http://www.asyura2.com/11/senkyo119/msg/744.html
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日本の統治構造と昨今の政策課題についてなかなか鋭い見方をしている論考なので転載させていただく。
同じ「ダイヤモンドオンライン」には、元大蔵官僚の森信茂樹中央大学法科大学院教授による「論理なき税制改正に陥る恐れあり 民主党の税制決定システムの落とし穴 」という論考があり、「芝居の脚本を書く側」らしく、山崎氏とは実に対比的な内容なので、これも転載させていただく。
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国の不幸を長期化させる霞ヶ関株式会社の「ビジネス・モデル」 :山崎 元氏
芝居の脚本は官僚が書いている
野田新内閣に対する「どじょう内閣」という言葉にもそろそろ飽きてきた。もともと、どじょう鍋は、久しぶりに思い出すと食べてみたくなるが、何日も続けて食べたいと思うような食べ物ではない。
特に、官僚作文のつなぎ合わせのような新首相の所信表明演説原稿(「日本経済新聞」なら13日の夕刊に全文が載っている)を読み返すと、結局、この内閣は、官僚が脚本を書く田舎芝居の新しい演目に過ぎないことが分かって、早くも「もういい」という気分に傾く。前とその前の演目(内閣)では、演者達のわがままで「政治主導」というアドリブ重視を試したものの、役者の力量が追いつかず芝居にすらならなかった。今回の内閣は、教訓を踏まえて、ひときわ脚本家(官僚)に従順のようだ。
いずれにせよ、現政権、前政権、前々政権、あるいはその前の自民党政権も含めて、政治は主体的に機能していない。政権毎のパフォーマンスに差はあるかも知れないが、集団としての官僚(以下、慣例に従って官僚を「霞ヶ関」と総称する)が日本の社会と経済を動かしていると考えるべきだろう。
申し訳ないが、首相をはじめとして、今の内閣や党役員の面々に、官僚から見て「この人は出来る(=能力がある)かも知れない」、「この人にはかなわない」と思わせるに足るような能力や凄みを感じさせる人物は殆どいない。国会答弁でも、国際会議でも、閣僚のお世話をする官僚は、大学時代の家庭教師のアルバイトを思い出すような心境だろうと拝察する。これは、政治家に能力や凄みではなく、親近感程度のものを期待して、政治家(ひいては国のリーダー)を育成することに不熱心だった国民の気分がもたらした帰結だ。多くの政治家が「好感度」くらいしか磨いてこなかったわけだから、官僚に対する睨みもきかないし、選挙でも、テレビ芸人上がりの候補に負けたりする。
「霞ヶ関」には国民の不幸が好都合なのか?
野田新首相に指摘されるまでもなく、現在の日本に課題は多い。経済に近いものを幾つか挙げると、先ず(1)東日本大震災からの復興に向けた動きが遅い、(2)長年続くデフレからの脱却が出来ない、(3)円高で多くの産業・企業が苦しみ雇用にも悪影響が出ている、(4)社会保障、特に年金の改革が予定通り進んでいない、(5)日本の財政問題に関する議論が混乱している、といった諸問題がある。
これらに加えて、外部環境の問題として、欧州と米国の状況が、共に怪しいを通り越して「まずい」に変わりつつある(資産価格下落と未処理の「含み損」があるのだから、日本の経験からして「まだまだ終わらない」のが当然だ)。
さて、日本にとっての諸々の課題を眺めてみて、一つの仮説に思い至った。それは、「霞ヶ関」は、震災や円高、あるいはデフレのような困難をむしろ歓迎しているのではないか、もう一歩進めて考えると、長引く困難を利用することが彼らの「ビジネス・モデル」として定着しつつあるのではないかということだ。
推測(仮説)をそのまま事実であるかのように書くのでは、たちの悪い陰謀論と同類なので、以下、筆者が事実だと思っていることと、仮説がなるべくはっきり区別できるように気をつけて書くことにする。
たとえば、震災復興
先ず、東日本大震災からも復興を考えよう。本格的な復興に対応する第三次補正予算がこれから審議されるという復興作業のペースは「非常に遅い」。これは事実だと思う。
では、「霞ヶ関」にとって復興は早い方がいいのか、遅い方がいいのか。もちろん、個々の官僚が自分の利害のために意図的に復興を遅らせているとは思いたくないが、復興に関わる細目はある程度時間を掛けて決まる方が「霞ヶ関」がこれに深く、有効に関与して「利権化」することが容易である。
ここでは、現役官僚の権限が強まることと、これを背景にして将来の天下りの機会が拡大することを、霞ヶ関の「利権」と考え、利権を拡大することが彼らの利害に叶う「ビジネス」なのだと考えてみることにする。
