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毎日新聞は9月中旬に全6回にわたり、これまでにあった原発を巡る訴訟について、関係者などを取材した記事を連載した。取材対象は原発差し止め訴訟の原告、原発訴訟の裁判長、訴訟を担当した弁護士などである。記事によると原発を巡る訴訟の歴史は40年になるが、原告・住民側が勝訴した例は少ない。その数少ない勝訴の一つに03年1月の「もんじゅ設置許可無効確認訴訟」の差し戻し控訴審判決がある。
「もんじゅ」とは「文殊菩薩」「文殊の知恵」から名づけられた、高速増殖炉の実用化を目指す研究開発用の原型炉である。濃縮ウランを燃料とする軽水炉原発から発生したプルトニウムとウランの混合物(MOX)を燃料とする。95年にナトリウム漏れに起因する火災事故を起こし、運転を中止。10年5月に運転を再開したが、同8月に再びトラブルを起こし、その後、震災もあって現在は運転中止している。
この原告だった吉村清さん(86歳)は「裁判長の訴訟指揮が画期的だった。両方の意見に公平に耳を傾け、判断してくれた」と1審(原告敗訴)との違いを説明する。川崎和夫裁判長は「私は素人ですから」と言い、原告と被告を集めた「勉強会」を開催した。そして基礎的な質問をすることもはばからなかったそうだ。法学部出身の裁判官として当然だと思うのだが、他の原発訴訟では、そのような話はないようだ。
事故が起きていない状況で、科学的知見の少ない裁判官が司法判断を下すのが難しかったことは理解できる。福島原発事故を目の前にして、原発訴訟の1審裁判長を務めた元判事は「実際の原発事故を目の当たりすると、認識は甘かったと思う」と述べている。だが、「原発訴訟は審理に高度の専門知識が必要であるから、多くの人の知恵を借りるべきであった」との反省の弁は、遅きに失している。
別の言い方をすれば、科学技術が高度に発達した現代社会で、科学的知見のない法学部系の裁判官に、国民の安全を担保する司法判断はできないということだ。海難事故の究明には、行政機関であるが海難審判所がある。海難審判は、刑事裁判ではなく行政審判が下る。三権分立と法体系の問題があるが、原発事故、航空事故、医療事故など、高度の専門知識を要する分野での裁判は、これから見直す必要があるようだ。
裁判所での専門的技術分野の審査の難しさに加えて、92年10月の伊方1号機訴訟での最高裁の判断、即ち、「審査に重大な誤りがあった場合は設置許可を違法とできる」が、その後の原発訴訟に大きな影響を与えた。この最高裁判断は「裁判所は原発の安全性ではなくて、審査手続きの合理性のみを審理する」という趣旨なのである。これは、司法が「原発の安全性を保証できない」と言っているのと同じなのである。
処で、上記の高裁判決は、最高裁で破棄された。最高裁は事実認定ではなく、法解釈に誤りがないかを審理するはずなのだが、高裁判決の事実認定*を大幅に書き換え、判決を下した。この原告団事務局長は「国策に沿った政治判決。何のための三権分立なのか」と批判している。そして最高裁判決に関わった5人の裁判官は、いずれも取材に応じなかったそうだ。裁判官は科学的・論理的な説明出来なかったのだろう。
事務局長が「国策に沿った政治判決」と指摘したのは、核心を突いている。90年3月に住民側の控訴を棄却した仙台高裁で、左陪席裁判官として判決に関わった元高裁判事は、「結局、原発は推進するほかない」「電力需要を考慮し、技術力を上げて安全性を高めてほしいという趣旨だった」と述べている。いまさらの感は否めないが、要は、裁判官・司法権が日頃から行政の国策を「正」としていたということである。
つまり、建前上は最高裁判所判事を「国民審査」で排除することができるように、司法権は主権者である国民の支配下にある。だが、それが全く機能していない。そのため司法権と行政権とが、相互支援して国民の前に国家権力として立ち向かっている。これが日本の現実だろう。その結果、多くの国民が放射能汚染に苦しむことになったと言うことだろう。
http://www.olivenews.net/news_30/newsdisp.php?n=115689
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