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東京地裁の大善裁判長に、登石同様に最高裁事務総局の指揮ありやなしや(2)
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2011年10月07日 世相を斬る あいば達也
10月6日の法廷における小沢一郎の罪状認否・意見陳述は、筆者の想像を越え、小沢一郎の検察ファッショへの怒りが爆発していた。あそこまで明確に言い放って良いのかな?と思うほどのものだった。しかし、小沢一郎が今回の「人物破壊」に対し徹底抗戦を宣言した姿勢は、まさに権力闘争であり、検察への挑戦と超え、最高裁事務総局への挑戦でもある。延いては、野田内閣総理大臣に対する小沢一郎の意志表示である点が、極めて重要だ。
さて本題に戻るが、最高裁事務総局が小沢一郎にまつわる裁判に関して、全面的に関与するであろう、と云うのが筆者の考えだ。この前提でいくと、最高裁事務総局が小沢一郎に有罪・無罪を決定するに際し、法務省を通じて内閣総理大臣に、なんらかの形で接触することは当然である。昨年の暮れに「これは権力闘争だ」と小沢一郎が言い放った意味は、此処にある。
正直、石川議員らの裁判においては、最高裁事務総局の登石裁判長らへの関与はあっただろうが、法務省、内閣の関与まであったかどうか、不明な部分もある。彼らには気の毒だが、彼らの政治的影響力の問題であり、権力闘争の範疇に含まれる問題とは言い難いものだからである。また、検察の存在に異議が挟まれている状況において、これ以上の検察の信頼の失墜は、法の秩序維持にとって、好ましくないと最高裁事務総局が考え、且つ法務省が追認したと思考すべきだろう。
既に検察庁は、人事において当該捜査権の乱用を実行した検事に対し、粛清と云うか反省の姿勢を明確に示しており、これ以上の混乱による信頼の失墜よりも、秩序維持に力が働いた、と考えて良いだろう。 勿論、小沢一郎が6日の法廷における「意見陳述」で示した通り、『とりわけ、2年前の総選挙は、各種世論調査でも戦後半世紀ぶりの本格的な政権交代が十分に予想された特別なものでありました。そのようなときに、総選挙の行方を左右しかねない権力の行使が許されるとするならば、日本はもはや民主主義国家とは言えません。議会制民主主義とは、主権者である国民に選ばれた代表者たる政治家が自由な意思により、その良心と良識に基づいて、国民の負託に応え、国民に奉仕する政治であります。国家権力介入を恐れて、常に官憲の鼻息をうかがわなければならない政治は、もはや民主主義ではありません。日本は戦前、行政官僚、軍部官僚検察・警察官僚が結託し、財界、マスコミを巻き込んで、国家権力を乱用し、政党政治を破壊しました。その結果は、無謀な戦争への突入と悲惨な敗戦という悲劇でした。昭和史の教訓を忘れて今のような権力の乱用を許すならば、日本は必ず同様の過ちを繰り返すに違いありません。』、と石川議員らの捜査も権利の乱用であり、あのような判決は不当だと指弾している。
ただ、同一線上の捏造捜査起訴、捜査権の乱用は同根なのだが、検察が起訴した事実を覆すことは、法の秩序維持において、最高裁事務総局が好ましくないと思考するのは当然の成り行きだ。(*勿論、筆者も許せないと思うが、それが現在の日本の裁判の現実だ)それに対し、小沢一郎本人への、検察の判断は「不起訴」だった。つまり、検察に対して裁判所が配慮する必要はないと云う事だ。理屈の上では、検察の信頼の失墜を防御する意味でも、小沢判決は無罪の方が理に適っている。
検察審査会のド素人審査員が感情に流され、裁判で白黒つけろと言っただけの司法秩序に深く関わらない起訴なのだから、その法廷において「無罪判決」が出ても、誰も痛みを感じないで済むし、法の秩序維持にも影響を及ぼさないのだから、官僚組織の合理性から見ても無罪の方が納まりが良い。検察審査会の運営等への国政調査権をこれ以上行使され、根掘り葉掘りほじくられる事も望むところではないだろう。
今回の小沢事件等云うものの根っ子が、権力闘争であると同時に、日米関係における「小沢一郎排除の論理」もあるし、既得権益勢力全体への小沢の革命的思想もあるし、真っ向司法の不適切を批判している点から、一筋縄ではいかないだろう。ただ、あくまでも内政問題である以上、あからさまな米国の関与があると云う論に与する気持にはなれない。そのような思考経路を辿ってしまうと、常に米国が悪の枢軸であり、国内の既得権益勢力への監視批判の舌鋒がゆるゆるになる結果を招き、本末転倒と云う帰結になる。
検審起訴による小沢裁判はあくまでイレギュラーな国内司法問題と考えるのが妥当だ。勿論、彼らが宗主国アメリカとの同調性は共有するだろうが、すべてに共通するとは言い難い。最高裁事務総局は司法でありながら、行政機関の一部である現実から目を背ける事はない。やはり人事において行政の横槍は回避したいものである。そこで最も注目しなければならないのが、野田内閣総理大臣の腹の内である。
つまり此処からが政治権力の域内に入る。法務大臣の指揮権発動と云った目に見えるものではなく、時の総理の意向と云うものが、日本政治の唯一の実力者・小沢一郎の裁判においては重要な位置を占めると考えておくべきだ。総理は菅直人や仙谷や岡田・前原だったら、もう最高裁事務総局は意向を聞くまでもなく、自らの考えだけで突っ走れただろう。その答えは有罪無罪半々だ。
ところが、野田佳彦総理の選択した政権運営の選択は「党内融和」だ。本音では、小沢の力量に縋る傾向さえある。与党が野党との「ネジレ現象」で二進も三進も行かないと云うのに、党内野党まで抱え込んでは、日々頓挫の政権になるのは菅政権で証明済みである。野田政権としては、大震災にせよ、福島原発事故処理、エネルギー政策、世界恐慌の危険すら感じる経済と難局目白押しの状況で、与党内野党の究極の行動などされたものでは、一瞬にして政権が崩壊するのは目に見えている。常識的には、小沢裁判の行方は「無罪」に向かう方が野田政権にとってもベターである。当然、小沢問題で野党からの証人喚問等々の棘を抜くことも可能になる。最終的結論は来春であり、そこまでの野田政権の歩みによっても、政治権力状況は変わるので、今結論を語ることは早計だ。
筆者の個人的考えからすると、膿を出し切らずに隠ぺいするような処理方法は、次なる暴走を再び許す危険も同時に封印するので、好ましいことだとは思わない。しかし、政治にせよ、単なる世間にせよ、「一定の落とし処」で一段落させる方が、新たな前進に繋がる場合もある。小沢一郎の政治生命を堅持し、次なるステップを踏むことが可能な場を得る為にも、野田政権への一定の配慮と苦言をベストミックスで使い分けておく選択小沢はするのだと思う。政治的自己主張は、当分抽象的概念論になるのも致し方ない。徹底抗戦論も多いので、筆者のようなナマクラな意見は好まれないだろうが、政治とか権力闘争などは不条理を抱えて、常に進むものである。
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