http://www.asyura2.com/11/senkyo120/msg/537.html
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http://list.jca.apc.org/public/cml/2011-October/012345.html
[CML 012484] 陸山会事件判決 小沢氏擁護論の論理が抱える脆弱性について
higashimoto takashi higashimoto.takashi at khaki.plala.or.jp
2011年 10月 10日 (月) 18:41:25 JST
先月26日にあった東京地裁の陸山会事件判決について、「裁判官が自分の推測と推断で事実を認定し、それに基づいて判決を下す。前代未聞のことであり、司法の自殺に等しい」(6日夕の衆院議員会館における小沢氏記者会見発言。産経新聞、2011年10月6日)とする小沢氏の同判決批判の主張とほぼ同値といってよい東京地裁判決批判が小沢氏に親和的なフリージャーナリストやシンパサイザーを中心にしてこのところ連日のように繰り広げられています。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/111006/stt11100619050019-n4.htm
その判決批判の中には耳を澄まして聞くべき批判もなくはないのですが、その判決批判の「論理」の実体はつけたしのようなものでしかなく、おおむね小沢氏擁護のための擁護を第一義にする、すなわち論理的ではない、ためにする判決批判がおおよそのところのように私には見えます。ここでは私のいう論理的ではない小沢氏擁護のための擁護論と、耳を澄まして聞くべき論理的な(後に論証しますが、一見論理的に見えるということでしかありませんが)判決批判を一例づつとりあげて小沢氏を擁護する論の恣意性、主観性の一端を明らめてみたいと思います。
その前に前提として次のことを述べておきます。
それは、今回の小沢氏VS検察・マスメディアの構図に関して、私は検察やマスメディアの姿勢に肯定的ではない、批判的であるということです。検察はおそらく今回の事件でははじめの段階では小沢氏の収賄容疑での逮捕をめざしていたと思います。その収賄容疑での立件が難しくなって途中から政治資金収支報告書の未記載、虚偽記載違反容疑に切り替えて捜査を進めていった。その今回の検察の捜査の手法は別件逮捕の手法というべきであって決して認めることはできません。また、自らの立件案件を有利にするために操作した検察サイドの情報を意図的にマスメディアにリークし恥じない今回の検察のやり口の不法・不当性も厳しく白日の下にさらされなければならないものだ、と思っています。
また、そのことに関連して、マスメディアが検察の下請け機関化してジャーナリズム本来の独自の検証の姿勢を忘却して検察のリーク情報を無批判に垂れ流し続けた姿勢も犯罪的ともいえるほどの重大問題だとも考えています。このことを上智大学教授の田島康彦氏は外国メディアに「ニュース・メディアはウォッチ・ドッグ(権力の監視者)であるべきだが、彼らはガード・ドッグ(権力の番犬)のように振舞っている」(注1。ニューヨーク・タイムズ「日本のメディアは検察庁が流す情報を丸投げ」 2009年5月29日)と語っていますが、まさにそのとおりです。私はこの点において検察もマスメディアも塵ひとつも擁護するつもりはありません。
注1:原文は“The news media should be watchdogs on authority,” said Yasuhiko Tajima, a journalism professor at Sophia University in Tokyo,“but they act more like authority’s guard dogs.”