本当は、時間的に早くて且つ即効性があり、個々の地域、ひいては個人のニーズに対応しやすいのは、被災者に主として現金を配布することだ。被災者は緊急に個々のケースで必要な目的にお金を使えばいい。被災地から他の地域に移りたい人もいるだろうし、地元に残りたい人もいるだろう。地域や個人に選択を与えつつ、両方に対応できる支援は現金支給だ。
しかし、現金の交付、特に複雑な手続きや審査が伴わない単純な見舞金支給は、官僚(この場合、「霞ヶ関」と自治体両方だが)の「利権」につながらない。現金配布は、子ども手当が「霞ヶ関」に憎まれたのと同様、利権にならないばかりか、他の利権に活用すべき予算を圧迫する。
従って、「霞ヶ関」としては、菅前首相をたきつけて(或いは、有効な手立てを教えずに)、具体策がまとまりそうにないメンバーで東日本大震災復興構想会議のような会議を作って時間を稼いだのではなかろうか(こちらは、私の仮説だ)。
また、「霞ヶ関」としては、震災からの復興は増税のための仕掛けを仕組みたい重要なイベントだった。このためにも、直ぐに国債で資金調達できてしまう即効性のある復興作業ではなく、「財源」の議論と並行して、復興のあり方がぐずぐず論じられる展開が好都合だった。
上記は、仮説にしても、あまりにも悪意が籠もった仮説であり、現実離れしているだろうか。
「円高」利用は完成されたモデル
では、「円高」はどうか。実は、筆者が、今回の仮説を思いついたきっかけは、民主党代表選の少し前に「円高対策」として打ち出された、外為特会の外貨を使い海外投資を支援する数兆円規模の基金の構想のニュースを見たことだった。
この記事を見て、筆者は、既に外貨になっている資産を海外投融資に回すことがどうして円高対策なのかはじめはピンと来なかったが、民間も合わせて資金を出すのでドル需給的に、ドル買いの呼び水くらいになるかも知れないということが何とか分かった。
しかし、これは税金(政府資産)を使った一種の空洞化支援ではないのかという疑問が新たに生まれたことに加えて、今度こそピン!と来たのは、「ああ、これは『霞ヶ関』の利権拡大の手段なのだな」ということだった。
どういうことか。先ず、この図々しくも円高対策を名乗る資金を扱う組織だが、新しく基金を作るならポストが増えるし、JBIC(国際協力銀行)がまとめて扱うとしても、JBICの案件と、従って権限を大幅に拡大し、これは、財務省の国際派人脈にとっては、豊かな利権の源になる。
報道されているように、資源確保や海外のM&Aに使うお金を、好条件で融資ないし出資して貰えるなら(注;市場で得られる好条件でないと案件が増えないから、案件の存在は何らかのメリットの提供を証明することになる)、企業にとっては大きなメリットがある、大変嬉しい話だ。対象企業は、財務省OBが「行ってもいい」と思えるような世間体のいい大企業が中心だろう。しかも、融資や出資は条件審査が複雑だから裁量の余地がたっぷりある。
円高という「苦難」に対して、海外投資を支援する基金のような仕掛けを「対策」を名目に導入し、「霞ヶ関」側では「利権」を拡大・確保する。これは、「ビジネス・モデル」として既にパターン化されているものの、典型的な応用例なのではないか。
野田首相の演説原稿では、「円高阻止にあらゆる手段」とはいうものの、具体的に金融緩和の方法が述べられているわけではなく、具体的に書かれているは、「立地補助金を拡充」、「円高メリットを利用して、日本企業による海外企業の買収や資源権益の獲得を支援」といった企業のメリットと役人の利権に直結する「生臭い」話だけだ。
民主党代表戦時も含めて、野田氏が述べる円高対策とは、「円高そのものを反転」させる徹底した金融緩和のような原因に働きかけるものではなく、先に挙げたような対策や中小企業の資金繰り支援のような、「円高になった後に、これを我慢するため」の対症療法ばかりだ。
「霞ヶ関」は円高を困ったことだとは思っていないのだろう。政策批判を多少受けたり、市場介入のための根回しに汗をかいたり、介入自体が十分効かなくて恥をかいたりしても、それらは所詮「お仕事」の一コマに過ぎないし、円高の困難が続く方が上記のように「利権」を拡大できるのだから、むしろ彼らの利害の上では円高歓迎ではないのか。
付け加えると、円高になっても公務員の雇用は安泰だし、彼らの報酬は硬直的なので、実質所得が増す。
上記の「財務省の利権拡大」のストーリーは、もちろん筆者の仮説であり、当事者から話を聞いたわけではないが、こうした「利害」が存在していることは注意に値すると思う。
