責任」を容認する制度の導入にまで至った。余談になるが、僕は、裁判員制度によって、「一審の無意味化」が始まるような気がしている。これからの法廷闘争は、二審が主戦場の闘争になり、裁判の迅速化を目指しながら、結局裁判の長期化を促すだけのことになるだろう、と思っている。
<小沢一郎抹殺キャンペーン>の本質は、何処にあるのだろう?
僕は、これは、
放送業界(旧社会主義思想の残党)、
総務省(高級官僚群)、
スポンサー企業(経済界)、
の三者が、平成大衆の法意識の変容を勿怪の幸いに、「小沢一郎の社会的抹殺」について暗黙のうちに合意した結果だ、と認識している。
何故そこまでするのか?小沢一郎の社会的抹殺に成功したのなら、その果てに訪れるのは、だらしない<理念の風化の季節>だからだ。僕たちは、この国の理念の風化に抵抗し、そうあってはならない、と主張するのだが、風化こそが、低俗番組を量産して知的底辺層大衆の意識操作をし、抵抗しない愚民に支えられた国家運営をし、低賃金で働くことに不足も言わない労働者を確保し、従来の利権構造を維持するには、もってこいの環境である。
そうした立場に身を置く彼らにとって、この国の30年先を憂い、30年後の国家像を語ろうとする小沢一郎なんぞは、不要の存在であり、法を無視してでも抹殺してもかまわない存在である。という認識に立った時、僕たちに代わって、風化の平成にあって、鋼(はがね)のごとく屹立してきた小沢一郎と、彼の提示してきた理念を死守するために、<知の支援体制>の確立を急がねばならないのではないのか、と焦燥するこの頃である。
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
▲このページのTOPへ ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK120掲示板
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。