http://www.nytimes.com/2009/05/29/world/asia/29japan.html?_r=1
さて、上記を前提にして、先に論理的ではない論、小沢氏擁護のための擁護論のひとつの例としてフリージャーナリストの上杉隆氏の「もはや関係修復は不可能 小沢一郎氏vs記者クラブメディアの戦い」(注2。ダイヤモンド・オンライン 2011年10月7日)という論をとりあげてみます。先頃CML(市民のML)にも好意的に紹介されていた田中龍作氏(フリージャーナリスト)の「『小沢記者会見』報道のウソを暴く―TBSキャスターの掟破り」(注3。田中龍作ジャーナル 2011年10月8日)という記事とも呼応する論となっているからです。
注2:http://diamond.jp/articles/-/14315
注3:http://tanakaryusaku.jp/2011/10/0002995
上杉氏はこの論で「小沢氏のマスコミとの戦いを検証する意味でも、きょうの会見を振り返ってみよう」と言います。しかし、そう言うわりには、その検証の材料としてあげているのは小沢氏の6日夕の記者会見発言を除けば、TBSのNews23のキャスターの松原耕二氏が同記者会見の司会者が「フリーランスの記者の質問を2問ほど受けます」と言っているにもかかわらず「フリーやネット記者を装」うという「姑息」な手段を用いて「質問を始めた」(田中龍作記者)という一件のみです。
そして、この上杉氏の論で問題なのは、そのたった一件の検証材料としての逸話を改ざんしていることです。上杉氏はこの論の前振りで次のように言っていました。「筆者も会見には出席したが、小沢氏の発言の引用については、より公平性を期すため、すべて産経新聞のウェブ版に拠った。さらに、文意のまとまったパラグラフについては省略をしないことにする。(略)それでは、小沢一郎氏と記者クラブメディアの戦いをノーカットで見てみよう」、と。いかにも公平性を装いながら肝心の「検証」の部分では司会者の「フリーの方も含めて質問を受けたいと思います」(注4)という発言を「フリーランスの記者の質問を2問ほど受けます」という発言であったかのように改ざん(意図的ではなかった、という弁解は通用しません。自らが前振りで公平性を装っている以上)した上であたかも記者クラブメディアの一員としての松原氏の発言がアンフェアであったかのように上杉氏の好きな言葉でいえば「印象操作」しています。
注4:ビデオニュース・ドットコムの同記者会見のビデオを参照(17分34秒頃)。
http://www.videonews.com/press-club/0804/002093.php
しかし、司会者の発言が「フリーの方も含めて」というものである以上、マスメディア記者の発言は禁止されているわけではありませんので、松原氏が挙手して発言(しようと)したことにはなんの落ち度もありません。それを記者クラブメディアの記者の横やりやアンフェアであるかのように「印象操作」するのはそれこそアンフェアな態度だといわなければならないでしょう。事実、松原氏は司会者が「質問はフリーの人を優先してということなんで」と釈明すると、それ以上発言することは控えています。ここでも松原氏は小沢氏が叱責する「ルール違反」などしていません(注5)。
注5:田中龍作記者は注3の記事で松原氏を「社名も氏名も名乗らずに質問を始めた。フリーやネット記者を装ったのである。姑息と言わざるを得ない」と批判していますが、司会者から「フリーの方も含めて」と許可されての発言である以上、松原氏は「フリーやネット記者を装」うような「姑息」な手段を弄する必要などありません。また「社名も氏名も名乗らずに質問を始めた」のは事実ですが、発言後すぐに司会者の指摘を受けて「ごめんなさい。TBSの松原でございます」と陳謝した上で社名と氏名を名乗っています。私たちも氏名や所属をはじめに名乗るのを忘れていきなり発言をはじめるということはときどきあります。そうした名乗り忘れを記者クラブメディアの記者に限って「姑息」などと臆断して批判するのはこれもまったくアンフェアなことです。批判のための批判、ためにする批判というほかないでしょう。
この件に関する上杉氏のこの記事の最後の言葉は次のようなものです。「フェアな議論はフェアな舞台にしか宿らない。/小沢一郎氏がマスコミを人物破壊を行う『敵』のひとりとみなしている理由はここにある」、と。まったくご都合主義の手前勝手な言い草としか私には見えません。上杉氏の論を小沢氏擁護のための擁護を第一義にする、すなわち論理的ではない論とする私の「理由はここにあ」ります。
次に耳を澄まして聞くべき論理的な側面を持つ東京地裁判決批判の論としてビデオジャーナリストの神保哲生氏と首都大学東京教授の宮台真司氏のビデオニュース・ドットコムのニュース・コメンタリー(2011年10月08日)での対談をとりあげてみます。
