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近聞遠見:「極秘会談」と戦後政治=岩見隆夫
http://mainichi.jp/select/seiji/iwami/
毎日新聞 2011年9月24日 東京朝刊
<極秘会談>
について、書く。
ケイタイ政治と言われるご時世だが、肝心な時はケイタイでは用を足さない。顔をつき合わせた会談になる。
政治は無数の会談が織り出す反物のようなもので、出来、不出来も激しい。そのなかに大小の<極秘>がはさまる。漏れれば効果がなくなる、あるいは逆効果になるかもしれない会談だ。
野田佳彦首相誕生劇の裏で注目されたのは、野田と民主党の小沢一郎元代表との極秘会談だった。代表選告示2日前の8月25日、東京都内のホテルの一室である。
「会いたい」
という双方の求めに応じて2人と親しい細川護熙元首相が仲介し同席した。
野田首相誕生の直後には早くもメディアに漏れ、細川が新聞、テレビの取材に応じている。一般に重要度が高いほど極秘が長く保たれるが、野田・小沢会談は明かしたほうが得策という計算があったのかもしれない。
約40分の会談の詳細が判明したわけではない。党内融和のカギになるやりとりがあったのは確実で、いずれわかるだろう。
ところで、戦後政治を彩るさまざまな極秘会談のなかで、印象に強く残るものが二つある。
一つは、保守合同が迫った1955(昭和30)年5月15日夜、場所は東京・高輪の山下太郎(後のアラビア石油社長)邸だ。日本民主党の三木武吉総務会長と政敵、自由党の大野伴睦総務会長が向かい合った。
仲介したのは毎日新聞の老練政治記者、西山柳造、西谷市次の2人である。三木に、
「なんとか大野に会わせろ。国家の大事で会いたがっていると伝えてくれ」
と頼まれ、2人が大野を説得して実現したのだった。この一夜の緊迫した会談で、戦後政治の大きな節目になった保守合同、自民党の結党が決まる。
会談の秘密はしばらく保たれ、毎日新聞の特ダネにもならなかった。当時、大野を担当していた読売新聞の渡辺恒雄記者(現主筆)は、のちに「回顧録」のなかで、
「2人の毎日記者は書くより三木、大野の信用を優先しているように思えた。僕はこのタイプの『大記者』になりたいとは思わなかった。信用も必要だけれど、書くのが本業だからね」
と語っている。政治家と記者の関係もいまとは違った。
二つ目は、田中角栄元首相の失脚による後継問題で騒然としていた74年11月27日早朝、東京・世田谷の永野重雄日商会頭(新日鉄名誉会長)邸だ。ポスト田中の有力候補、福田赳夫前蔵相と大平正芳蔵相の極秘会談は、福田の側近で大平ともじっこんの坊秀男元厚相らが会談の実現に駆けずり回った。
介添え役の永野も同席し、福田側に立って、
「2年前の総裁選では、福田さんが田中さんに次いで2位だった。ものごとには、おのずから長幼の序もあるのではないか」
などと口説いた。譲れ、という談判である。当時、福田69歳、大平64歳。しかし、折り合いはつかず、結局、椎名悦三郎副総裁の裁定で、間隙(かんげき)を縫うように三木武夫の出番になった。
もし大平が譲って、福田擁立に回っていれば、その後の政治史は随分違ったものになっていたが、そうもいかないのが党内力学だった。この会談もしばらく極秘のままで、年が明けメディアが嗅ぎつけた。
福田・大平会談から37年、様変わりである。政治家の小粒化と並行するように、極秘会談のスケールも小さくなった。(敬称略)
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