増税は「霞ヶ関株式会社」の増資だ
デフレでも、公務員の雇用と実質給与は安泰だし、デフレは、不況の原因となって、「霞ヶ関」による各種の「対策」の必要性を継続的に生む。
もちろん、「霞ヶ関」のビジネス・モデルにとっては、予算の規模及びその維持が決定的に重要であり、「増税」は一般企業における「増資」のような余裕を霞ヶ関株式会社にもたらす。
「利権」が有効であるためには、(出来れば現在の現役が天下りするもっと先までの)継続性がなければいけない。増税を早く確保して、将来必要になる財政支出の削減をより小さく済ませることが、すべからく「長期」が大切な霞ヶ関の住人達の重大な関心事であることは当然だ。早期の増資は、将来のリストラの苦悩を和らげる。
また、「霞ヶ関」のビジネスは、大根役者(政治家)達に脚本を書き渡して国会で法案を通し、予算に盛り込むことでこれを実行する形を取るので、基本的には、一年をサイクルとして進行する。しかも、長期的に利権に関わることが将来も期待されるからこそ、天下りに需要が発生する。
「ドッグイヤー」などという言葉さえある、せわしい民間のビジネスとは全く異なるスロー・テンポで物事が進むので、円高も、デフレも、そして利害の上では震災復興さえも、ある程度定着してゆっくり進むことが「霞ヶ関」には好都合なのだ。
政治や経済への関心がある方の殆どが、「日本では、何に対する対応も信じられないくらい遅い!」と腹を立てたり、絶望したりされているのではないかと拝察するが、支配的集団である「霞ヶ関」のビジネス・テンポが影響しているので、やむを得ない側面がある。
ここでは詳しく触れないが、利益集団であり実質的なビジネス体である「霞ヶ関」には特定個人の支配者なり黒幕なりがいる訳ではなさそうだ。人事制度的に彼らのメンバーが固定的である(実質的に40年以上の長きにわたって、お互いの面倒を見合う、固定メンバーの利益集団でこれだけ大規模なものは他にない)ことから、競争力・影響力を持ち、且つ長年にわたって形成・純化された、幾つかの自生的な行動ルールが、おそらく「官僚支配」といわれるものの正体だろう(想像するに、回遊魚の群れやオキアミなどの群れの振る舞いを規定するルールに近い少数の行動原理なのだろう)。
従って、「個々の官僚」は、自分が自分のために利権確保に動いていると思っていないだろうし、国の困難に対しては、それぞれなりに国民のための努力をしているという自己認識を持っているのだろうと筆者は推測している。
ポイントは、個々の官僚の意図や倫理観の問題ではなく、官僚集団の利益に着目した時に、国民が直面する不幸をむしろ歓迎する「利害」が存在することだ。この利害は、国民の不幸の解消に「霞ヶ関」(本石町辺りの金融子会社も含む)が不熱心であることの原因になりかねないし、下手をすれば国民の不幸の積極的な長期化につながりかねない。この構造は変えた方がいい。
以上、筆者の仮説に過ぎない推測を述べてみた。
もちろん、仮説だから間違っているかも知れないし、むしろ、この仮説が間違いである方が嬉しいくらいのものだ。
仮に、官僚による裁量の余地が少ない現金による再分配がスピード感を伴って広く行われたり、デフレと円高をもたらしている金融政策と財政政策のミックス(筆者は、現在のデフレに関して、日銀だけではなく、財政政策にも問題があると考えている)が有効なデフレ対策に向かって直ちに修正されたりするような「嬉しい反証」があれば、今回の仮説は、喜んで撤回する。
それまでは、折に触れて、この仮説を思い出しながら、脚本家(官僚)達の利害を推測しつつ、(主に政治家が演じる)田舎芝居を見物することにする。
http://diamond.jp/articles/-/14090
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論理なき税制改正に陥る恐れあり 民主党の税制決定システムの落とし穴 :元大蔵官僚森信茂樹 [中央大学法科大学院教授]
生煮え代表選挙の「つけ」
野田新総理は、民主党代表選で増税の必要性を訴えて当選し、総理の座についた。増税を訴えて総理になった例は自民党にもなく、おそらく初めての政治家ではないか。
私は、この出来事の背景には、国民の過半が感じている、「いずれ増税はやむを得ない、そのことを正直に語る政治家を選ぶべきではないか」という意向が反映されたのではないかと考えている。その証拠に、就任早々に行われた新聞の世論調査をみると、総理支持率は6割を超えるものであった。
