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「小沢一郎、卒業」のすすめ
http://diamond.jp/articles/-/14179
2011年9月28日 山崎元のマルチスコープ :ダイヤモンド・オンライン
■小沢報道の不毛な盛り上がり
9月26日、小沢一郎民主党元代表の政治資金を巡って、収支報告書に虚偽の記載をした罪に問われた石川知裕衆議院議員ら元秘書3人に、東京地方裁判所は執行猶予のついた有罪判決を言い渡した。
この問題については、来月6日に初公判を迎える小沢元代表の裁判に影響を与えるのではないか、また、元秘書の有罪判決が出たことで、小沢氏が自ら監督責任を明らかにするべきではないか、あるいは、民主党は何らかの処分をすべきではないか、といった報道が多くのメディアでなされている。
ある週刊誌の記者は、もう代表でも大臣でもない小沢一郎氏の記事が雑誌にあることについて、「なんだかんだいって、小沢一郎(氏の記事)は、まだ売れる。読者であるオヤジ世代は、好きも・アンチも含めて小沢一郎が気になるのです」と言っていた。メディアが商売であるとしても、小沢一郎氏は、現在、大きく取り上げる価値のある政治家なのだろうか。
メディアの政治報道(主に新聞やテレビの「政治部」の報道をイメージされたい)は、もっぱら「政局報道」であり、政治家個人の政治的・個人的な動静と評判について、政治家本人に密着しているとする立場から伝えるもので、基本的な構造は芸能ニュースと大差ない。「政策」については、政治家の名前と共に触れられることもあるが、多くは官僚のレクチャーを元に、官庁発表の方針や検討結果などが伝えられるにすぎない。
現在の商業的政治報道にあって、小沢一郎氏が、まだまだ商品価値がある、ということなら、商売を邪魔するようで申し訳ないが、国民も、メディアも、何よりも民主党が、小沢一郎氏に注目することを、そろそろ止めたらいいのではないか。
親小沢・反小沢双方の意見をお持ちの方々からお叱りを受けそうだが、筆者は、国民が政治家としての小沢一郎氏を過去の人として「ほどほどに忘れる」ことが好ましいのではないかと思っている。比喩的に言うと、「小沢一郎(氏)、卒業」のすすめ、だ。
但し、筆者は、小沢氏の裁判が重要でないと言いたいわけではないし、小沢氏は現在も衆議院議員であるので、同氏が政策提言なり国会の質問なりで、議員らしい仕事をすることは「いいこと」だと思っている。
■「小沢vs.検察・メディア」の意味
来月初公判を迎える政治資金問題に関して、検察の捜査や、検察審査会の結論による強制起訴は適切だったのだろうか。また、メディアの小沢一郎氏に対する報道には、氏を追い落とそうとする意図に基づいた、報道の偏りはなかったのか。
筆者は、心証的には、どちらにも「大いに問題があった可能性」を感じている。捜査の時期や手法、さらに捜査関係者を情報源とすると推測されるメディアの報道は小沢氏の政治活動に大いに影響を与えたし、これが意図的なものなら問題だろう。世の中は所詮不公平なものだとはいえ、他の政治家とのバランスも問題ではある。
また検察審査会による強制起訴という制度が現状でいいのかどうかについても議論の余地はあるだろう。
しかし、これらは何れも「心証」で結論を出すべき問題ではない。
これは、「小沢一郎氏ともあろう者が、億円単位のカネの動きを知らないはずはないし、秘書が報告なしの独断で動けるはずがない」という推測による「心証」で小沢氏を有罪に出来ないのと同様である。
政治資金に関する記載ミスも政治家の立場では重大な罪だと考えるべき時もあるだろうし、逆に、検察が恣意的で不適切な捜査をしているとするとそれは大きな問題だ。しかし、重大な問題ゆえに、裁判の経過を慎重に追うべきであり、そこから逸脱した報道には抑制的であるべきではないか。
政治家が対象とはいえ、個人を対象とした刑事裁判なのだから、まだ知られていない新たな重要事実を独自取材で見つけたというのでなければ、憶測を交えて途中経過を報じる必要はない。そこには人権上の問題もある。
裁判で出た内容が正確に報道されればそれで十分だし、検証は裁判が終わってからやればいい。裁判前に、情報源も明らかにしない報道が溢れかえるような現状は好ましくない。
われわれは、被疑者の人権を守るためにも、独自取材の形を取りながらも「検察のリーク」と現在見えているような報道に批判と疑いの目を向けるべきだろう。可能性を含めた「検察の横暴」を抑止する上でも重要ではないか。逮捕あるいは起訴された段階で、「犯罪人である」との既成事実を作るようなメディアの検察側への加担は問題だ。