http://www.videonews.com/news-commentary/0001_3/002096.php
神保氏と宮台氏のここでの論の特徴は、法的責任と政治的責任とを峻別して小沢氏の法的責任は推定無罪の原則や法の平等の観点から問われるべき筋のものではない(ママ)とするものの、小沢氏の政治的責任は決して免罪していないことです。
この点について宮台氏は次のように言っています。
「ただある種の一部の国民感情や一部のマスコミの報じ方をあえて擁護することもできないわけではない。つまり、小沢さんは相変わらず4億円の出元については昨日も記者会見で聞かれて『それを知っているのは検察だから、検察に聞いてくれ』見たいな話(をしていますが)(略)この裁判がデタラメで小沢さんが明らかに無罪であるとしても、それとは別にこの4億円について多くの人が知りたいと思っているので、それについての合理的な説明をしてほしいな、と思う人たちがいて不思議はない。(略)小沢さん自身の政治家としての印象操作を首尾よくやるためには『それは検察に聞いてくれ』みたいな言い方で切り抜けようとするのはあまり得策ではないという気がします。」(4分24秒頃〜)
そうして神保氏と宮台氏は法的責任と政治的責任とを峻別しているのですが、神保氏は「今回の裁判ではこの事件の中心的な争点となった悪質性については、検察が『合理的な疑いが介在する余地がない』までに証明ができているとはとても言えない。にもかかわらず、『推認』や『合理的』との理由で、裁判所はその主張をほぼ全面的に認め、結果的に推定無罪の原則を逸脱してしまった」と言い、宮台氏は「状況証拠だけで『推認』『推認』『推認』(で成り立っている判決で)ありえない判決」などとして小沢氏の法的責任は問えないとしています。
しかし、神保氏と宮台氏の両氏が小沢氏の法的責任は問えないとするキーワードは「『推認』だけで証拠はない」というものですが、憲法研究者の上脇博之氏は今回の東京地裁判決は「推認」だけでなく証拠に基づいた有罪判決であることを下記の論攷で必要十分的に論証しています。
■「陸山会」裁判の東京地裁判決について(2):「西松建設」違法献金事件(2011年09月29日)
http://blog.livedoor.jp/nihonkokukenpou/archives/51618618.html
上脇氏の証拠を挙げた上での論究は以下のようなものです。
(1)「西松建設」自身が自社のHPでOBらでダミーの政治団体をつくる等してその「政治団体からの献金を装って政治家個人の政治団体等に献金することを画策した」ことや同社が「一部の社員に対して特別賞与の名目で金銭を交付し、その代わりに当該社員から年に2回、政治団体への寄附をさせていた」ことを明確に認めているという証拠があること。
(2)小沢氏側と二階氏側にそれぞれ他人名義で寄付をした西松建設の前社長は、有罪の判決が下され、それを受けた二階氏の秘書は他人名義での寄付を受けたとして有罪になっているという明白な事実も存在すること(すなわち、証拠もあること)。
(3)両政治団体の献金は全て西松建設が決定し、同社代表取締役社長(前掲の前社長)らの指示・了承の下、同社総務部長兼経営企画部長らが同社のOBで新政研の名目上の代表者に指示して献金の振込手続きを行わせていた。という証拠があること。
(4)小沢事務所の秘書らは2つの政治団体の寄付を西松建設からの寄付であるとして取り扱っていたという証拠もあること。
この「証拠」の問題については、岩上安身氏の「あの水谷建設のヤミ献金を事実認定、推認していく、その辺りがとてつもないと?」という質問に対して、小沢派のジャーナリスト、ブロガー、議員などから神様のように頼りにされている郷原信郎弁護士も「水谷建設のヤミ献金は推認じゃないですよ」「あれは水谷建設のあれ(関係者)が証言しているわけですから。直接証拠があるじゃないですか」と岩上氏の「推認」論を諌めています(郷原信郎弁護士インタビュー IWJ 2011年10月9日)。
http://iwakamiyasumi.com/archives/13307
東京地裁判決は「推測と推断で事実を認定」しており、「司法の自殺に等しい」などという小沢派流の俗論は自分の目で判決要旨、判決文の論理の流れをよく読んで、それこそ「検証」してみる必要があるだろう、と私は思います。いたずらな判決批判、小沢氏擁護の論には、今回の政治資金規正法違反事件ではいったい何が問われているのか。その視点が見事に欠落しているものが多い、という印象を私は強く持ちます。
東本高志@大分
higashimoto.takashi at khaki.plala.or.jp
http://mizukith.blog91.fc2.com/
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