そうはいっても、増税への道は簡単なものではない。党内には本音で増税反対の議員が多く残っている。前回のこの欄「民主党代表選では、党内融和優先ではなく政界再編の先駆けとなる政策論争を」で指摘したように、代表選で政策議論を徹底的に尽くさず、生煮えのまま選挙だけを行った「つけ」ともいうべきものが今後顕在化する可能性がある。増税に向けて党内の意見を集約することは容易ではない。
自民党も、簡単には政策協議に応じないであろう。そもそも大平内閣、中曽根内閣、細川内閣という3代の内閣が、増税を志しながらもとん挫し、内閣の命を絶つ要因となったことからもわかるように、常に増税はホットイシューだ。
望みは、野田総理の演説のうまさである。増税については、国民がやむを得ないと思うかどうかが決定的に重要である。たとえば復興増税についても、あれだけ民主党代表候補は反対したにもかかわらず、国民世論はむしろ賛成意見のほうが多い。このことは、いかに政治家が増税から逃げてきたかということを物語っている。
その際重要なことは、国民の説得には、一体改革についてのもっとわかりやすい説明と、一層の歳出削減や社会保障改革の具体案を示す必要がある。消費税率を5%引き上げなければならない根拠についての説明は、あまりに複雑で、現状では国民に全く浸透・理解されていない。
野田新総理には、派手なパフォーマンスこそ期待できないものの、地道に政策運営を行っていく姿勢は、きっと国民から評価されるであろう。国民からのそこそこ高い支持率こそが、党内や野党との政策合意を有利に進める唯一の方法・手段となる。
成長戦略がないといわれるが、今の日本において、突然3〜4%もの経済成長をする条件は見つからない。むしろ、一体改革により、若者が安心できる社会を作ることが、最大の景気対策ではなかろうか。
では、「落とし穴」はないのか。それは、民主党の新たな税制決定システムの中にある。
自民党の税制決定システムとは
自民党政権下の政策決定の最大の特色は、党と政府の2元的意思決定であった。各省といわゆる族議員・政調部会との間で、利益団体の意向をくみ上げつつ、政策が決定されてきた。
このやり方は、民主主義の意思決定方法としては、決して外れたものではないが、意思決定中枢機能が空洞化し、最終責任を不明確にし、パッチワーク的な政策しか打ち出せない原因であると非難されてきた。
ところが、こと税制に関しては、予算編成とは異なる意思決定が行われてきた。自民党税制調査会という絶対的権威が存在し、○と×をつける最終決定を行ってきた。その意味では、党のもとでの一元的決定が行われてきており、責任の所在も明確であった。
そして、どのような論理で税制改正を行うのかという論理・考え方は、民間有識者をメンバーとした政府税制調査会で議論・構築され、財務省(大蔵省)主税局が、自民党税調との間をつなぐという方法が採られていた。もっとも、政府税調の理論を無視した党税調の決定も多く見受けられたことも確かである。
このように、政府税調は論理、党税調は意思決定と役割が分離され、個別の利害からは多かれ少なかれ距離を置いた専門的知識の豊富な長老政治家が、役人主導ではなく、自らの判断で決断してきたというのが自民党時代の税制の意思決定であった。
論理こそが税制改正の最後の「砦」
この自民党時代の意思決定システムには、透明性に欠ける、責任の所在が政府ではなく不明という大きな欠陥があった。そこで民主党は政権交代後、政府意思決定一元化という考え方のもとで与党税調を廃止し、財務大臣の下に政治家をメンバーとする新たな政府税調を設置した。しかしこのシステムは、税調に議論を仕切る政治家がいなかったことから、うまく機能しなかった(この点については、稿を改めたい)。
そこで今回、党税調を復活させ、税制に関する豊富な知識を持ち、個別利害から離れ大局的見地から判断できる政治家として、藤井裕久氏がにらみをきかすシステムを作り上げた。党税調の了解なしには政府の決定はない、という制度にしたのである。
これは、自民党時代の長所を取り入れた、ということのようだ。
しかし、重大な欠陥がある。政府税調も政治家、党税調も政治家で、税制改正の論理を作るところがなくなってしまった。政治家は、財務省や各省に資料を発注するしかない。それでは彼ら(財務省や各省)に都合のよい資料しか出てこない。
この点をカバーするために、専門家委員会というのがあり、私もその特別委員を命じられているのだが、実際にはほとんど活動していない。税制改正には論理が必要だ。政府・党2つの税制調査会が、業界の個別利害から離れて意思決定を行うためには、論理こそが最後の「砦」なのだから。
http://diamond.jp/articles/-/14089
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