その代わり、裁判自体はもっと公開されるべきだろうし(そもそも、傍聴人が入る裁判はネット中継で公開すべきだと思う)、経過も含めて裁判の進行内容に即した報道や議論はあっていい。
■小沢一郎氏、注目不要の理由
筆者は、国民が小沢一郎氏を「卒業」したらいいのではいかと言った。その理由は、民主党の政権奪取以来の動きを見て、政治家としての小沢一郎氏が国民に貢献していると思えないからだ。
振り返ると、小沢氏が大きな影響力を持っていた鳩山首相・小沢幹事長体制で、小沢氏は、「政治主導」のかけ声の下に大臣と政務三役を省庁に送り込み、政策を陳情の受付まで含めて党の幹事長室に集約する、過去に例のない、特殊な体制を作った。しかし、これは長続きしなかったし、政策面での成果が殆ど出なかった。もちろん、当時の首相は鳩山氏であり、小沢氏に全ての責任があるわけではないが、小沢氏の実務的な政策実行力に疑問符を付けるには十分な経緯だった。
官僚の反発やサボタージュもあっただろうし、大臣や政務三役になった人材の不慣れや能力不足もあったかも知れないが、これらは政権交代を視野に入れた時点で考えておくべきマネジメントの問題だった。マネジメントの出来ない人物に地位と権力を与えてはいけない。
昨年の代表選で、筆者は、相対的な比較の観点から菅直人氏ではなく小沢一郎氏を支持する意見を述べたが、代表選の前後に、小沢氏が十分な政策論議で貢献したとはとても評価できない。官僚の傀儡である菅氏が酷すぎただけだ。
また、東日本大震災の発生後は、「剛腕」と呼ばれる小沢氏の実行力に期待する向きもいたが、復興についてこれまで小沢氏が具体的に役に立つ提言や働きをしたとは言えないと思う。
菅元首相を辞めさせるには不信任案しかない、という見立てと、仕上げをしくじったが一時は不信任案が可決するのではないか、という情勢を作り出した点で、「政局の人」として一定の存在感は示したが、ここでも「政策」は十分議論されなかった。
小沢氏は、現在の日本の官僚制度や、記者クラブのあり方(記者クラブなどというものがある、というそのこと自体)に対して大いに問題意識を持っていると聞く。このこと自体は、いいことだと思うが、ならば、政策そのものに関して、どうしてもっと自分自身で情報発信しないのか。若手議員に辻説法の効用を説くぐらいなら、自らも毎日ネットで政策を訴えたらいい。彼の知名度は、十分その役に立つはずだ。意見の出し惜しみ、政治家としての本来の働きの怠慢はいただけない。
震災後の報道では、小沢氏は菅政権の原発事故処理に大いに不満を持っていると伝えられたが、その後の代表選では、菅内閣では経産相のポストにいて原発問題の責任者の一人であった海江田万里氏を担いだのだから、原発事故問題で菅内閣を批判する資格はない。
それにしても、代表選で担ぐ人物が海江田万里氏だったというのは、あまりに不真面目だった。故ピーター・ドラッカー氏はマネジメントに大切なものは「真摯さ」だと言っていたが、筆者は、代表選での海江田氏擁立を見て「小沢氏は真摯でない」と思った。
小沢氏は、過去に、選挙と政局ではめざましい働きをしたことがあり、これが氏の伝説の源になっているように思えるが、政策を語り、実現すること、さらに適切な人事を行うことが不得手なのではないか。この点、多くの議員立法に関わり議論の出来る人であった故田中角栄氏とは政治家としての価値の点で比較にならない。
たとえ話で恐縮だが、かつての大手証券会社には、過去に営業で実績を上げていて「営業の神様」などと称せられ、社内に子分をたくさん抱えて影響力を持つ社内の実力者ではあっても、経営や組織のマネジメントが下手で社長の座には就けない種類の証券マンがいたものだが、政治家としての小沢氏には同じ臭いがする。「親分」ではあるのだが、自らトップにはなれない。この種の人は、しばしば社内を派閥化して、かき回す。
一国会議員としての小沢氏が、政策を訴えて、存在感を発揮するなら、それは、そのときに改めて評価すればいい。彼には、その気になれば発言の機会が十分あるはずだし、それは、歳費を受け取っている国会議員として国民から求められていることでもある。
それまでは、敢えて小沢氏に注目する必要はない。芸能ニュース的な「小沢一郎報道」はもういらない。
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