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民主主義とグローバル資本主義経済 縄文の心は金儲けに負けるのか?
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2011年10月11日 世相を斬る あいば達也
民主主義とか、自由主義とか、資本主義はそれぞれ異なる次元の概念ではないのだが、世界の先進国家においては、概ね国家体制構築上の共通認識概念になっている。いまさら個々の概念について言及する必要はないだろう。そして、それらの概念が、表向き成立しているが如き見せかけも成立している。
アメリカにおいても、日本においても、フランス、ドイツにおいても、民主主義と自由主義と資本主義は表面的に成立している。しかし、実態はどうなのか?と個別の国家をざっと検証してみるだけでも、幾つかの部分で「はてな?」と云う問題を抱えている。どのような国家体制であっても「はてな?」は常につきまとうだろうが、歴然たる「はてな?」は是正の余地が判りやすくピックアップが可能だ。
しかし、巧妙に民主主義と自由主義と罪刑法定主義(法治国家)と資本主義が複雑に絡み合っている20世紀後半からの先進諸国の、それぞれの概念は資本主義と云う概念の為にのみ存在する補完概念に成り下がっているようで仕方がない。おそらく、概念の階層を無理にでも作るとすれば、民主主義、法治、自由主義、資本主義の順に並ぶべきではないかと思うのだが、どうも現実はかなり異なっているようだ。
筆者の感慨に過ぎないので、政治社会学者のように論理的に説明することは困難だが、どうも資本主義と云う概念がすべての概念の上位に位置しているのが現実の社会であるように思える。この資本主義と云う概念は日々変化し、その姿を七変化させていく。民主主義と自由主義と罪刑法定主義(法治国家)等々の概念は滅多に動くことはないので、資本主義の七変化に好きなように支配されているように見える。動きの鈍いさが弱味となり、ブンブン蜂に刺されっぱなしになっているようだ。
動きが鈍いと表現したが、民主主義と自由主義と罪刑法定主義(法治国家)がいとも容易く、資本主義のように軽佻浮薄に動きまわられては、それはそれで厄介なこと、不動に近い方が良いのだろう。ただ、現実の世の中が、人間社会の核となるべき概念の上位にいるが如き状況が問題なだけなのだろう。その原因の多くが「金が欲しい」と云う言葉に集約される部分が、如何にも哀し過ぎる。
資本主義の実態が、グローバル経済と云う形で成長したのも、合理的に「金が欲しい」をつきつめて行くと、国境を度外視して「人モノ金」が行き来する方が多くの「金が欲しい」に合致すると云う事になる。今や「金が欲しい」は先進各国にとって“イデオロギー”に替わる国家国民の“バイブル”にさえなっているのかもしれない。「金が欲しい」が人間自身を呪縛しているように思われてくる。
国家や社会、企業が「金が欲しい」と云う“正当性が担保された欲望”は、当然のように一人ひとりの個人をも呪縛する。“最終的に金だろう?”と云う言葉が人々の間で常識のように語られる世界が、今の先進諸国の諸問題のすべからくを網羅して語れるとさえ思えてくる。今や、“民主”も“自由”も“信条”“生命”さえも、資本の前に跪く世界が展開しているのだな〜、とつくづく思うのだが、時計の針を逆さまに回せるとも思えない。進みながら、その時の流れを変える何かを人類が見つけ出さない限り、どう考えても、行き着くところは“破滅”なのだろうと、想像してしまう。
当たり前すぎる現実を、わざわざ書きだす必要はないと云う人々も多いだろうし、“金と生き方は別だ”と主張する人々も、それは居るに違いない。しかし、筆者の目から、先進諸国の多くが「金が欲しい」又は「金をくれ」で明け暮れているとしか思えない。資本主義で生きる人々が逃れられないジレンマだとニヒルに言い、見て見ぬふりも可能だろうが、「はてな?」と云う問題意識も失いたくはないものだ。
民主主義と自由主義は見せかけになり、「金が欲しい」の資本主義に支配された国家や国民は、異なる概念の区別すら出来なくなる惨状に見舞われている。ここ数年の流れを観察していても、その糞味噌すべてが「金が欲しい」で集約される。少子高齢化と社会保障、財政健全化、普天間移設、政権交代、TPP、原子力発電、震災復興等々すべての話題の中心は「金が欲しい」なのだから、ウンザリだ。
それでいて、「政治とカネ」を錦の御旗に、検察は暴走する、裁判所も暴走する。そもそもが「金が欲しい」世界を作っておきながら、「政治とカネ」を旗印に、民族の独立と縄文の心を理念に掲げる政治家が袋叩きに遭う。本当に面白い不条理だ。たしかに、人間が不条理な生き物であることは認めるとしても、強盗が、盗んだ額がオマエの方が多いから罪人で(特定の政治家を指してはいない)、俺達はシステムの中で盗んだから罪人ではない、と言っている霞が関の役人たち、東電の経営者であり、債権者であり、株主なのだろう。そして、これこそが民主主義だと嘯くのだから、堪らん気持になってしまう。
日本が近代国家にあらずと小室直樹は言ったのだが、近代国家と云う駅を停車することなく通り過ぎて、“ならず者国家”とか、“奈落国家”とか、そう云う駅に停車しそうな按配に思えるのは、筆者の杞憂なのだろうか。
勿論、それでは資本主義に替わるべき、次なる何かが見えているのかと云うと、当然だがまったく見えていない。ただ、自由も民主主義も実生活も民族的自立も、それらのものどもが、資本主義とか、グローバル経済とか、金融資本主義の僕になっている現在の状況は、修正されるべきだと強く思う。おそらく、このような世の流れにおいては、人の幸福の尺度が「カネ」と云う目盛りだけになるようで、酷く情けない気分になってしまう。
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